ノート:風の少女エミリー

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独自研究の発表の場となっていませんか?[編集]

アニメの回を追う毎に大変充実したページになりつつあるようですが、内容的に独自研究に属する疑いの強いものが増えてきています。ウィキペディアの百科事典としての主旨を考え、記事の内容をもっと百科事典的に改める必要があるでしょう。--Mi-no 2007年7月30日 (月) 23:01 (UTC)[返信]


これだけ出典を明記する事を沢山している日本語のWikipediaのページは少ないと思いますが。もしかして、出典を確認していない? それは別に自由ですが、出典を確認する労を取らずに独自研究の疑いといわれましても。

英語は著作権が切れており、引用もできますが、和訳は著作権があるので、英語を独自に訳して著作権の問題を回避しています。あの…原作読めば分かる程度の事をいちいち「独自研究ではないのか。論拠を示せ」とやられたら、たまらないのですが。

「独自研究に属する疑いの強い」ですか。具体的にはなんでしょうか。例を幾つか示していただければ幸いです。

逆に

むしろ「ニュームーンのエミリー(Emily of New Moon)」というキャラクターそのものを
指す言葉として(「Emily」だけだとどこのEmilyというキャラクターであるかが特定できないので)
使用しているものとも考えられる。 

などというのを付け加えるのは、困ります。これこそ「独自研究」では?

この機会に”原作はエミリー3部作とあるが「風の少女エミリー」のタイトルの…”の行は、まるごと削除する事を提案します。私は、他の方が書いてくださったことは無断では削除しない方針なのですが、「商標の使用契約を結んでいる模様」とか「使用しているものと推察される」とかいった文面を見た時は「これは困ったな…法律にからむ事でこんないい加減な事を書かれては」と思い、即時削除しようかと思いましたが。

肥大化に関しては、1週間経過した物は削除する事もありますし(17話の件も来週にはスリム化する事を考えてましたが)26話終了を期に大幅な編集を加える事を考えています。Tolena 2007年7月30日 (月) 23:36 (UTC)[返信]


独自研究」の項目を精読してください。根拠を示しさえすれば何でも書けるわけではありません。例えば、根拠や出典をたくさん示した論文であっても、その論文そのものをウィキペディアの記事として発表することは独自研究とみなされます(ウィキペディアを論文自体の1次発表の場として使うことは許されない)。私自身が書いた部分も含め、独自研究と思わしき部分はどんどんシェイプアップしていくべきでしょう。ただ、私自身もなるべくなら喧嘩はしたくありませんので、できればそういうコンセンサスを作りながら、進めていければと思います(書き換え合戦になっても無益なので)。とは言え、ウィキペディアですから、編集は誰でもご自由にということになります。なお、「風の少女エミリー」のタイトルの件については、百科事典的でない記述に対して同じように百科事典的でない追記をしてしまっているかもしれませんね(要するに、ある見解=独自研究=に対して、別の見解もあるよと示したわけです。あなたが「矛盾」と書いた時点でそれはもはやあなた独自の見解なのです。単に、「タイトル下にはEmily of New Moonと並記されている」と書けば百科事典的記載になります。その並記が矛盾かどうかは、私の書いたような見解もあるわけですから、何とも言えないわけです。それなのに矛盾という記述だけが書かれていたらそれは独自見解でしかありません)。ただ、NHKとご遺族との契約の件は、エミリーのアニメ化については、エミリー原作の著作権は切れているものの、きちんとモンゴメリの遺族と契約(アニメ化及び「Emily of New Moon」の使用に関して)を結んだ上で制作発表されているのは事実です(が、契約内容そのものが大きく報道されたわけでもないので商標の件まで書く必要はなかったかもしれません)。いずれにせよ、あまりにも本記事は贅肉だらけの記事になっていると思います。私自身、そのいくぶんかに荷担しているので、自戒を込めて、独自研究と思わしき部分を削ることによるスリム化を提案しているのです。本記事を百科事典的記述を越えたファンサイト(やアンチサイト、もしくは批評サイト)のページにすべきではありません。--Mi-no 2007年7月31日 (火) 06:46 (UTC)[返信]


「これだけ出典を明記する事を沢山している日本語のWikipediaのページは少ないと思います」という点について、「出典」の意味がお互いかみ合っていない可能性を感じますので、指摘します。Tolena氏の言う出典には、2つ種類があるようです。1つは、本来のウィキペディアが目的とする、検証可能性のある出典。例えば、どこそこの論文集にこう書かれているという、論説や事実の紹介としての出典。もう1つは、紹介ではなく自分の独自研究のための根拠に使った引用元としての出典。前者は偏った紹介でなければOKですが(対立説がある場合はそれもきちんと紹介する必要があるということです)、後者はあくまでも独自研究のためですからいくら出典が多くとも独自研究になります。なお、分かりにくいかもしれませんが複合した例として、「5話でテディが「何度も書き直しているうちに汚くなっちゃった」と言って渡した画用紙に描かれているのはエミリー。その様子をケント夫人が遠くから睨みつけている。6話でのっぽのジョンの家で遊ぶ場面でもテディーが描いているのは2枚共エミリー。これはテディーの心の中にいるのは誰かを暗示している。」という箇所を挙げます。「「5話でテディが「何度も書き直しているうちに汚くなっちゃった」と言って渡した画用紙に描かれているのはエミリー。その様子をケント夫人が遠くから睨みつけている。6話でのっぽのジョンの家で遊ぶ場面でもテディーが描いているのは2枚共エミリー。」という部分までは、アニメ内の描写に出典を求められる事実/シーンの紹介(第何話と書いてあるのが出典表記に当たる)ですが、続く「これはテディーの心の中にいるのは誰かを暗示している。」という記述自体には出典はなく、前の紹介した事実から導き出した独自研究(投稿者なりの見解)にすぎません。その独自研究のための根拠としたアニメの中の事実は出典として前の文章に示しているわけですが、結局、その出典は独自研究のための根拠に使っているわけです。この項目は「5話でテディが「何度も書き直しているうちに汚くなっちゃった」と言って渡した画用紙に描かれているのはエミリー。その様子をケント夫人が遠くから睨みつけている。6話でのっぽのジョンの家で遊ぶ場面でもテディーが描いているのは2枚共エミリー。」だけに留めておけば、百科事典的記述になったのです(なお、もし他にこれらと反するような事実/シーンがアニメ中に描かれていれば、それらも記述しておかねば、投稿者の独自見解を誘導するための選択的な事実の列挙となりますのでマズイことになります)。記事の読み手は呈示されたそれらの出典のある事実から伺える意味を自分なりに考えればよいのであり、投稿者がそれを誘導して自分なりの結論的見解をわざわざ書く必要はないのです。しかし、もし「これはテディーの心の中にいるのは誰かを暗示している。」という記述が独自研究とされて書けないのだとしたら、投稿者はこの項目そのものをそもそも投稿したでしょうか? それでも投稿したと思うなら、残しておいても良いでしょう。要するに余計な自分の一言(見解)を書かなければよいのです。ただし、それがあなたがウィキペディアで1次発表した見解ではなく、検証可能な論文集や書籍などに発表された説であり、さらに他の説にも配慮しながらバランス良く記事中で紹介するのであれば、ウィキペディア本来の出典の意味となるでしょう。以上、どこで線引きがなされるのかは確かに少々分かりにくいかとは思いますが(「独自研究」をお互い精読するしかない)、私の言わんとするところが伝われば幸いです。そもそも私自身の投稿箇所もこの罠に落ちている部分がありましたので、削除しました。また、ウィキペディアの百科事典的記述としてあまりにも枝葉末節的な投稿も削除しました(結局、自分の投稿を一旦全部消すことになりました)。--Mi-no 2007年7月31日 (火) 07:36 (UTC)[返信]

独自研究色が強く、削ってスリム化してもよいのではないかと思う箇所の指摘[編集]

まずは非常におおざっぱに示します。次の大項目2つは基本的にはばっさりとなくても構わないと私は考えます。これらの項目中、百科事典的記述であり削らなくてもよさそうなものもありますが、残すにしても、アニメ版エミリーを知る上で必要不可欠なもののみをピックアップして再編集すべきでしょう。いくら根拠や出典が示してあろうと、投稿者自身の1次的独自見解であるものはウィキペディア的にはいりません。

  • アンとエミリーの比較 -- 通説となっているエミリーのほうがより自伝的である点などの百科事典的紹介のみで結構。現在、最終回まで行っていない時点で、ほとんど原作同士の比較と言えるような比較をして、その観点をアニメ版エミリーにも押しつけている結果になっているのではないか。なお、「赤毛のアンは原作に忠実にアニメ化されたが、エミリーは話の順序を変えたり各所から話を持ってきたり設定だけを用いた話もあり、オリジナル話には佳作回と木に竹を接いだような回がある。」などというのは、典型的な独自研究である。「原作に忠実」とはどういうことかすら議論が巻き起こる(仮にすべてオリジナルエピソードにしようが、それが原作の精神を100%くみ取っていれば、「原作に忠実」であるという考え方すら世の中には存在する。もっともそもそも「忠実」かどうか自体が個々人の主観によるものなので、よほど通説が形成されない限り、百科事典的には書くべきではない)。「オリジナル話には佳作回と木に竹を接いだような回」というのも書き手の主観以外の何物でもない。こういう記述が百科事典的でないというのを理解していただきたい。「予算やスケジュールが逼迫して作画崩壊する民放アニメが多い中、風の少女エミリーはNHK作品のため毎回高い品質を維持している。」という記述も、ようやっと予定放映話数の半分を超えたところで、このような判断を書くのはいかがなものか。
  • 豆知識 -- 重箱の隅をつつくような豆情報がこのままではどこまで肥大化するか。必要不可欠なもののみに絞るべき(絞り込み作業は百科事典的記述であろうとも必要であろう)。原作との比較など、独自研究色が非常に強い。元となっていると考えられる原作の章を示すのは許容範囲だろうが、「1話は原作の1~5章が元で読み応えがありエレンはとても重要な役割を演じている。アニメでは駆け足で扱われている。」の「読み応えがあり」、「とても重要な役割」、「駆け足で」などは見解である。「3話は原作の8~12章が元だが本質的な改変をしている」の「本質的な改編」も見解。「5話の演劇会でエミリーのセリフが一部、棒読み風に聞こえるのは「台本なんて読むの初めて」のはずのイルゼの演技力の高さを際立たせる意図だったとすると、これは演劇の才能があり華麗でエキゾチックな雰囲気を持つ美人女優になるという原作の設定を生かすための布石。」というのも書き手の見解による解説にすぎない。ちなみに私の書いた部分だが、「いずれにせよ、エミリーが1885年生まれという設定から考えると、アイスクリームコーンを出したことはアイランダー(PEIの人たち)の進取性を表現しているか(無意識に描いたのかもしれないが)」というのも独自見解なので、不必要。とにかくこの手の編集者自らの独自見解(結局は独自研究)が多い(その独自見解のために自分が依拠する根拠を示そうが、それは百科事典的な記述ではないのである)。また、本当にアニメ版エミリーの記事にわざわざ載せる程か疑問で、不可欠とは言えない蛇足的な知識も多い。

旬な題材であることもあり、とにかく記事は書き出せばきりがないと思われるが、どこかで一定の線引きをする必要があるはずです。しているつもりであろうが、やはりあまりにも独自研究的部分が増えていることもあり、長大で贅肉だらけの記事であると思います(←こういう記述自体はそれこそ私の独自見解に過ぎないのですが、ノートは百科事典ではないので)。以上、舌足らずであり、また、揚げ足取りをしたくなるような説明不足な部分等もあるでしょうが、「独自研究」の意味をこれからもよくお互い勉強し建設的な方向に事態を進展させていければと思います。--Mi-no 2007年7月31日 (火) 06:53 (UTC)[返信]

「アンとエミリーの比較」の編集案一例[編集]

Green = 緑の、Gables = 切り妻屋根。Emily of New Moon という本のタイトルがニュームーン(農場)のエミリーであるのと同様、Anne of Green Gables は、緑の切り妻屋根(の家のある農場)のアンという意味。農場名や家の特徴が住所代わりだった。
  • モンゴメリも1歳9ヶ月の時に母が死亡し、プリンスエドワード島のキャベンディッシュ村の厳格な母方の祖父母のマクニール家の農場で育てられる。祖父母の実子は既に成人し家に子供はモンゴメリ1人であったため、空想をする事や本や自然や書き物をする事に親しみを持つようになる。島の中心部であるシャーロットタウンの大学で学んだ後に教師となるが、一時期新聞社で働いた事もある。これらの体験は両作品に反映されている。


日本では『赤毛のアン』以外は映像化されていないが

エミリーは?

  • アンは赤毛でそばかすで明るくて快活というキャラクターが印象的だが、エミリーは黒髪で顔は白くアンほど明るい性格ではない。一般的にエミリー3部作のほうがより自伝的であると言われている。

--Mi-no 2007年7月31日 (火) 08:16 (UTC)[返信]

「豆知識:背景的な点」の編集案一例[編集]

  • モンゴメリが子供の頃は小説を読む事は冷やかな目で見られたが、詩は禁じられていなかった。ただし日曜日は安息日で詩も禁じられ、キリスト教の信仰と関係のある物語だけが読めた。マクニール家には新聞や雑誌はあったが、小説は数少なく、安息日でも読むことを許されたのは『天路歴程』など数種類程度のみだった。
  • モンゴメリを育てた祖父の兄は、実際には大おじに当たるが「いとこのジミー」として子供のような心と天才が同居した詩人であると日記に描かれている。家庭の事情で教育を受ける事ができず、詩は残っていない。『可愛いエミリー』に登場するジミーも、実際には叔父であるのに「いとこのジミー」と書かれていて、子供のような心を持ち詩にも理解を示すが書き残さないという設定。
  • 失望の家(エミリーの命名 = the Disappointed House。村人は破れた者達の家と呼んでいる) は原作では遠い親戚のフレッド・クリフォードが30年前に婚約者の望みで建てたが突然に振られ建設中断。フレッドは村を去り今は結婚して幸せだが、以前に夢が破れた家は辛い思いが残り売る気にもなれないという設定。ニュームーン農場とテディの家の中間にある。

--Mi-no 2007年7月31日 (火) 08:24 (UTC)[返信]

「豆知識:アニメ各話の補足的な点」の編集案一例[編集]

◆ちょっと絞りすぎたかもしれませんが、一応の例(一例ですので怒らないで下さい)。ご不満もあるかとは思いますが、百科事典的記述になっており(百科事典的記述で削ってしまったところもありますけど)、それなりに読み応えもあるでしょう? 原作を読まない視聴者用に現時点でのアニメ後半のネタバレも避けたつもりです(今はまだ優しいディーンの本性など)。あとはあまりにもディープすぎるものやくどいものも一旦外してみました。なお、労働問題は入れたいのかもしれませんが、アニメの話的にはジミーさんが大人と同じ給料を払っているということで処理しているので(つまり、普通の子どもとしてこき使われている場合はどうなるのかを示唆しており、視聴者にも分かる)、全体のバランス的に記述があまりにもくどいような気がしましたので一旦外しました。ここら辺は議論し出すと長くなりそうです。あと、蛇足ですが、児童文学研究者などの間では「子供」は差別的用語として「子ども」を使うようです(文学部の先生に私自身指摘されたことがあるので。本記事では誰かがわざわざ「子供」に統一し直していたので念のため指摘。まだそのままになっています。私としては別段子供に差別感情はないので記述を変えるほどではないとは思う)。

  • ブレア・ウォーター (Blair Water) は地名。ニュームーンは牧場の名前。
  • 1話は原作の1~5章を元にしている。
  • エミリーの父親は結核で死んだが、モンゴメリの母親も結核で死んでいる。
  • 100年前に英国から海を渡ってきたヒュー・マレーが乗っていた船がニュームーン号で、農場は船の名前にちなんでつけられた。
  • エミリーは木に名前をよくつける。アダムとイブ(Adam-and-Eve)はエレンの持っていた本の挿絵に木の形が似ていたため命名。
  • 2話は原作の6,7,10,11章を元にしている。
  • バンクーバーで流行り病に罹ったジミーの母親を迎えてくれたのがニュームーンのエリザベスだった、病気がうつれば命を落とす、というくだりがある。何の病気かは明言されていないが、モンゴメリは『可愛いエミリー』が出版される5年前の1918年にスペイン風邪にかかり、PEIに療養に行くという経験をしている。
  • 3話は原作の8~12章が元だが改変をしている部分が多い。3部作を通じても『エミリーはのぼる』で無理矢理キスされそうになり男性を平手打ちして身を守るという正当防衛が一度あった以外はエミリーが実力を行使する場面は無い。イルゼが最初に登場するのはヘビを渡されたエミリーをさらなるいじめからかばおうと他の生徒を諌める場面。ローダのいじめはもっと陰湿でドジな点は無い。ブラウネル先生は体罰教師でエミリーをいじめる。
  • エミリーが「子供っぽい」と言っているエプロンは母ジュリエットが少女時代に着ていた物。
  • 4話でテディがスケッチを母に隠すのは原作の12章の「よもぎが原」でダグラスに宛てて書いた手紙の記述から。
  • 5話に関しては原作の22章で「真夏の夜の夢」をテディ、ペリー、イルゼと4人で演じる場面で脚本を担当しているが、オリジナル台本をエミリーが作ってイルゼと2人で演じた事は無い。
  • テディが「何度も書き直しているうちに汚くなっちゃった」と言って渡した画用紙に描かれているのはエミリー。その様子をケント夫人が遠くから睨みつけている。6話でのっぽのジョンの家で遊ぶ場面でもテディーが描いているのは2枚共エミリー。
  • 6話の毒リンゴ事件において前半のノートを台所のストーブで燃やす場面は原作では5章のニュームーンに連れられて来る前の話。後半のリンゴの話は原作の13章。
  • モンゴメリが幼稚で恥ずかしいと考え以前の日記を焼いたのは14歳だった1889年9月21日。
  • モンゴメリが子供の頃はキャベンディッシュ村で果樹園があるのはマクニール家ぐらいしかなく、モンゴメリが学校に持ってくる甘いリンゴは人気で色々な物と交換できた。
  • 7話は原作の18章。ほぼ原作どおりだが、一部省略あり。
  • 8話の3人で釣りをするのは12章の「よもぎが原」の一場面。ジュリエットは原作では直接登場はせず、歳の離れた金髪美少女の末娘でダグラスと駆け落ちしたという設定があるのみ。原作では、エミリーはベッドでもじっとしていないし夜中でも突拍子も無い質問をする事があり、添い寝する当初の目的は果たしたとしてジュリエットの部屋を与える事にした。
  • 9話の消えたダイヤモンドは原作では7章の終わりにジミーが幾らか語っているのみ。ダイヤの行方は『エミリーの求めるもの』18章を参照。
  • 10話でテディと「失望の家」に入り込んで将来を語っている場面は原作の27章。カーペンター先生の話は28章が中心だがブレア・ウォーター出身者ではない。ペリーに演説の才能を見出し厳しく指導している。エミリーの詩を見て書き続ける事を励ますのは31章。
  • 11話はトム叔母さんの設定を一部利用しただけ。原作ではペリーはニュームーンに住み込みで働き、すぐに学校に行っている。トム叔母さんは病弱ではなく貯金がありペリーを大学に進学させるべきかは迷っていた。ペリーが引き取られたのは赤ん坊の頃ではない。学内スピーチコンテストをする話は無い。将来弁護士になって議会、は15章。エミリーと結婚、の件は21章の終わりだがアニメとは異なる。
  • 12話のジャガイモの話は原作の14章、詩は15章、投稿の話は28章。原作では詩を投稿した事はペリーにしか話しておらず、不採用になって新聞を投げだし屋根裏で泣くというごく短いエピソード。ジミ―は家計をエリザベスに握られ時々数ドルもらえるだけで紙も貴重品で(7章の記述)あった。
  • 原作では Evening Dreams という、一行を除き記されていないボツ用の詩がアニメでは使われている。またジミ―が木の板に彫った詩が間違っている。原作の詩はED でも登場しているのだが、なぜか日本語からわざわざ再び英語に訳し直した妙な詩が彫られている。しかもセリフと詩の内容が合っていない。
原作の詩 アニメで木の板に彫られた詩

Along the snow the sunbeams glide,
Earth is a peerless, gleaming bride,
Dripping with diamonds, clad in traling white,
No bride was ever half so fair and bright.

Sunlight is shining softly
upon the covered snow
It seems like a bejeweled bride
Dressed with a gorgeous
long white dress

アニメでセリフの中で語られた詩 木の板に彫られた詩の拙訳

雪の上を陽光がするすると滑って行く
大地は比類なき輝く花嫁
そのすそ長き白いドレスに
ダイヤモンドはきらめく
まばゆく麗しく稀なる花嫁

日が優しく照っている
覆う雪の上に
それはまるで宝石をちりばめた花嫁
豪華な白くて長いドレスを着た

  • 13話のスケートは21章、クリスマスは20章から。エムリーと口答えは『エミリーはのぼる』の2章の5月12日の日記に似た内容がある。キャサリンはアニメのオリジナル。
  • イルゼとエミリーは原作では親戚といってもエミリーの高祖母のメアリ・シップレーの従兄弟がアラン・バーンリの祖先で、英国にまで遡らないと繋がりが無い(7章)。
  • ルース伯母の呼び方のエムリーは英語では Em'ly。"ム"は無声子音。姪の名前を間違えている訳ではない。Emily Climbs では日常的に Em'ly と呼ばれるようになる。
  • 14話については、ペリーは日曜学校のピクニックが嫌いという記述が『エミリーはのぼる』の4章にある程度。
  • 15話は原作の22~24章に沿った話。エミリーがナンシーと絵を見比べているのは、13話で読まれたラブレターのイメージで高齢になっても美しいと思っていたので若い頃の絵と現在の大叔母さんを見比べて失望しショックを受けている所。
  • 16話は原作の26章と27章の前半に基づいている。
  • 冒頭で詩を書いても怒られないというナレーションがあるが、清教徒が嫌っていたのは小説であった。それはフィクション、すなわち事実ではない話だからという理由である。[1]3部作では1巻の9章でブラウネル先生が授業で詩を読んでいるし、エミリーはエリザベス伯母さんの本棚にあったトムソンの『四季』という連作詩を読んで自分でも詩を作って聞かせている。2巻では、エリザベスが嫌っているのは小説を書く事であり、なぜなら小説は嘘だと考えているから、それ以外はあまり気にしていないという下りがある。[2]アニメでも12話では詩をエンタープライズ紙に署名付きで投稿しする話。
  • 17話のイルゼの母親の話は原作とはかなり異なる。原作では母親は死んだとジミ―がエミリーに語るのはニュームーンに来てすぐの7章で、エミリーはナンシー大伯母さんの所でベアトリスの駆け落ちの噂を聞かされて思い悩み、終盤の30章で麻疹で高熱になったエミリーがうわ言で井戸の事を話し、遺体が発見され、夫を捨てて駆け落ちした母の娘と見なされてネグレクトされていたイルゼが愛娘の立場になるという流れ。

--Mi-no 2007年7月31日 (火) 09:10 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ 『完全版・赤毛のアン』 pp. 251 (18)の解説。
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Half_a_Loaf」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません

「豆知識:公式サイトの謎」の編集案一例[編集]

◆前項の「豆知識:エミリーはいつ生まれたのか」はEmily's Quest からの引用はもうちょっとさらっと文中に記述できたほうがくどくないと思いますが、変更案はとりあえずなし。「公式サイトの謎」は笑えるもの(?)程度に留めました。

  • 声優はキャシディ神父と発音しており、EDのクレジットもキャシディ神父だが、公式ページだけカッシディ神父となっている。これは村岡花子訳の表記。(池松直子訳はキャシディ)
  • ダイヤモンドを無くしたのはミリアム・マレーでアニメも原作通りだが、公式ページのあらすじだけキャサリン・マレーというどこにも登場しない人物が無くした事になっている。

--Mi-no 2007年7月31日 (火) 09:15 (UTC)[返信]

独自研究について[編集]

私も、この記事が独自研究にあたると思います。 独自研究とみなされる部分は、Mi-no氏の指摘とほぼ同じです。 また、肥大化についても、Mi-no氏の指摘に賛同します。

Tolena氏は、なぜウィキペディアで掲載するのか、を一考されてはいかがでしょうか。 独自のホームページをお持ちになり、考察を交えた調査結果を発表される方が、 独創的で豊かな記事を自由に書けることと思います。 また、その内容を求める人も多いでしょう。 ですが、ウィキペディアを利用している人は、その「豊かな記事」を求めていません。 これが「独自研究の排除」の理由だと思いますが。違うでしょうか。—以上の署名の無いコメントは、Poolpool会話履歴)さんが 2007年8月23日 (木) 19:48 に投稿したものです(Lisa Li Lee (Nightmare)による付記)。