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ルナパーク (大阪)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新世界ルナパーク(1912年頃撮影):ロープウェイによってルナパークと初代通天閣がつながっていた。ルナパークは1923年に閉鎖した。初代通天閣はルナパーク閉鎖から20年経った1943年に解体された。
初代通天閣とその手前に写る新世界ルナパーク1912年頃撮影)右手前のアーチが新世界からルナパークへのメインエントランス。背後には通天閣付近の建物が写っている。

新世界ルナパークは、閉鎖した浅草ルナパークを引き継いで日本で二番目にできたルナパークという名前を冠する遊園地である[1]。これら日本のルナパークのコンセプトはニューヨークコニーアイランド1903年に開業したコニーアイランド・ルナパークを参考にしていた。1912年明治45年)7月3日に開園し1923年大正12年)まで営業された。大阪新世界にあり、敷地面積は132,000平方メートルであった[2]。初代通天閣から入り口までロープウェイが伸びているなどユニークな造りであった[3][4]

歴史

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ルナパークは河浦謙一[5]によって建設され所有されていた。1911年に自身が所有する浅草ルナパークと大阪の二つの映画館が火災によって閉鎖したことで、1912年に自身の映画会社である吉沢商店梅屋庄吉に売却した[6]。(この合併により日活が誕生する。)河浦はルナパークを株式会社にすることにし[7] 1912年4月に浅草区浅草公園にルナパーク株式会社を設立した。(当初は取締役であったが[8]のちに社長に就任している[9]。)

東京にルナパークを再建するよりも、河浦は二番目のルナパークを開発中の大阪新世界に建設する決断をした。同時期に初代通天閣がルナパーク建設予定地のすぐ北に建てられていた。こうしてルナパークのホワイトタワー(白塔)と高さ86mの通天閣[10][11]がロープウェイ(索道飛行船)によって結ばれ、観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるように設計された[12][13]。これはイタリアのセレッティ・タンファーニ (Ceretti&Tanfani) 社が製造した日本初の旅客用ロープウェイであった。

新世界ルナパークのアトラクションには、絶叫マシーン(サークリングウェーブ:円形のフレームに乗るところが付いていて、これが回転しながら上下する乗り物など)や、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂(奏楽堂)、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場(清華殿)、動物舎、および瀑布渓流(綾糸瀧、真澄ノ池)、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールなどが設置されていた[3][14][15][16]

新世界ルナパークは1923年のシーズンをもって閉鎖された。1943年1月には初代通天閣が火災により損傷し、そのまま閉鎖され、材料を軍事利用するために日本政府によって解体された[17][18]。戦後になって二代目の通天閣が建設され、1956年に営業を開始した[17]

アトラクション

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門と通り

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ギャラリー

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新世界ルナパーク一号館は1912年から1920年まで建っていた。初代通天閣が背後に見える。ルナパークは1923年に閉鎖した。初代通天閣はルナパーク閉鎖から20年経った1943年に解体された。
新世界ルナパーク1号館(1912年〜1920年)
ロープウェイによってルナパークと初代通天閣がつながっていた。ルナパークは1923年に閉鎖した。初代通天閣はルナパーク閉鎖から20年経った1943年に解体された。
1910年代の間、ロープウェイによって
ルナパークと初代通天閣はつながっていた。
新世界ルナパークのメインエントランス(1912年頃撮影):ロープウェイによってルナパークと初代通天閣がつながっていた。ルナパークは1923年に閉鎖した。初代通天閣はルナパーク閉鎖から20年経った1943年に解体された。
新世界ルナパークのメインエントランス(1912年頃撮影):入り口のアーチの背後に初代通天閣が見えている。
ロープウェイによってルナパークと初代通天閣がつながっていた。ルナパークは1923年に閉鎖した。初代通天閣はルナパーク閉鎖から20年経った1943年に解体された。
初代通天閣とその手前に写る新世界ルナパークの夜景(1912年頃)

脚注

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  1. ^ Joseph L. Anderson and Donald Richie, The Japanese Film: Art and Industry (Princeton University Press 1982) ISBN 0-691-00792-6
  2. ^ 2010 NOMS page - IEEE
  3. ^ a b History of Shinsekai Archived 2009年8月29日, at the Wayback Machine.
  4. ^ Osaka Journal: Japan’s New World Offers a Slice of the Past - New York Times 15 October 2008
  5. ^ 『人事興信録. 4版』1915年(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ Volker Grassmuck, Geschlossene Gesellschaft: Mediale und diskursive Aspekte der "drei Öffnungen" Japans English translation
  7. ^ 株式応募も好調であった。「ルナパークが会社に」都新聞 明治45年(1912年)3月14日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第24回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 75mだったとも言われている
  11. ^ NOMS 2010 page - IEEE
  12. ^ Sharon Minichiello, Japan's Competing Modernities: Issues in Culture and Democracy, 1900-1930 (University of Hawaii Press 1998) ISBN 0-8248-2080-0
  13. ^ Isolde Standish, A New History of Japanese Cinema: A Century of Narrative Film (Continuum International Publishing Group 2006) ISBN 0-8264-1790-6
  14. ^ なにわのシンボル通天閣
  15. ^ モダン大阪の娯楽場
  16. ^ 大阪天王寺に「新世界ルナパーク」開業
  17. ^ a b Kippo News, 5 November 1996 Archived 2007年12月3日, at the Wayback Machine.
  18. ^ History of Shinsekai
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq 大阪新名所 新世界・通天閣写真帖 復刻版

参考文献

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