上官勝

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上官 勝(じょうかん しょう、生没年不詳)は、三国時代、蜀漢の政治家。は不明。先祖は前漢の上官桀とされるため、本貫は隴西郡上邽県の人。子に上官茂と上官先がいる。

三国志』や『華陽国志』にも記述が無く、裴松之も取り上げていない人物だが、唐代の書物である『元和姓纂』及び『新唐書』の宰相世系表に名前が見える

概要[編集]

先祖は前漢の上官桀とされ、霍光との権力争いに敗れ、処刑された後に生まれた子の末裔であるとされる。

上官勝の明確な活躍は残っていないものの、蜀漢での位は三公の一つである太尉にまで登ったとされている[1]

三国志の記述では、蜀において三公に就任した人物は、司徒であった許靖しかおらず、以降三公が置かれた形跡はない[2]

しかし蜀志・甘皇后伝にて諸葛亮の上表文の中に「臣は太尉に要請し宗廟に報告させ、天下に宣布いたさせます。」と言った一文もあり、陳寿の誤字や情報の誤りなどでなければ、太尉に就いた人物がいたと考えられる[3]

脚注[編集]

  1. ^ 漢有右將軍安陽侯桀,生安,車騎將軍、桑樂侯,以反伏誅。遺腹子期,裔孫勝,蜀太尉。二子:曰茂、曰先。
  2. ^ 華陽国志では何宗を三公に任じようとしていたという記述があり、また『華陽国志・劉後主志』において、「蜀は最初、三公を空席にして天下の賢臣を待った」という記述もあり、三公の制度そのものは存在している様子がうかがえる。
  3. ^ 〉故昭烈皇后宜與大行皇帝合葬,臣請太尉告宗廟,布露天下,具禮儀別奏。