マリー・フォン・ナッサウ

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マリー
Marie
ナッサウ=ヴァイルブルク家
ヴィート侯妃マリー(カール・フェルディナンド・ゾーン画・1858年)

全名
称号 ヴィート侯妃
出生 (1825-01-29) 1825年1月29日
ナッサウ公国、ビープリヒ
死去 (1902-03-24) 1902年3月24日(77歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国、ノイヴィート
配偶者 ヘルマン・ツー・ヴィート
子女 エリーザベト
ヴィルヘルム・アドルフ
オットー
父親 ヴィルヘルム1世
母親 ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン
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マリー・フォン・ナッサウドイツ語: Marie von Massau, 1825年11月29日 - 1902年3月24日)は、第4代ヴィート侯ヘルマン英語版の妃。ルーマニア王妃エリサベタの母。

生涯[編集]

マリーはナッサウ公ヴィルヘルム1世とその最初の妃ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンの第8子、四女としてビープリヒで生まれた。全名はマリー・ヴィルヘルミーネ・フリーデリケ・エリーザベト(Marie Wilhelmine Friederike Elisabeth)。姉にテレーゼ、兄にルクセンブルク大公アドルフがいる。また、スウェーデン=ノルウェー王妃ゾフィアは異母妹である。

1842年6月20日にビープリヒにおいて、ヴィート侯ヘルマン英語版と結婚した。2人の間にはルーマニア王カロル1世の妃となったエリーザベト(エリサベタ)を始めとして3子が生まれた。

ドイツの作家マリー・フォン・ブンゼン(1860年 - 1941年)によると、マリーはバーデンの政治家フランツ・フォン・ロッゲンバッハ(1825年 - 1907年)と関係があったとされ、夫の死後、結婚した可能性もあるという[1]

子女[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Marie von Bunsen: Die Welt, in der ich lebte. Koehler & Amelang, Leipzig 1930.

参考文献[編集]

  • The Royal House of Stuart, London, 1969, 1971, 1976, Addington, A. C., Reference: 351; The Royal House of Stuart, London, 1969, 1971, 1976, Addington, A. C., Reference: p. 336.
  • L'Allemagne dynastique, Huberty, Giraud, Magdelaine, Reference: vol III p. 454.

外部リンク[編集]

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