大島伯鶴
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大島 伯鶴(おおしま はっかく)は、講釈師の名跡。
初代
[編集]本名:大島 光利、(安政4年)1857年 - (大正元年)1912年12月21日[1]。
白河藩士の家に生まれ、講談の中興の祖と言われた2代目松林伯圓の門下で大島圓鶴。1903年に大島伯鶴に、1911年に実の子に名を譲り大島東玉と名乗った。従軍講談師で知られる。
2代目
[編集]本名:大島 保利(おおしま やすとし)、(明治10年)1877年4月8日 - (昭和21年)1946年4月2日[2]。
- 1879年4月、初代大島伯鶴を父として福島県白河に生れた。幼くして父と上京、父とは別に相撲の行事を志したが反対される。
- 13歳の時にもう一つの夢であった講談の道に入り、旭堂南慶に預けられ、大島鶴童を名乗る。後に大島芝鶴を経て、大島小伯鶴と改名。
- 1911年、大島伯鶴を襲名。
- 1946年4月2日、咽頭癌に冒され死去。
初代伯鶴の子息。昭和十年代には6代目一龍斎貞山と人気を二分し、ラジオ出演も多かった。
得意ネタに「寛永三馬術」「笹野名槍伝」「快男子」など。