妙源寺 (岡崎市)

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妙源寺

柳堂(重要文化財)
所在地 愛知県岡崎市大和町字沓市場65
位置 北緯34度56分54.84秒 東経137度7分26.84秒 / 北緯34.9485667度 東経137.1241222度 / 34.9485667; 137.1241222座標: 北緯34度56分54.84秒 東経137度7分26.84秒 / 北緯34.9485667度 東経137.1241222度 / 34.9485667; 137.1241222
山号 桑子山
宗派 真宗高田派
本尊 阿弥陀如来
創建年 (伝)1258年正嘉2年)
文化財 柳堂、絹本著色善光寺如来絵伝 3幅、絹本著色法然上人絵伝 3幅、絹本著色親鸞上人絵伝 3幅、絹本著色光明本尊 3幅(重要文化財
法人番号 7180305001009 ウィキデータを編集
妙源寺の位置(愛知県内)
妙源寺
妙源寺
妙源寺 (愛知県)
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妙源寺(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町にある真宗高田派寺院。山号は桑子山。本尊阿弥陀如来

概要[編集]

文暦2年(1235年)、親鸞が関東より帰郷する途中、当地に立ち寄ったことが始まりとされる。付近の領主安藤薩摩守信平は親鸞を柳堂(以前は「太子堂」といった)に招き説法を聞いた。上人の教えに感化された安藤信平は武門を仏門に入り念信と改名。正嘉2年(1258年)に寺を建て、これを明眼寺(みょうげんじ)と名付けたと伝えられる。16世紀の高田派の応真真智による相続争いに際しては、満性寺とともに真智方の中心寺院として活動したため、次第に権威は後退した。三河一向一揆1563年1564年)の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れた。これにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称した。三河地方の真宗の道場で最も古い道場と言われている。裏の墓地には安藤直次高木清秀など、多くの武士の墓がある。

慶長8年(1602年9月11日徳川家康より朱印地30石を拝領した[1]

毎年8月7日、8日に虫干しを兼ねた展観を行っている。

少年時代桑子学校(現在の岡崎市立矢作南小学校)に通った本多光太郎博士の墓が本寺にある。

重要文化財[編集]

以下の物件が国の重要文化財に指定されている[2]

柳堂は建築の様式から、1400年代前半頃に建立された堂と推定される。よって、寺に保存されている正和3年(1314年)の上葺棟札は前身の堂のものと考えられる。

指定名称 種別 指定年月日
妙源寺柳堂
附:厨子及び須弥壇一具、棟札5枚
建造物 1903年明治36年)4月15日
絹本著色善光寺如来絵伝 3幅 絵画 1918年大正07年)4月08日
絹本著色法然上人絵伝 3幅 絵画 1918年(大正07年)4月08日
絹本著色親鸞上人絵伝 3幅 絵画 1918年(大正07年)4月08日
絹本著色光明本尊 3幅 絵画 2014年平成26年)8月21日

ギャラリー[編集]

交通手段[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『新編 岡崎市史 近世 3』新編岡崎市史編さん委員会、1992年7月1日、117頁。 
  2. ^ 岡崎市指定文化財目録 | 岡崎市ホームページ

参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、382-383頁。 
  • 『岡崎 史跡と文化財めぐり』岡崎市役所、2003年1月1日、131-132頁。