家なき幼稚園
家なき幼稚園(いえなきようちえん)は、橋詰せみ郎(本名は良一、1871年 - 1934年)によって創設された幼児教育運動である。
歴史
[編集]1922年(大正11年)、大阪府池田市で始められた。きっかけになったのは、前年1921年、勤務していた大阪毎日新聞社からヨーロッパ出張を命じられ、その帰国の途中、シンガポールで病気になり、帰国後3か月間自宅療養を余儀なくされた時、自分の9人の子どもと一緒に明け暮れするうちに、学齢前の幼児が、おとなと一日一緒にいることは、子どもにとって犠牲を要求されることがあまりに多い、それは決して好ましいことではないという考えに至ったから。ドイツで見た「ハウスレス・キンダーガルテン」もヒントになった。そこで、大阪毎日新聞社の社長・本山彦一に相談。声援だけでなく、物質的な援助も約束されて、翌年春、住まいのある池田市室町の一帯に「家なき幼稚園設立趣意書」を配布して園児を募った。
子どもは子ども同士の世界に住まわせ、家という建物の枠から開放して、自然の中で育てるのが何よりの幸福であると思いついた。 子ども同士の世界の中で、子ども自身が、自覚、自省、自衛、互助、娯楽する世界を提供するというのがその主旨である[1]。
当時の池田市室町周辺200戸のうち、60人の入園希望者を集めて開園した。幼稚園の名前は、当初「自然幼稚園」、「野の幼稚園」という候補もあった[2]。
概要
[編集]最大の特徴は、園舎を持たずに、公園や河原、里山などの戸外で保育を行ったことにあった。これは、家族制度と家屋という2つの「家」から子どもを自由にするという橋詰の考え方に基づく。倉橋惣三(「幼児の教育」1924年4月号)、志垣寛(「教育の世紀」1924年4月号)などが保育誌に取り上げたこともあって、一時は関西中心に6園にまで広がった。1924年に宝塚家なき幼稚園ができ、同年5月に十三家なき幼稚園、6月に箕面家なき幼稚園、10月に大阪家なき幼稚園、12月に雲雀丘家なき幼稚園、そして翌1925年には千里山家なき幼稚園ができ、合わせて6つの家なき幼稚園ができた。最初の室町家なき幼稚園を含めて7園になる。これらは、それぞれ設置された幼稚園の土地の条件に合わせて特色を持った。最初の池田家なき幼稚園は、呉服神社の森を中心にした森の幼稚園だとすると、宝塚は、武庫川のきれいな流れのほとりの川の幼稚園、箕面のそれは松林のある千里山を中心とする山の幼稚園という具合。一番特色が会ったのは、野外教育に相応して場所のない、家の密集した大阪家なき幼稚園で、これは毎日、子どもをフォードの乗合自動車2台で郊外に連れ出すという方法をとった。行きたいと思うところ、どこへでも行くというジプシー幼稚園と呼ばれた。そのなかのひとつ大阪家なき幼稚園では、乗り合いバスで園児を郊外に連れ出して保育を行うという特色ある保育を実践した。
橋詰良一により「大阪家なき幼稚園」が設けられた。橘詰は、子どもの保育は「大自然の世界」が最適であるとして積極的に郊外での保育を考えた。大阪市内六〇 余力所に幼児の集合所を設け、2台の自動車で予定された郊外へ行って保育を行った[3]。
ただし、この通園自動車の許可を得るのに、幼稚園令では「家なき幼稚園」では許可が出ないということで、1929年、姉妹園6園がそろって「自然幼稚園」と名称を変更した。これは1932年まで続いた。12年間続いたが、橋詰の死後、7園はそれぞれに後継者が二転三転して、室町家なき幼稚園は学校法人室町学園・室町幼稚園として、存続している[4]。雲雀丘家なき幼稚園は、学校法人雲雀丘学園幼稚園となっている。
保育の実際
[編集]幼稚園の保育項目は、「歌えば踊る生活」「お話をする生活」「お遊びをともにする生活」「回遊にいそしむ生活」「手技を習う生活」「家庭めぐり」の6つであるという[5]。
朝の登園は、当初せみ郎の家の前に集合することにしていたが、雨が降ると、家の中に60人の子どもが入り込んできて、どうしようもなくなるので、
脚注
[編集]- ^ “室町幼稚園の歩みと遠隔”. 室町幼稚園. 2021年7月4日閲覧。
- ^ 上笙一郎・山崎朋子 (2005). 日本の幼稚園. ちくま書房. p. 165-170
- ^ 新修大阪市史編纂委員 (2005). 新修・大阪市史. 大阪市. p. 733
- ^ “未来への伝言『家なき幼稚園』(1)”. The Epoch Times (2006年12月15日). 2021年7月4日閲覧。
- ^ 汐見稔幸・松本園子・矢治夕起・森川敬子 (2017). 日本の保育の歴史. 萌文書林. p. 152-153
- ^ 上笙一郎・山崎朋子 (2005). 日本の幼稚園. ちくま書房. p. 171-174