光徳寺 (長野県南木曽町)
光徳寺 | |
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所在地 | 長野県木曽郡南木曽町吾妻上町605 |
山号 | 瑠璃山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 薬師瑠璃光如来 |
創建年 | 伝・明応9年(1500年) |
開山 | 伝・悟渓宗頓 |
開基 | 中興開基 山村道勇 |
中興 | 性天 |
札所等 |
中部四十九薬師霊場第二十一番 木曽西国三十三ヶ所観音霊場二十八番 |
法人番号 | 5100005007595 |
光徳寺(こうとくじ)は、長野県木曽郡南木曽町の妻籠宿にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は瑠璃山。中部四十九薬師霊場第二十一番、木曽西国三十三ヶ所観音霊場二十八番。
歴史[編集]
明応9年(1500年)、悟渓宗頓の開山に始まるとされる[1]。
しかし悟渓宗頓は、この年に大本山妙心寺の住持として遷化しているので、あくまで伝承の域を出るものではない。
寺伝によると、天正11年(1583年)、伊那郡の開善寺の性天が五間四方の薬師堂を建てて隠居寺としたことに始まるという。中興開基は、山村道勇である[1]。
光徳寺に関する最も古い史料は、慶長4年(1599年)閏三月の「瑠璃山光徳禅寺 本尊薬師瑠璃光如来奉刻彫勧進帳」[2]で、本尊の薬師瑠璃光如来像は木山の作と記されている。
また当山住持伝法沙門性天宗広(花押)があることから一世は性天であることが分かる。
貞享3年(1686年)の「妻籠宿覚書」の「宿割りの覚」に光徳寺の規模について以下の様に記されている。
方丈 五間六間南向き、 衣座 四間に弐間、 廊下 弐間に参間、庫裡 四間に六間、寺より庚申堂へ 十一間、衆寮 六間に南北弐間半東西。
庫裡は、天和2年(1682年)に建てられたとの伝承があるが、現在の建物であるかは不明である。
方丈は、享保11年(1733年)11月に、村内から浄財を 七十六両三分 集めて現在の建物に改築している。
境内にあった枝垂桜は「祇園桜」と呼ばれ、九世の天涼が、三留野宿本陣の鮎沢氏の出で、その縁から和合遠山氏から貰った桜を植えたものであったが、枯れたため平成16年(2004年)に伐採された。
十二世の中外は石工の技に秀でた人物で、文化10年(1813年)、蘭川(あららぎがわ)の河原で見つけた「延命岩」を現在地まで運び上げ蓮華台を刻んで安置している。
十五世の遂應は美濃国稲葉郡の出身で、縁あって嘉永2年(1849年)光徳寺の法統を継いだが、優れた土木技術を持ち、明治になると細の山を開拓したり、舟ヶ島から渡島に至る「大明神井水」を自ら測量設計して開通させ、田を十町歩開墾した。
明治4年(1871年)8月に描かれた光徳寺境内図には、外塀、如是庵、観音堂が描かれているが、現在は存在していない。
寺宝[編集]
- 光徳寺に残る人力車の祖型である「車付駕籠」(屋根:縦1.55m、横1.1m、高さ1.17m、柄の長さ2.6m、車輪直径1.05m)は遂應の発明である。
- 本尊薬師瑠璃光如来奉刻彫勧進帳 (南木曽町指定文化財)