ノート:進化論

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「しかしながら、ミッシングリングといわれる中間化石のあいまい性、偶然の積み重ねによる進化の可能性の数学的確率的不可能さ、また分子生物学的見地からの相同の否定など、進化論に対する科学的反証もあり、いまだに仮説にすぎないと考えも強い。」

上の文章は何か文献等の裏づけがあるのでしょうか。一般的に目にする見解とかなり異なるような気がします(特に「科学的反証」の部分)。例えば、化石記録はむしろ進化論を支持する文脈で(ミッシングリングがあるにしても)用いられることが多いですし、数学的確率的な進化の可能性についても適切な淘汰圧を加えると多様な進化が導かれるという結果は数多く得られているようです(ATRのTierraとか)。また、分子生物学的見地からの相同の否定というのは良く意味がわからないのですが、進化論全般の否定につながる一般的な議論につながるのか疑問です。むしろ、様々な生物群で基本的に同じ遺伝子群を共有しているという事実は、分子生物学的見地から進化論を肯定していると思います。

上のような議論はむしろ「進化論と宗教」の節で取り上げたほうが良い気がします。皆様のご意見いただきたく。Azu 2004年7月28日 (水) 15:39 (UTC)[返信]

ダーウィンの進化論に対する否定的見解について、修正しました。斬新的進化と自然淘汰に対する否定を中心の記述に改めました。これに加え、より高度な存在に向けて進化するという「進歩的思想」に対する否定的見解を記述しようと思ったのですが、この考えがダーウィンのオリジナルなものなのか、はっきりしないため追加はしませんでした。なお、ミッシングリンクへのリンクは関連項目に移してあります。Azu 2004年8月9日 (月) 04:13 (UTC)[返信]

「選択」と「淘汰」が混在しています。いずれも“selection”の訳語であることを明記したうえで、どちらか(学術的には「選択」か)に統一すべきではないでしょうか。Diogenesis 2004年11月17日 (水) 18:56 (UTC)[返信]



「しかしながらダーウィンが唱えた、進化は漸進的に起こり不連続性や大きな飛躍はないという考えや、自然淘汰が進化を引き起こす主要な原動力であるとする考えに関しては、その後の集団遺伝学や分子生物学から、否定的な知見が得られている」というのは初耳です。(本当は初耳ではなく、主流とはいえない自称学者がよくそういうこと言っているのは知っています。)たとえば以下に引用するマイアのものが主流の見解だと思います。

ダーウィン説の最大の勝利は、1959年以降80年にわたって少数意見だった自然選択説が、今日では進化に伴う変化の一般的な説明となったことである。(中略)
今日の進化学者がダーウィンと異なる点は、ほとんど強調のしかたの問題に過ぎない。ダーウィンは選択の確率的性格に十分に気付いていたが、現代の進化学者はこれをさらに強調する。現代進化論は偶然の機会が進化で大きな役割を果たすことを知っている。ダーウィンは「選択はなにごとをも成し得る」とは言わなかった。われわれも、である。逆に、選択には強力な拘束がかけられている。そして選択は、さまざまな理由から、驚くほどしばしば絶滅を防ぐことができない。
130年のあいだ、否定しようとして成功しなかったことが、ダーウィニズムを極度に強化した。同所的種形成、遺伝子型の内部での領域凝集の存否、種の完全な停滞の相対頻度、種形成の速度、中立対立遺伝子置換の意義など、なんであれこうした進化生物学内での論争は、すべてダーウィニズムの枠内で起こっている。基本的なダーウィン主義の原則は、かつてないほどしっかりと確立されたのである。(マイアー著、「ダーウィン進化論の現在」P234)
ええと、反論です。ダーウィンが唱えた進化論は19世紀に提示されたものであり、遺伝が何によって引き起こされているのか知られてない時代のものです。まず、その点をご理解ください。当時の進化論で否定されている(あるいは全面的には受け入れられていない)、点が、大きく2つあります。
  • ダーウィンは突然変異に否定的だった。:ダーウィンは、進化というのは非常にゆっくり連続的に進むものだと提唱し、突然変異のような不連続な変化には否定的でした。現在は、突然変異が進化の原動力になっていることは広く受け入れられています。ここが、削除された「進化は漸進的に起こり不連続性や大きな飛躍はないという考え」に相当します。
  • ダーウィンは進化の主因を自然淘汰とした:少なくとも、自然淘汰を否定する見解はありませんが、進化の主因としては必ずしも受け入れられておらず、ここは現在でも統一的な見解が得られていないところです。木村資生の中立説などの分子進化論(中立説とかはご存知ですよね。これをトンデモといわれてしまうとどうしようもない。)は自然淘汰を主因としない立場をとっています。また、新しい種に進化するシステムは自然淘汰ではうまく説明できていません。ここが、削除された「自然淘汰が進化を引き起こす主要な原動力であるとする考えに関しては」に相当します。
さて、最初の問題点、突然変異に関しては、マイアーでも否定されていないと思います。次の問題点、自然淘汰に関しては少々厄介です。引用なさっている文献の著者エルンスト・マイヤーはいわゆる「総合説」の提唱者であり、進化論の研究者の中でも、自然淘汰を強調する立場をとっているからです。ただ、上に書いた自然淘汰による種の進化システムの部分が正にマイヤーの「総合説」の弱点だということは知っていても良いかと思います。
以上より、中立的な観点に戻すために、前の版に差し戻したいと考えますが、いかがでしょうか。Azu 2004年11月24日 (水) 13:54 (UTC)[返信]
前の版からさらに加筆して、Azuさんがここで書かれたように『ダーウィンの主張の内どこが否定されたか』が明確に分かる文章とするのが良いと考えます。前の版では、進化論自体に疑義が呈されていると誤読される可能性があったと思います。 NiKe 2004年11月24日 (水) 14:11 (UTC)[返信]
NPOVにするなら、総合説のマイヤー見解と分子進化論の両論を併記すべきだと思います。進化論は「取り扱い注意」の学説なのでAzuさんの視点が中立とは必ずしも言えません。ダーウィンがここでいう漸進主義だったかどうかも実は怪しいのです。当時、進化論のスポークスマン役だった人物の印象(彼はしっかりと当時の主流にたっていたので漸進主義です。)が大きいという科学史家もいます。Ligar 2004年11月24日 (水) 14:42 (UTC)[返信]
マイアーの記事の「ダーウィン説の最大の勝利」というフレーズから、Ligarさんのご指摘に関連して:
(ちなみに、マイヤーの引用文↑の「1959年」は、1859年の間違いですね。↓はほんとに1959年です)
「……1959年までには、ほぼすべての進化生物学者が、結局のところ自然淘汰がこの進化的変化の創造的メカニズムを提供してくれると結論していた。齢150歳にして、ダーウィンは勝利をおさめたのである。ただし勝利の感激に酔うなかで、後世のダーウィンの使徒たちは、ダーウィン自身が認めたであろうどんなものよりもはるかに狭量な変形版ダーウィン説 を考案した。……大量の小規模な偶発的変異を強調するこの厳格版は、大規模な進化(大進化)のすべては、それぞれ地域集団内で起こる環境変動への小規模な適応が無数の段階を経て徐々に累積した結果であるという見解を暗にとっている。……そして、第3回目の100年祭にあたるいま、ダーウィン説はきわめて健全な状態にある。……分子生物学や発生学における胸おどる発見が、生物の形態の完全無欠さをふたたび強調しなおすと同時に、厳格なダーウィン主義者が強調する累積的で漸進的な変化とは異なる別の変化様式が存在することを暗示してきた。化石の系列を直接調べることによってもまた、漸進観の偏重が攻撃されてきた(種内における長期の均衡状態と地質学的な意味で急速な新種の起原という「断続平衡」的な様式)ほか、……」
これはS.J.グールド『ニワトリの歯』プロローグからの一節(文庫版p.13-15)ですが(イタリック はInukawaによる)、(あえて党派的なとらえ方を許していただくならば、)少なくともダーウィン擁護の立場に立つ人は、(一部の批判者のように)厳密な漸進説そのものをダーウィン本人に帰することはしないのではないでしょうか(『種の起原』のテクストでは、そのあたりはどうなっているのかな?)。
とりあえずの処置としてなら、前の版への差し戻しに一票です。少なくとも十分な説得力のある理由による削除でなかったことは間違いないようなので。Inukawa 2004年11月24日 (水) 15:17 (UTC)[返信]
断続平衡説 saltationism の側の代表的な論客であったグールドその人が、「ダーウィン自身は漸進説 gradualism ではなかった」としているのは、ちょっと面白いと思ったのですが…… 一般的には、よく言われるとおり「ダーウィンは漸進説」ということにしてしまった方が、話がわかりやすいのでしょうね。それならそれで。
こちらでも、ダーウィンが(彼に影響を与えたライエル@「自然に飛躍なし」とは違って)自然の変遷に飛躍した観察例をあげたりしていることにふれながら、それでも結局「ダーウィンの理論から導くことのできる結論は、生物は世代ごと徐々に最適者が更新されてゆくものである、ということです」としています。慎重なダーウィンは(トマス・ハクスリーなどとは違って)漸進性についての明言を避けたにせよ、状況証拠としては、事実上、漸進説的なイメージを思い描いていたと見なしうる、という感じでしょうか。・ダーウィンは突然変異を知らなかった(ダーウィンはネオ・ダーウィニストではなかった)、・後世知られるような短期間の爆発的な進化の例も知らなかった、・だから当然、断続平衡のアイディアももっていなかった、・創造説に対抗するために進化の連続性を強調したが、そこからさらに、進化の等速性・漸進性まで主張を敷衍してしまった、といったあたりがその根拠になりますね。「もし、複雑な器官で、わずかな変化が無数に積み重なって形成されたとはいえない例が明らかにされれば、私の理論は根こそぎに崩れさるだろう」なんていう言葉も、いかにもそれっぽいですし。ちなみに、en:Charles Darwinでも、ダーウィンによる進化論の特徴の1つとして、gradualism がしっかり挙げられていました。Inukawa 2004年11月25日 (木) 14:09 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。以下のような書き振りではいかがでしょうか。Ligarさんの「スポークスマン役だった人物の印象」に関しては、私が全く知らなかった知見であり、今回は反映させていません。よろしかったら詳しく教えていただけないでしょうか。
「ダーウィンは、進化は漸進的に起こり不連続性や大きな飛躍はないという考えを唱えたが、その後遺伝の機構が明らかになると、突然変異といった不連続性が進化に大きく寄与していることが明らかになってきた。
また、ダーウィンは、自然淘汰が進化の主要な原動力であるしたが、これに関しては統一的な見解が得られていない。総合説に代表される「ネオ・ダーウィニズム」では自然淘汰を重視しているが、木村資生の中立説などの分子進化論では突然変異を起こした遺伝子が集団内に広がることが進化の原動力になるとしている。」Azu 2004年11月24日 (水) 15:32 (UTC)[返信]

>厳密な漸進説そのものをダーウィン本人に帰することはしないのではないでしょうか
それはまったくそのとおりですね。削除よりは加筆ということで巻き戻しに反対ではないです。(編集競合してしまいました。Azuさんの加筆でまったく問題ないです。ちなみにスポークスマン役はダーウィンのブルドックと呼ばれたトマス・ヘンリー・ハックスリーです。進化論史をみているとこの人物の使ったレトリックが結構影響力大きいですね)Ligar 2004年11月24日 (水) 15:54 (UTC)[返信]

「突然変異のような不連続な変化」という表現は不適切だと思います。進化に寄与する突然変異のほとんどは連続的で漸進的な変化と考えられています。グールドですら、地質学的なタイムスケールにおいて「不連続」であると言っただけで、世代間の変化について跳躍的な変化があったことを支持しているわけではありません。世代間の跳躍的な変化が適応的でありえないことについては、ドーキンスの「盲目の時計職人」をご参照ください。木村資生もこの本を勧めています(P157「生物進化を考える」)。
「木村資生の中立説などの分子進化論では突然変異を起こした遺伝子が集団内に広がることが進化の原動力になるとしている」という表現も不適切です。「自然淘汰が進化の主要な原動力である」と考えている人だって、「突然変異を起こした遺伝子が集団内に広がることが進化の原動力になるとしている」のですよ。前者が遺伝的浮動によって、後者が自然淘汰によって起こるという違いがあるだけで。
「これに関しては統一的な見解が得られていない」という主張に関して、具体的にどのような異論があるのか、ご教示ください。現在、分子進化の大半が中立な進化であることに異を唱えている進化生物学者を私は知りません。また、「適応的な」進化の原動力が自然淘汰であることに異を唱えている進化生物学者もほとんどいません。ダーウィンは分子進化の話をしていたのではなく、適応的な進化の話をしていたのです。私の理解では、「分子進化の大半は中立であるけれども、適応的な進化に関して自然淘汰が主な原動力である」というのが統一見解です。マイアーやドーキンスやハミルトンやメイナード=スミスやウィリアムズがそういう立場であるのは当然として、木村資生も自然淘汰の「自然淘汰の創造的な力」として、無秩序から秩序を生む機構としての自然淘汰に言及しています(P153「生物進化を考える」)。


「ダーウィンは、進化は漸進的に起こり不連続性や大きな飛躍はないという考えを唱えたが、その後遺伝の機構が明らかになると、突然変異といった不連続性が進化に大きく寄与していることが明らかになってきた。また、ダーウィンは、自然淘汰が進化の主要な原動力であるしたが、これに関しては統一的な見解が得られていない。総合説に代表される「ネオ・ダーウィニズム」では自然淘汰を重視しているが、木村資生の中立説などの分子進化論では突然変異を起こした遺伝子が集団内に広がることが進化の原動力になるとしている。」 というのを「ダーウィン以前の進化論」の章に書くより後の章に書いた方がいいのでは? それに木村氏もふくめ多くの生物学者は適応的な進化の原動力が自然選択であることは認めているので、統一的な見解が得られていないというのは誤解を招く書き方だと思いますが。 自然選択と遺伝的浮動は二者択一ではないはず。--電脳プリオン 2004年12月5日 (日) 05:12 (UTC)[返信]

確かに「ダーウィンの進化論」という章にしては、書き過ぎてしまったきらいがあるとは思います。ただ、ここで現在の進化論との違いを明確に記述することは、当時の議論の特徴を明らかにするためにあっても良いのではないかと思っています。バランス修正は必要ですが。
木村資生が自然選択を否定していると言うつもりは無いのですが、以前読んだ木村氏の文章には「マイヤーらの唱えている自然選択の考え方には否定的である」という趣旨の内容が書かれていました。『岩波生物学辞典第4版』によると、ネオ・ダーウィニズムが自然淘汰万能との立場をとっているのに対し、中立説では自然淘汰よりも突然変異遺伝子の集団内への蓄積のほうが優位にあるという立場をとっているとの記述があります。(見出し項目「分子進化」参照)本文はこのあたりを踏まえて書いております。二者択一ではないのですが、重心を何処に置くかについては、見解にずいぶんばらつきがあるように思っています。Azu 2004年12月15日 (水) 16:48 (UTC)[返信]

おじゃまします。提案です。ダーウィンに関する部分、略歴やら発想のはじめやら、すべてこの欄には不要だと思います。で、チャールズ・ダーウィンの項が内容少ないので、そこへ移して、理論だけここへ残してはいかがでしょうか。それと、ネオラマルキズムは、否定の対象としては出てきますが、いっさいの言及がありません。バランス悪いと思います。ご意見を伺わせたください。--Ks 2005年1月24日 (月) 08:57 (UTC)[返信]

「チャールズ・ダーウィンの進化論」のところで「ウォレスは、個体間に働く自然選択説とともに用不用説も採用したダーウィンと異なり、」となってますが、「用不用説も採用した」という表現は積極的に採用したような表現に見えるので「否定しなかった」的な表現に変更してはどうかと思いますがどうでしょう。--2005年11月20日(日)

種の起源の項目で、ここで議論されている文言がそのまま残っています。そこで、種の起源のほうの該当部分を電脳プリオン様の2004/12/05の文章に置き換えさせていただきました。勝手に使用させていたいたことをこちらでも報告しておきます。--219.108.91.107 2007年5月27日 (日) 05:35 (UTC)[返信]

また自然選択説でも電脳プリオン様の文章の後半部分を転載させていただきました。ご確認いただければ幸いです。--219.108.91.107 2007年5月27日 (日) 05:43 (UTC)[返信]

合意形成のお願い[編集]

現在、OssacraniiさんとKsさんの間で、緩慢な編集合戦の様相を呈しているように思います。加筆とリバートが繰り返されるだけでは何の進展もえられないと思いますので、それぞれに編集内容に関わるWikipedia:検証可能性を満たす情報源を上げていただいて、ノートページで合意を形成していただくのが良いと思います。yhr 2010年4月16日 (金) 11:54 (UTC)[返信]


Ossacranii要望

進化論に「進化が起こっているということを認める判断」と、「進化のメカニズムを説明する理論」という2つの意味がある。・・と明記している以上、これらを厳密に区分しようとする方向性が各記述に必要です。

「現代の進化理論では、「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」だと考えられている。」と言うのは、「進化が起こっているということを認める判断」に基づくひとつの考え方でしかないと思われます。

「進化は実証の難しい現象である」というのも、科学的にそれが提示できない以上、ひとつの進化に対する考え方でしかないと言わざるを得ません。 明白に科学的な提示のできない部分は、その点を明記して厳密性を保って下さい。 2010年4月17日 (土) 10:03


確かに進化を現象として証明するのは難しいですが、傍証そのものは十分にあります。特にDNA関連の部分は非常に強力なものです。また、科学における論説はすべて原則的には仮説です。ですから、それをいちいち仮説である、という表現をするのはむしろ違和感があります。--Ks 2010年4月17日 (土) 01:49 (UTC)[返信]


貴方の違和感ではなく、厳密性を確保して下さい。
科学における論説はすべて原則的には仮説と言うのであれば、最初にそれを明記しておくべきです。
科学には一方で明白な事実と言うものがあるわけですから。
単一の理論でないのであれば、何ら特定化されていないわけですから、その点も明記すべきです。
一般人が考える進化と学術的な意味合いの進化が違うのであれば、生物学者がそれをきちんと提示する必要があります。
また、傍証そのものは十分にあったとしても、進化を現象として証明できていないのであれば、まず証明できていないということを明確にするのが科学として当然です。
科学者であるならば、まず論理的に整合性のある記述を心がけて下さい。----Ossacranii 2010年4月17日 (土) 11:20


総合的な進化生物学の教科書である「進化―分子・個体・生態系、バートン他著、メディカルサイエンスインターナショナル」では、「進化生物学は、現代科学の土台となる学問の一つ(序Xiii)」で、「進化論は、量子力学やプレートテクトニクス、分子遺伝学のような他の科学的な理論と同じくらい確立されたもの(P91)」とされています。進化論が「仮説」であるのは、量子力学やプレートテクトニクス、分子遺伝学のような他の科学的な理論が「仮説」であるのと同様の意味でしかありません。たまたま手元にあった教科書から引用しましたが、同様な記述は、他の生物学の教科書にも見られ、その主張の根拠となる参考文献にあたることもできます。Wikipedia:信頼できる情報源には自然科学の分野においては「支配的な「科学におけるコンセンサス」を記述することを求めています」とあります。上記引用したように、「進化論は実証され、確立された」ことは、既に支配的な「科学におけるコンセンサス」とみなしてよいと思いますが、いかがでしょうか。Ossacraniiさんは、「進化は明確に実証されていない現象である」「進化を裏付ける証拠が提出されているが、確定的ではない」とお書きのようですが、何か信頼のおける参考文献等を提示すべきであろうと思います。--NATROM 2010年4月17日 (土) 02:21 (UTC)[返信]


論理的な厳密性を保ちましょう。
進化論が仮説であるならば、それを明確に提示するのが科学者としての正しい態度であると思います。
特に、この項では「進化論」を科学としてのみ捉えておりません。科学としての進化論と思想としての進化論を同時に書くのであれば、それを厳密に区分すべきでしょう。
量子力学では、確実な観測事実の部分と解釈の部分を厳密に区分しております。
プレートテクトニクスも衛星観測などで確実に観測された事実の部分とそれから類推される仮説の部分は厳密に区分できますね。
進化論もそれと同様だというのであれば、同様な厳密性を保全しましょう。
また、進化学者の支配的な「科学におけるコンセンサス」は「進化論はひとつの考え方」であるということでしょう。それは岩波書店発行のシリーズ進化学の編著者の言葉でも明白です。
まず、「進化は明確に実証されている現象である」、「進化を裏付ける確定的な証拠が提出されている」と言うのであるならば、それを証明してください。証明できないものを、あたかも証明でできたように言うのは疑似科学的な行為ではないでしょうか。
証明できていないのであれば、証明できていない部分は厳密に明示して下さい。--Ossacranii 2010年4月17日 (土) 22:05 (UTC)


Ossacranii提案

不毛な水掛け論になる恐れがありますので、以下のような編集形態を提案させて頂きます。

進化論思想と進化理論を明確に区分し、別項目とし、それぞれに進化生物学の歴史・社会や宗教との関わりの概説をする方が、厳密性を保てると考えます。

科学的知見で思想の優劣を計るような形になるのは、科学として好ましくありません。----Ossacranii 2010年4月18日 (土) 14:40


議論中に同意なしに行われた編集を差し戻し、出典を追加しました。どれも、進化は多くの証拠によって支持されていて、ほとんど疑問の余地はないことを示すものです。本記事は進化の証拠を説明するものではないので、これで充分だと思います。また上の提案は、今回の編集合戦のもととなった記述とは直接関係のないものだと思います。--Trca 2010年4月18日 (日) 06:01 (UTC)[返信]


常識的には科学理論と思想(宗教)概念は厳密に区分され、同列に語られることは無いと考えますが、ウィキペディア(Wikipedia)においては宇宙論に見られるように「Wikipediaは百科事典であるので[3]」幅広く同列に語るということが編集方針のようですので、科学理論と思想(宗教)概念が同列として語られていると言うことと理解致しましたので、本文の記述に同意致します。----Ossacranii 2010年4月18日 (日) 20:10


下記のような記述を見つけましたので、追加しておきます。 ただし、上記の同意を覆すものではありません。

http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=2053

>林 茂生(国立遺伝学研究所系統生物研究センター)「進化発生学の光と闇」に以下のような一説がある。 > >>私が大学院生であった1980年代の前半、正統的(?)発生学を修めた私の恩師が主宰する研究室では進化研究に目を向けることは御法度とされていた。駆け出しの大学院生がわずかな物証を想像でつなぎ合わせてセオリーを作り出すようなアブナイ道に走ってはならない、という至極もっともな親心からの配慮である。 ----Ossacranii 2010年6月7日 (月) 10:20

改名とリンク付け替えの提案[編集]

Wikipedia:翻訳依頼#進化の思想史でも書いたのですが、現在この進化論の言語間リンクが、en:Evolutionが含まれる各言語の項目になっており、en:Evolutionから日本語へのリンクが進化になっているという状態です。そして、この進化論の内容は、大部分がen:History of evolutionary thoughtとかぶっています。言語間で項目が一致しなければならない、ということはないのですが、現状のように言語間リンクが錯綜している状態は好ましくありません。

このため、本項の改名とリンクの付け替えを提案します。

提案A:

  1. 本項を進化論の歴史に改名する。
  2. 「進化論の歴史」に含まれない内容は、進化の方に移動する。
  3. 言語間リンクをen:History of evolutionary thoughtの方に付け替える。

あるいは、簡単に以下のようにしてもいいです。

提案B:

  1. 本項の言語間リンクをen:History of evolutionary thought(が含まれる各言語の項目)に付け替える。
  2. 進化論の歴史あるいは進化の思想史をこの項目へのリダイレクトとして立項する。

どちらがいいでしょうか。ご意見お待ちします。--Adan 2011年4月3日 (日) 05:37 (UTC)[返信]

現状が好ましくないという点では同意します。ただ、「「進化論の歴史」に含まれない内容を進化に移動する」のには反対です。進化の記事は生物学的内容を中心にしているので、本項の進化論と宗教節などをそのまま移動すると、まとまりがなくなってしまうのではないかと思います。そこで、以下の提案をします。分割後の本項は内容の乏しい記事になってしまいますが、時間をかければ、進化論と他分野との関係など、記事の発展は可能と思います。--Trca 2011年4月4日 (月) 00:15 (UTC)[返信]

提案C:

  1. 本項のうち、「進化論の歴史」を進化論の歴史あるいは進化の思想史として分割。
  2. 本項の残りの部分はとりあえずそのまま残し、今後の拡充を図る。

成程。それもよさそうですね。--Adan 2011年4月4日 (月) 11:39 (UTC)[返信]