フリードリヒ・ルートヴィヒ (ナッサウ=オットヴァイラー伯)

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フリードリヒ・ルートヴィヒ
Friedrich Ludwig
ナッサウ=オットヴァイラー伯
在位 1680年 - 1728年

出生 (1651-11-13) 1651年11月13日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ナッサウ=オットヴァイラー伯領、オットヴァイラー
死去 (1728-05-25) 1728年5月25日(76歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ナッサウ=ザールブリュッケン伯領、ザールブリュッケン
配偶者 クリスティアーネ・フォン・アーレフェルト
  ルイーゼ・ゾフィー・フォン・ハーナウ=リヒテンベルク
子女 本文参照
家名 ナッサウ家
父親 ナッサウ=オットヴァイラー伯ヨハン・ルートヴィヒ
母親 ドロテア・カタリーナ・フォン・プファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラー
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フリードリヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig, 1651年11月13日 - 1728年5月25日)は、ナッサウ=オットヴァイラー伯(在位:1680年 - 1728年)、ナッサウ=イトシュタイン伯(在位:1721年 - 1728年)およびナッサウ=ザールブリュッケン伯(在位:1723年 - 1728年)。

生涯[編集]

フリードリヒ・ルートヴィヒは、ナッサウ=オットヴァイラー伯ヨハン・ルートヴィヒとドロテア・カタリーナ・フォン・プファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラーの長男としてオットヴァイラーで生まれた。母ドロテア・カタリーナはプファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラークリスティアン1世の娘であった。1680年にナッサウ=オットヴァイラー伯となった。1721年に父の従兄弟ゲオルク・アウグストの死によりナッサウ=イトシュタイン伯領を継承し、1723年には従兄弟で婿のカール・ルートヴィヒの死によりナッサウ=ザールブリュッケン伯領を継承した。1728年に男子の継承者なく死去したため、領地は従兄弟の子であるナッサウ=ウージンゲン侯カールが継承した。

家族[編集]

1680年7月28日にアーレフェルト伯フレゼリクとマルガレーテ・ドロテア・フォン・ランツァウの娘クリスティアーネ・フォン・アーレフェルト(1659年 - 1695年)と結婚した。2人の間には8女が生まれた。

  • ドロテア・フリーデリケ(1681年 - 1691年)
  • シャルロッテ・マリー(1684年 - 1690年)
  • クリスティアーネ・シャルロッテ(1685年 - 1761年) - ナッサウ=ザールブリュッケン伯カール・ルートヴィヒと結婚、ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ3世と再婚
  • ルイーゼ(1686年 - 1773年) - ザルム=ダウン伯カール(en、1675年1 - 1733年)と結婚
  • ゾフィー・アマーリエ - キルヒベルク城伯およびザイン=ハーヘンブルク伯ゲオルク・フリードリヒ(1683年 - 1749年)と結婚
  • マリー・シャルロッテ(1690年 - 1714年)
  • ドロテア(1692年 - 1740年) - ザルム=ダウン伯ヴァルラト(1686年 - 1730年)と結婚
  • エレオノーレ(1693年)

クリスティアーネと死別した後、1697年9月27日にハーナウ=リヒテンベルク伯ヨハン・ラインハルト2世とアンナ・マグダレーナ・フォン・プファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラーの娘ルイーゼ・ゾフィー・フォン・ハーナウ=リヒテンベルク(1662年 - 1751年)と再婚したが、この結婚で子供は生まれなかった。

参考文献[編集]

  • Nassau-Saarbrücken Friedrich Ludwig von”. SAARLAND BIOGRAFIEN. 2023年4月4日閲覧。
  • Friederich Köllner: Geschichte des vormaligen Nassau-Saarbrück'schen Landes und seiner Regenten. Teil 1. Saarbrücken 1841, S. 427–434. (Online)
先代
ヨハン・ルートヴィヒ
ナッサウ=オットヴァイラー伯
1680年 - 1728年
次代
カール
先代
ゲオルク・アウグスト
ナッサウ=イトシュタイン伯
1721年 - 1728年
次代
カール
先代
カール・ルートヴィヒ
ナッサウ=ザールブリュッケン伯
1723年 - 1728年
次代
カール