マンフレード2世 (サルッツォ侯)

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マンフレード2世
Manfredo II
サルッツォ侯
在位 1175年 - 1215年

出生 1140年
死去 1215年
配偶者 アラージア・デル・モンフェッラート
子女 本文参照
家名 デル・ヴァスト家
父親 サルッツォ侯マンフレード1世
母親 エレオノーラ・ダルボレーア
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妃アラージア・デル・モンフェッラート

マンフレード2世イタリア語:Manfredo II, 1140年 - 1215年)は、サルッツォ侯(在位:1175年 - 1215年)。

生涯[編集]

マンフレード2世はサルッツォ侯マンフレード1世とエレオノーラ・ダルボレーアの息子である。マンフレード2世はサルッツォを侯領の首都とした。

マンフレード2世は1182年以前にアラージア・デル・モンフェッラートと結婚し[1]、北部イタリアで最も権力を持つ一族の一つであるアレラーミチ家と同盟を結んだ。

マンフレード2世は侯領を拡大させ、隣接するサヴォイア伯の領土拡大政策に対抗した。いくつかの小競り合いがあった後、サルッツォ侯とサヴォイア伯は1213年委合意に達し、マンフレード2世の晩年の2年間は両者で和平を結ぶことができた。1212年に長男ボニファーチョが死去したため、孫のマンフレード3世がアラージアの摂政下で侯位を継承することとなった[1]。アラージアはマンフレード3世のため、サヴォイア伯に敬意を表し、以後1世紀の間、サルッツォ侯はサヴォイア伯の臣下となった。

子女[編集]

マンフレード2世とアラージアの間に、以下の子女が生まれた。

また、庶子としてバスタルディーノがいる。

脚注[編集]

  1. ^ a b Berman 2018, p. 38.

参考文献[編集]

  • Berman, Constance Hoffman (2018). The White Nuns: Cistercian Abbeys for Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press 
先代
マンフレード1世
サルッツォ侯
1175年 - 1215年
次代
マンフレード3世