孝文幽皇后

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孝文幽皇后(こうぶんゆうこうごう、469年太和23年(499年))は、北魏孝文帝の2人目の皇后。姓は馮氏は不詳[1]

経歴[編集]

馮熙の庶出の娘として生まれた。文明太后(馮太后)の姪に当たる。生母の常氏は下賤の出自だったため妾のままであったが、寵愛を受け、正妻(博陵長公主)の死後、奥向きのことを取り仕切っていた。

14歳の時、馮太后の選択で一人の妹(後の一人の昭儀馮氏)と共に後宮入りし、孝文帝の妃となった。その妹が早世した。美女であり、寵愛を受けた。しかし太和13年(489年)に病気になり、馮太后に後宮を去って実家で静養するよう命じられた。翌年、文明太后が崩御した。

太和19年にようやく病が癒えて洛陽に行く、再び後宮入りし、左昭儀となった。しかし三妹がもう孝文帝の皇后となった。このことから妹を逆恨みするようになる。

再び後宮入りした後は、ことあるごとに孝文帝に妹を讒言し、後宮から追放することに成功した。太和20年(496年)、孝文帝の次男の母高照容が変死するが、この裏にも馮昭儀の陰謀があったとされる。同年、皇太子元恂が廃位された後、高貴人出生の元恪が次の皇太子に指名された。翌年七月、皇后に立てられた。

その後、孝文帝が出征すると、皇后は宦官高菩薩らと乱行に耽るようになり、また自身の権力を固めるため、当時寡婦になったばかりの義妹(孝文帝の異母妹)彭城公主を自身の同母弟の馮夙と結婚させようとした。これらの所業が、戦陣にあった孝文帝に密告されるところとなる。孝文帝は当時病床にあったが、その報告を聞くや都にとって返し、処罰を下した。皇后の愛人たちは処刑された。皇后自身も、廃位は免れ、皇后として妃嬪たちから尊礼を受けたものの、皇太子との連絡を禁止された。

孝文帝の病は重くなり、太和23年(499年)、谷塘原に崩御したが、「没後にその後宮は殺害し、自分と合葬するように」と遺言した。遺言を奉じた孝文帝の弟・北海王元詳らが皇后に自害するよう説いたが、皇后は嫌がり叫び逃げ回ったため、最後は人々に押さえ込まれて無理矢理毒を飲まされ、殺害された。「幽」とされ、長陵の墓場に葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ 幽皇后の諱は「潤」とされることがあるが、信頼できる史料上には見られない。