フィリップ・オットー・ツー・ザルム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリップ・オットー・ツー・ザルム
Philipp Otto zu Salm
初代ザルム侯
在位 1623年 - 1634年

出生 (1575-05-22) 1575年5月22日
死去 (1634-11-23) 1634年11月23日(59歳没)
ヌヴィレ=シュル=モゼルドイツ語版
配偶者 クリスティアーヌ・ド・クロイ
子女 ルートヴィヒ
レオポルト・フィリップ・カール
イザベラ
家名 上ザルム家
父親 ザルム=ヌフヴィル伯フリードリヒ
母親 フランツィスカ・フォン・ザルム=バーデンヴァイラー
テンプレートを表示

フィリップ・オットー・ツー・ザルムPhilipp Otto zu Salm, 1575年5月22日 - 1634年11月23日)は、ドイツ系の小諸侯ザルム家出身の伯(ライングラーフドイツ語版ヴィルトグラーフドイツ語版)、三十年戦争中の1623年その軍功を認められて神聖ローマ皇帝フェルディナント2世より侯(フュルスト)の爵位を与えられた。

生涯[編集]

ザルム=ヌフヴィル伯フリードリヒ(1545年 - 1608年)とその最初の妻フランツィスカ・フォン・ザルム=バーデンヴァイラー(1545年 - 1587年)の間の長男。プロテスタント信徒として育つが、1591年カトリックに改宗した。1603年より皇帝ルドルフ2世の軍隊に連隊長として所属し、はじめ1400名、その後2000名ほどの胸甲騎兵の指揮官を務めた。1610年から1611年にかけ、ハンガリーで外国人部隊の司令官を務める。その後、1616年から1626年の間はフランス王ルイ13世に仕官し、フランス軍ドイツ人軍団の司令官(陸軍中将)となった。同時に、アルザス地方における皇帝軍の司令官(陸軍中将、後に陸軍大将)も兼ね、スウェーデン軍と戦った。1629年宮廷軍事会議のメンバーとなり、翌1630年ナンシーの知事となった。1634年9月のネルトリンゲンの戦いで負傷し、その怪我がもとで2か月後、ヌヴィレ=シュル=モゼルドイツ語版で死去した。

子女[編集]

1616年2月15日クリスティアーヌ・ド・クロイと結婚し、3人の子をもうけた。

参考文献[編集]

  • Johann Christian von Stramberg: Denkwürdiger und nützlicher Rheinischer Antiquarius, Band 19, Teil 2, 1870, S. 151 (Google Books)
  • Johann Martin Kremer, Kurzgefasste Geschichte des Wild- und Rheingräflichen Hauses, S.145ff, Digitalisat

外部リンク[編集]

先代
ザルム侯
1623年 - 1634年
次代
ルートヴィヒ