井出正矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井出正矩
時代 江戸時代中期
生誕 貞享3年(1686年
死没 宝暦元年11月14日1751年12月31日
改名 法号: 日恵
別名 通称:八十郎、十左衛門、太左衛門
主君 徳川綱吉
氏族 井出氏
父母 父:井出正方、母:西尾重春の娘
兄弟 井出正矩、岡本保江室
久野伊兵衛某の娘
井出正賢、井出正壽、友之丞
テンプレートを表示

井出 正矩(いで まさのり)は、江戸時代中期の武士

出自[編集]

井出正矩は井出正方の子であり、井出家(正員系)の系譜である。『寛政重修諸家譜[1](以下『寛政譜』)の井出正方に「其後病者たるにより、家をつがず」とあるように、父は家督を継がず正矩が継ぐ形となる。

血筋としては( – 正直 – 正俊 – 正信正員正徳 – 正方 – 正矩)となる。

略歴[編集]

『寛政譜』によると、以下のようにある。宝永3年(1706年)7月に祖父の家を継ぐ形で家督を相続し、500石を知行される(叔父の井出正栄に200石の地を分かち与える)。同年10月に初めて徳川綱吉に拝謁する。

宝永5年(1708年)閏正月には叔父の井出正基の租税滞り分の返納を命ぜられる(同族絶家の問題を参照)[注釈 1]

享保9年(1724年)10月に小姓組の番士となり、宝暦元年(1751年)11月に享年66で死去。

『御家人分限帳』には「五百石 常陸 伊豆 藤左衛門子 井出十左衛門 戌二十三」とあり、正矩23歳のとき常陸国および伊豆国に500石の知行地があった[2]。正矩は祖父である正徳より家督を譲られるが、『寛政譜』に「叔父弥五郎正栄に二百石の地をわかち与ふ」とあるように、うち200石(700石のうち)は正栄に分かち与えている[注釈 2]

そのため『御家人分限帳』には「弐百石 常陸伊豆 太左衛門分知 井出弥五郎 戌四十二」とあり、井出弥五郎(正栄)の200石が分知であることが記される[3]

正基の租税滞り分は『徳川実紀』に「次左衛門某が負金は償ひ納るに及ばずとなり」とあるように、享保4年(1719年)6月には免除されている[4]

家督は正矩の子である正賢が継いだが、正矩の死去から数年後の宝暦6年(1756年)2月に死去している。そのため、正賢の子である正武が10歳で家督を継いでいる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 正基は代官職を継承した井出家(正俊系)の系譜で、正基は井出正徳の二男にあたる
  2. ^ 正栄は井出家(正栄系)を興している

出典[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第千百一
  2. ^ 御家人分限帳 1984, p. 372.
  3. ^ 御家人分限帳 1984, p. 379.
  4. ^ 徳川実紀8 1999, p. 158.

参考文献[編集]

  • 鈴木寿『御家人分限帳』近藤出版社〈日本史料選書23〉、1984年。 
  • 黒板勝美『徳川実紀 第八篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。