バフルール・ローディー

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バフルール・ローディー

バフルール・ローディー(Bahlul Lodi, 生年不詳 - 1489年7月12日)は、北インドデリー・スルターン朝ローディー朝の君主(在位:1451年 - 1489年)。

生涯[編集]

バフルール・ローディのコイン

バフルールはアフガン系ローディー族サルダール(指導者)であった[1]

デリーでは、デリー・スルターン朝サイイド朝が統治していたが、君主ムハンマド・シャーは政務に励むよりは自堕落な生活を好むようになった。そのため、数人の貴族たちが政治を進めるようになり、ある時にはマールワー・スルターン朝の君主マフムード・シャーにデリーを制圧するように求めた[2]

ムハンマド・シャーは陰謀に気づき、当時パンジャーブのみならず宮廷でも勢力を増してきたアフガン系ローディー族の族長バフルールの配下アフガン系貴族らに、マールワーとの交渉を頼んだ[3]。ムハンマド・シャーはバフルールを自身の「息子」と呼び、とても重宝したことで知られる。

1445年、ムハンマド・シャーが死亡し、その息子アラー・ウッディーン・アーラム・シャーがあとを継いだ。だが、彼は父親よりも怠惰な人物であり、そのため権力は宰相に握られた[4]

一方、アーラム・シャーの即位までにパンジャーブを支配していたバフルールは、1451年4月に秩序の乱れたデリーを占領し、宰相を罷免・投獄した[5] [6]。また、デリーの貴族層を味方につけたのち、バダーウーンにいたアーラム・シャーに手紙を送り、その名でデリー・スルターン朝を統治したいと申し出た[7]。だが、アーラム・シャーはバフルールを自らの「兄」とし、すでに自分は政権を譲り渡したとして、退位する旨を返信した[8]

こうして、同月19日にバフルールはデリーで即位式を挙げた[9]。ここにサイイド朝は滅び、新たにアフガン系のローディー朝が成立した[10]。一方、アーラム・シャーは1478年まで年金生活者として暮らした[11][6]

バフルールはサイイド朝の時代に弱体化したデリー・スルターン朝の回復に努め、主要な行政官のみならず、軍の高官、主要分与地にもアフガン人を配置した[12]

しかし、サイイド朝の貴族たちはこうした行動に憤慨し、ジャウンプル・スルターン朝の君主マフムード・シャーにデリーを制圧するよう要請した。マフムード・シャーはこれに乗じてデリーの政争に介入し、ローディー朝がジャウンプルにとって大きな脅威となる前に牽制しておく必要があると考え、この要請を喜んで受け取った。また、マフムード・シャーの妃だったサイイド朝出身の王女も、自分の正統な財産が失われるのを恐れて彼に同様の進言をした。

こうして、27年にわたるジャウンプルとローディー朝との戦争が始まり、それがバフロールの治世の大半を占めた[13]。ジャウンプルはローディー朝よりも財力、兵力面では豊富だったが、それらを上手に利用することができず、ローディー朝のほうがしだいに有利となった。

長く続いた戦いの末、1479年にジャウンプルの軍勢が首都デリーを攻撃したが、ローディー朝は耐え抜いた[14]。そして、逆にジャウンプルに反撃し、その首都ジャウンプルを落とし、征服することに成功した[15]。この地には総督として息子のバールバクを任命した。

デリーのバフルール・ローディー廟

だが、1489年7月12日、バフロール・ロディーは別の軍事行動からデリーに戻ったのち死亡し、戦争に費やされたその生涯を終えた[16][17]。後を息子のシカンダル・ローディーが継ぎ、彼の時代にローディー朝は全盛期を迎えた。

脚注[編集]

  1. ^ C.E. Bosworth, The New Islamic Dynasties, (Columbia University Press, 1996), 304.
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.151-152
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.152-153
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  6. ^ a b Mahajan, V.D. (1991, reprint 2007). History of Medieval India, New Delhi: S. Chand, ISBN 81-219-0364-5, pp.245-51
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  8. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  10. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  11. ^ Majumdar, R.C. (ed.) (2006). The Delhi Sultanate, Mumbai: Bharatiya Vidya Bhavan, pp.134-36, 139-142
  12. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.154
  13. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.152-153
  14. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.30
  15. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.153
  16. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
  17. ^ Sultan Bahlul Khan Lodi The Muntakhabu-’rūkh by Al-Badāoni (16th century historian), Packard Humanities Institute.

参考文献[編集]

  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目[編集]