マルタ・マレク

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マルタ・マレク
Martha Marek
個人情報
別名 マルタ・レーヴェンシュタイン
(Martha Löwenstein)
生誕 1904年
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン?
死没 1938年12月6日(34歳頃没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 ウィーン
死因 ギロチンによる刑死
殺人
犠牲者数 4名程度?
オーストリアの旗 オーストリア
司法上処分
刑罰 死刑
有罪判決 1938年
判決 死刑
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マルタ・マレクMartha Marek、旧姓:レーヴェンシュタイン (Löwenstein)、1904年 - 1938年12月6日)は、オーストリア犯罪者マーサ・マレクとも。

生涯[編集]

1904年、オーストリアウィーンの路上で、レーヴェンシュタイン夫妻という貧しい夫婦によって拾われる(彼女は捨て子だった)。

15歳の時、デパート経営者のモリッツ・フリッチの愛人となる。しかし、彼はやがて74歳で亡くなってしまう。彼女には、彼の邸宅が遺された。

その後、工科大学の学生であるエミール・マレクと結婚。あっという間に遺産を使い果たした彼女は、1925年に夫の足の保険金を請求する。このとき、片足がほぼ切断されていた。しかし、「事故」の直前に夫が1万ポンドの保険に加入していたなど、様々な不審点が有り、事故とは信じがたいとの理由で、保険会社は支払いを拒否。また、検死官がエミールの足に何度も斧で切りつけた痕跡があることを発見。マルタは検死官を買収しようとしたものの、それが発覚し、1927年に詐欺罪で短期間の懲役を受ける。

その後、エミールは1932年に死亡。その同年7月に娘も死亡する。また、彼女の叔母であったスーザン・レーヴェンシュタイン(Susanne Löwenstein)も1934年に亡くなるなど、彼女の周辺で不審な死が相次いだ。

検死の結果、彼女は大量のタリウムを食事に混入していたことが発覚。また、彼女の息子も重篤なタリウム中毒にかかっていた。

1938年春、彼女に死刑判決が下される。同年12月6日、ウィーン地方裁判所でギロチンの刑に処せられた(34歳没)。

参考[編集]