コンテンツにスキップ

大島伯鶴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大島 伯鶴(おおしま はっかく)は、講釈師の名跡。

初代

[編集]

本名:大島 光利、(安政4年)1857年 - (大正元年)1912年12月21日[1]

白河藩士の家に生まれ、講談の中興の祖と言われた2代目松林伯圓の門下で大島圓鶴。1903年に大島伯鶴に、1911年に実の子に名を譲り大島東玉と名乗った。従軍講談師で知られる。

2代目

[編集]

本名:大島 保利(おおしま やすとし)、(明治10年)1877年4月8日 - (昭和21年)1946年4月2日[2]

  • 1879年4月、初代大島伯鶴を父として福島県白河に生れた。幼くして父と上京、父とは別に相撲の行事を志したが反対される。
  • 13歳の時にもう一つの夢であった講談の道に入り、旭堂南慶に預けられ、大島鶴童を名乗る。後に大島芝鶴を経て、大島小伯鶴と改名。
  • 1911年、大島伯鶴を襲名。
  • 1946年4月2日、咽頭癌に冒され死去。

初代伯鶴の子息。昭和十年代には6代目一龍斎貞山と人気を二分し、ラジオ出演も多かった。

得意ネタに「寛永三馬術」「笹野名槍伝」「快男子」など。

出典

[編集]
  1. ^ 大島 伯鶴(初代)」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%20%E4%BC%AF%E9%B6%B4%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%29コトバンクより2022年10月26日閲覧 
  2. ^ 大島 伯鶴(2代目)」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%20%E4%BC%AF%E9%B6%B4%282%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29コトバンクより2022年10月26日閲覧