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マンフレード1世 (サルッツォ侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マンフレード1世
Manfredo I
サルッツォ侯
九偉人ゴドフロワ・ド・ブイヨンおよびマンフレード1世の両方を描いたフレスコ画[1]
在位 1142年 - 1175年

出生 1123年以前
死去 1175年
配偶者 エレオノーラ・ダルボレーア
子女 サルッツォ侯マンフレード2世
家名 デル・ヴァスト家
父親 ボニファーチョ・デル・ヴァスト
母親 アニェス・ド・ヴェルマンドワ
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妃エレオノーラ・ダルボレーア

マンフレード1世イタリア語:Manfredo I, 1123年以前 - 1175年)は、初代サルッツォ侯(在位:1142年 - 1175年)[2]

生涯

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マンフレードは、サヴォーナとタナロの間に点在する領地の支配者であったボニファーチョ・デル・ヴァストの7人の息子のうちの長男として生まれた。マンフレードは1123年の記録に初めてその名が見られる。父ボニファーチョが1125年に死去した後、領地は兄弟たちで共同統治をしたが、1142年に分割した。マンフレードはアルプス山脈ポー川およびストゥーラの間の領地を得た。マンフレードの領地は弟たちの領地よりも広く、新たに侯領となるのにふさわしい地であった[2]。マンフレードは死去の後に「サルッツォ侯」と呼ばれるようになった。マンフレードは生前には、領地の名を加えない「侯爵」、あるいは「デル・ヴァスト侯(marchio de Vasto)」の称号を用いた[2][3]。また、自領の中心にあり戦略的に重要なサルッツォ城を居城とした[2][4]

1127年、マンフレードはスタッファルダ修道院を創建した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と同盟を結び、フリードリヒ1世を封主と認め、フリードリヒ1世とロンバルディアの都市との間の和平を維持しようと努めた[2]。4枚の特許状により、マンフレードがミラノ(1161年)、トリノ(1162年)およびリミニ(1167年)のフリードリヒ1世の宮廷に定期的に出席していたことがわかる[3][5]

マンフレードはゴナリオ2世・ダルボレーア英語版の娘エレオノーラと結婚した[6]。1175年にマンフレードは死去し、息子マンフレード2世が侯位を継承した[2]

脚注

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  1. ^ Florence Bouchet, "Héroïnes et mémoire familiale dans le Chevalier errant de Thomas de Saluces", Clio. Histoire‚ femmes et sociétés 30 (2009).
  2. ^ a b c d e f Maddalena Moglia (2017). "Saluzzo, marchesi di". Dizionario Biografico degli Italiani, Volume 89: Rovereto–Salvemini (in Italian). Rome: Istituto dell'Enciclopedia Italiana. ISBN 978-8-81200032-6
  3. ^ a b Armando Tallone, Regesto dei marchesi di Saluzzo (1091–1340) (Pinerolo, 1906), nos. 37, 40, 44, 51.
  4. ^ Manfrédo I marchese di Saluzzo, Enciclopedia on line, Treccani. Retrieved 18 February 2022.
  5. ^ Charles William Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy (1000–1233) (Cambridge University Press, 1912), p. 332.
  6. ^ Riccardo Rao, "Fra comune e marchese. Dinamiche aristocratiche a Vercelli (XII-XIII secolo)", Studi Storici 4, 1 (2003), pp. 43–93. jstor 20567183
先代
サルッツォ侯
1142年 - 1175年
次代
マンフレード2世