劉元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 元(りゅう げん)は、

  1. 中国前漢時代後期の人(? - 紀元前56年)。平干繆王。漢の景帝の曾孫で、趙敬粛王劉彭祖の孫にあたる。元鳳元年(紀元前80年)、父の平干頃王劉偃を後継して平干王となる。しかし五鳳2年(紀元前56年)、謁者殺害に連座した。そのため、彼が死去しても子の劉林が封国の継承は許されなかった(『漢書』諸侯王表、景十三王伝)。
  2. 中国代の女性(? - 22年)。以下で詳述する。

劉元
続柄 光武帝の姉

全名 劉元
称号 (追贈:新野節義長公主)
死去 地皇3年(22年
埋葬 邙山
配偶者 鄧晨
子女 鄧汎
女子3人
父親 劉欽
母親 樊嫻都
テンプレートを表示

荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の姉。後漢草創期の功臣鄧晨の妻。父は劉欽。母は樊嫺都。姉は劉黄。弟は劉縯劉仲・劉秀。妹は劉伯姫。1男(鄧汎)3女の母。死後、新野節義長公主の位を追贈されている。

地皇3年(22年)、弟の劉縯・劉秀らが反新の挙兵を行ったが、同年末の小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで、劉縯らの軍は新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜・前隊属正(新制の南陽都尉)梁丘賜に大敗した。

この時、敗走する劉秀は、途中で劉伯姫を救出し、これも馬に乗せて逃走する。さらに2人は、姉の劉元とその3人の娘を見つけだし、これも救おうとした。しかし劉元は、自分たちが足手纏いになると判断し、救助を謝絶して劉秀と劉伯姫にそのまま逃げるよう告げる。こうして劉秀と劉伯姫は死地を逃れたが、劉元と3人の娘は新軍の手にかかって落命してしまった。また、弟の劉仲も、この時に戦死している。

建武元年(25年)6月、劉秀が光武帝として即位すると、鄧晨は房子侯に封じられた。この時、亡き妻の劉元も、新野節義長公主の位を追贈され、新野の西に廟が立てられている。そして、鄧晨と劉元の間に生まれた息子の鄧汎も呉房侯に封じられ、劉元の祭祀を司ることになった。

参考文献[編集]

  • 後漢書』列伝5鄧晨伝
  • 同列伝4斉武王縯伝

関連項目[編集]