ノート:越後長岡藩の家臣団

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当ページの整理について[編集]

越後長岡藩の家臣団 は74キロバイト超となっており、通常の編集・投稿が困難になっております。節によっては非常に内容が巨大・冗長のものもあれば、内容が空疎のところもあり、整理・充実の必要があるかと思われます。とりあえず今回、他のページに同様の記事内容があって重複する部分を削除・省略いたします。 この措置を含めて記事整理・充実について御意見ある方はこのノートにて御議論ください。--故城一片之月 2008年1月13日 (日) 06:01 (UTC)[返信]

家老連綿・先法以下の上級家臣については、九里氏(牧野家臣)というように別ページに、分割すれば軽くなりますよ。稲垣林四郎家・真木小太夫家・槙三左衛門家などは、すでに存在する記述と統合がよいと思います。--鉄三郎 2008年1月13日 (日) 13:40 (UTC)[返信]

別の案として、内容にばらつきがあるので、家老連綿・先法以下の上級家臣については九里氏・池田氏・武氏・倉沢氏・三間氏など記述の分量が一定数あるものは別ページとして、親記事となる越後長岡藩の家臣団の該当記事は、せいぜい2~3行程度にとどめ鳥瞰だけはできるようにしておくのも一つだと思います。--鉄三郎 2008年1月13日 (日) 14:18 (UTC)[返信]

牧野家丑年の吉事は、他のどこのページ・記事にも重複がないのに、重複を理由に消去されている。どこかに移動・編集されるのですか? --鉄三郎 2008年1月13日 (日) 14:21 (UTC)[返信]


三河牧野氏三河真木氏三河山本氏牛久保六騎牛久保城吉田城牧野古白牧野成定牧野保成等の各頁で既に立項された項目への統合、あるはそれらに既に記述された内容は省略などの作業が必要です(一部実施済み)。
いずれにせよ、大改築になりそうな予感はしますが、各藩士の家史・履歴を網羅するのは無理でしょうから、掲載するための一定の基準・範囲はあってもよさそうです。勿論、各家の原情報自体のボリューム・粗密は当然あるわけですから、必ずしも一律にはいきませんが、最低線はあると思います。九里氏などの長岡藩では上位の家臣も、別ページ独立となると全国レベルの著名性等の如何の問題も出る恐れはないでしょうか。
また、上級藩士に限ることになってますが、このレベルに到達しないものでも、藩史に大きな影響のあった人物を輩出した家も対象とする余地があっても良さそうですが。まあ、その他の寄稿者・利用者等の御意見もあるかも知れませんので、様子を見ながら進めた方が良いかと思案してます。
御指摘の「牧野家丑年の吉事」は永禄8年の記事のみでしたので、出典元の『牛窪密談記』のページで全項目を取り上げましたので、査読を御願い致します。--故城一片之月 2008年1月13日 (日) 16:45 (UTC)[返信]


全国レベルでは無名の地方の郷士や、郷土史上の有力者・家臣のページの立ち上げも、ウィキ内でみられますが、いまのところ削除対象となったものはないように見受けられます。また安田氏などは多くの書籍などに紹介されているため、全国レベルの著名性は無条件でクリアされると思います。

安田氏・深沢氏・三間氏などの大胡以降の長岡藩新興有力家臣のルーツ・起源の記述も欲しいところです。大胡以降の新興家臣組の小林虎三郎の出自については詳しい記述があるので、当然、安田氏・深沢氏・三間氏などの史料もどこぞにあるはずです。小林虎三郎の出自については諸士由緒記には、簡潔なものしかないのに、あれだけのものが拾えるのだから、他の有力新興藩士も然るべきではないかと思います。

「牧野家丑年の吉事」記事の記述はありがとうございました。--鉄三郎 2008年1月13日 (日) 21:41 (UTC)[返信]


戦国期の真木氏の記述は真木氏 (越後長岡藩重臣)にその大半が一致しているため、そちらへの参照で省略いたします。 --故城一片之月 2008年2月4日 (月) 14:18 (UTC)[返信]

当ページの整理について(第2次)[編集]

出典略号による表示[編集]

  1. 参考文献一覧+出典略号(【出典名】)付与で本文中の記述軽減を図る。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]


重複記述の回避[編集]

  1. 関連ページに類似記述があるものは、省略あるいは記事統合する。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]
  2. 氏族の説明は該当氏族ページあればそこへ詳述し、当ページではなるべく省略する。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]

私や、鉄三郎氏には、三根山牧野氏が、交代寄り合いとして、自立した時期の家臣に関する史料が、武艦と東京大学蔵の史料程度で、管見に、ほとんどありません。これに対して与板牧野氏の創生期の家臣の史料は、官見にあります。

越後長岡藩の家臣団の記事の中に、三根山と与板(小諸)を、対等レベルで記述すると、どうしても、小諸藩の家臣団の記事と重複が出ます。重複回避のため努力しますが、若干はお許しください。私どもには、三根山藩の家臣団の記事を独立して、作れるほど、現状史料がありません。なお幕末に限っていえば、三根山藩家臣についても、かなりの史料がありますが、家臣の先祖の由緒に関することは、倉地氏と槇氏しかわかっていません。家臣筆頭の神戸氏や、それに次ぐ山本氏(岡本氏)が牧野家臣に多くある同姓者と、どのような関係があるのか、本支関係がよくわかりません。もしおわかりで、ウィキペディアの掲載基準を満たせば、記述を厚くするか、新ページを立ち上げて頂きますようお願い申し上げます。

小諸藩牧野氏の家臣団は、非常に読みにくく、整理と改訂が必要だと、考えています。重複に配慮しながら、時間の余裕のあるとき、鉄三郎氏を誘って、取り組みたいと思っています。 --今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 18:39 (UTC)[返信]

表現の簡素化を進める[編集]

  1. 記述要点の設定による記述。{氏族名、該当家名(あれば特記事項)、各歴代(担当職名、知行高(新知・本知)、主要事件)}。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]
  2. 独自研究の怖れのある記述は、一応コメント・アウトして置き、出典あれば表示・存続、出典なしは除去の議論をする。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]
  3. 記述者自身の感想・評論は書かない。--故城一片之月 2009年12月20日 (日) 18:18 (UTC)[返信]

武鑑偏重と、武鑑からの推測記述の回避[編集]

底ない氏は、須原屋武鑑を根拠に長岡藩では、中老と奉行は実質同じとする記述をしていますが、私には武鑑が民間版でアバウトであるため、須原屋武鑑は、誤記か著者の知識の誤りではないかと考えます。長岡藩の常識では、実務責任者の奉行と、名誉職の中老、年寄が同じということはありえず、格式も違い、幕末の非常時以外に、絶対にありえないはずです。出典はすぐに記載できませんが、奉行から中老職に、いきなり進んだのは、藩政史上、河井継之助がはじめてあったと聞いたことがあります。

底ない氏は、筆頭とか次席という役職を、武鑑の書いてある順序を根拠にしているようですが、就任年次順に記述して、到仕、転官すると、消去していく方法の編集をしているように思います(少なくとも文化・文政武鑑の用人を見れば明らかです)。したがって、武鑑のみを根拠とした筆頭とか、次席という表現は中止すべきです。

どうしても、底ないが氏書きたければ、武艦の中老記事の先頭に記載があるとか、二番目に記載があるというのが、正しい記述の方法だと思います。

--今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 18:04 (UTC)[返信]

ほお、なるほど。そういうことなら『中老筆頭』とかの記述はなしにしときましょう。まあ、須原屋版の武鑑で天保年間以前に中老(但し、『中老格奉行』項目がある時期は中老格奉行より下位の7名は『奉行役』や『年寄』と表記していたが、一時中老格奉行がなくなると『中老』表記に戻っていた時期はありますが)と表記されている役職が幕府御用達の出雲寺和泉の『大成武鑑』ではなんと書かれていたかは調べていませんので偏重は事実ですし、その点は謝ります。ただ、民間が執筆したとはいえ、武鑑は幕府の統制を受け、天保年間に八部作の『八の武鑑』が刊行されると刊行禁止処分を受けたり、外国人に販売禁止された(国内情報流出阻止のために)しており、そもそも武鑑出版者は江戸須原屋と出雲寺に独占されています。


但し、米沢藩の小姓頭、仲之間年寄、大目付を須原屋版では纏めて「用人」と表記しているので、諸藩ばらばらの役職名を標準化していた可能性はありますが、鳥取藩などでは普通に小姓頭が立項されている他、米沢藩の序列では間違いは、すくなくとも横山昭男の『上杉鷹山』ではないと思います(ともに用人である大目付の丸山又六より提学神保綱忠が上など)
また、『就任年次順に記述して、到仕、転官すると、消去していく方法の編集をしているように思います』と書いておりますが、文化13年武鑑巻之2では記載がない稲垣理右衛門(実は文化13年は幕府役職の巻之3で取次頭取として登場)が、文化14年ではいきなり用人序列第5位に登場(当時用人として表記されているのは8人)に登場し、それ以前からいた安田渡や菅沼助八郎より上に存在していたり、文化13年に用人筆頭である今泉主税が、文化14年にはそれ以前は下位だった長尾五郎太夫や毛利畿右衛門より下になっていたりと単純な就任年次順じゃありません。明らかに家格か部署も考慮しての序列と思います。
また、『中老と奉行は実質同じとする』というつもりではなく、武鑑を見る限りでは奉行は中老より後に出来た呼称で、中老上位及び2位を『中老格奉行』と呼称し、他の中老を『奉行』と改名させているように見えるんですよ(実際の牧野家家中では当初から奉行と中老はあったかもしれませんが)。『奉行から中老職に、いきなり進んだのは、藩政史上、河井継之助がはじめて』でも『中老から奉行に呼称変換された奴は河井継之助以前にいた』ことにはなります。
一番いいのは、今泉総一郎氏と故城一片之月氏が、中老や奉行という役職がいつからあったのか、武鑑でいうところの『中老』就任者が、長岡藩内では当時何だったのか書いてくれれば済むことですし(自分でそうしたいが。地理的、経済的に無理なため)、そうしてくれた方が記事的にもいい気がするのだが。本当に長岡藩の史料を調べて『民間出版の武鑑はデタラメ』(実際にそういうのもあったりするが)というならいいですが、もし調べてないならこれを気にどのようにデタラメか調べて『武鑑ではこう書いているが、実際の藩史料ではこうなのでデタラメだ』と執筆すればいいし、その方がありがたい。
ちなみに文化武鑑には『能勢喜内』なんかもいるが、あれも各藩士氏族の項目消しほうがいいんですかね?。--42底ない 2009年12月23日 (水) 00:17 (UTC)(見易さの為、イデント下げ --故城一片之月 2009年12月23日 (水) 02:13 (UTC)[返信]


あの、私は「江戸武鑑」の記述が民間だから信用できないとか、デタラメなどと全く言った覚えはないのでお間違えなく。長岡藩における職制・職名が常に同一であった保証はなく、ものによっては時代により変動・変遷があるやに見えるのですがこれをトータルに記述した書物(2次史料)を私は知りません(中老・年寄・御奉行はその例)。1次史料である、「江戸武鑑」・長岡藩の各時代「分限帳」の記述から拾えばなにがしかの事は言えるのかも知れませんが、その場合はWikipedia執筆者の独自研究となってしまう可能性もあります(→情報の合成)。
「中老」職について、過去の私の記述部分は今泉省三著『長岡の歴史 1』の内容を出典として寄稿したものです。該当出典本に中老が何時から出現したかについて、「享保6(丑)年(1721年)9月27日迄には、(武孫之進)が禄高五百石に至って中老中の上座に進められた(「由旧録」)」とし、「文化6年(1809年)以降は中老が増加した」旨の説明があるが、初めて設置の時期は特定してはいないとおもいます。私として何をページに載せられるかは出典有無を見ながら検討はしてみます。--故城一片之月 2009年12月23日 (水) 02:13 (UTC)[返信]


底ない氏は、各藩士氏族の項目に武鑑から引用を開始しているが、すべての各藩士氏族について、今後、そのような引用進める考えかどうか確認したいと思います。著名性がある藩士以外で、特定の藩士氏族にだけ武艦の姓名を引用をすれば、公平・衡平に欠く記述になってしまうので、削除が妥当だと考えます。--今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 18:58 (UTC)[返信]

私は包摂主義者なので、どなたの投稿であれ単純に削除は気が進みません。今まで鉄三郎氏・牧野幕府氏とも、その様なやりとりでやってきております。今、必要なのは排除ではなく、該当ページにおける記述ルールの合意ではないでしょうか?(明日がきついのでこの辺で)--故城一片之月 2009年12月22日 (火) 19:18 (UTC)[返信]

私も同意します。ルール作りが肝要だと思います。ですから一方的な削除はしないつもりです。--今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 20:49 (UTC)[返信]

投稿合戦ではなく紳士的なものであっても、武鑑の反論を長岡藩文書を根拠に記述をして両論併記にしたら、記述量が膨大になりますね。新規立稿のほうがよいかもしれません。--今泉総一郎 2009年12月23日 (水) 02:00 (UTC)[返信]

私は「江戸武鑑」の信頼性について反論などする意志は全く有りませんので、お間違えなく。--故城一片之月 2009年12月23日 (水) 02:23 (UTC)[返信]
武鑑記述内容に対する反論を長岡藩文書を根拠に記述をして両論併記にしたら、確かに記述量が膨大になるので、無理にとはいいませんが新規立稿のほうがいいでしょう。B型気質故に感情的に成りがちですが、個人的には『長岡藩の実際の職制史料と江戸武鑑に相違があって当然だし、それを両論併記した方がいい』と考えています。そもそも江戸武鑑を出しているのは長岡藩でないので、武鑑に信憑性があっても役職などに見解、解釈の違いが出てくるのは当然ですので、両論併記したほうがおもしろいとは思います。--42底ない 2009年12月24日 (木) 03:54 (UTC)[返信]
無論、Wikipediaの場合、両論併記など、複数観点の出典提示可能な記述が推奨されています。私も以前はどちらの記述が正しいかで議論してた気がしますが、反省しており「真実」ではなく「事実」の記述をすべきであり、異なる事実・複数存在する事実なら併記が妥当と思います。今、思案中なのは、出典表示の方式の統一なんですね。現状、バラバラですから。容量が節約できて、かつ見易いやり方を…--故城一片之月 2009年12月24日 (木) 13:07 (UTC)[返信]
それと、必要に応じての新規立項はこのページの容量の点からも、有って然るべきですが、どの様なテーマ、タイトルをお考えですか?例の武鑑による役職者の変遷ですか?--故城一片之月 2009年12月24日 (木) 13:20 (UTC)[返信]

:今泉総一郎氏は『著名性がある藩士以外で、特定の藩士氏族にだけ武艦の姓名を引用をすれば、公平・衡平に欠く記述になってしまうので、削除が妥当だと考えます。』とおっしゃいますが、なるほどそのとおりだなと思います。というわけで、そうしますが、そのかわり、『三百藩家臣人名事典4』(新人物往来社)の越後長岡藩に一人として登場しない先法家の記述縮小を同時に行いたいと思います。先法家の特殊性はよく分かりますが、中老や用人に就任した人物の記述が『著名性がある藩士以外の人物』なら、先法家もただの名門という以外に長岡藩に対する貢献が今一な家に対して現状は項目を裂きすぎです。まだ、高野家や伊藤家、陶山善四郎家、村松忠治右衛門家に項目を裂いたほうがいい。『先法家の意義』はまだしも出自なんか各氏の項に記載しとけば十分です。先法家の記述は高野家並か、それに毛が生えた程度で十分です。とりあえず三日以内に自身の武鑑記載人物の削除と先法家記述の縮小、『三百藩家臣人名事典4』を元にした記述追加を行う予定です。--42底ない 2009年12月29日 (火) 00:12 (UTC)[返信]

    • 先法家の記述量が多いのは、室町、戦国期に牧野氏の被官的要素が、家老の家より少なく、独自の歴史を持っているからです。だからこそ藩主と兄弟分の筋目なのです。「長岡の歴史1」などには、先法家の記述がかなりあります。長岡家老の家でも、稲垣平助家と、山本五十六の先祖に当たる山本家以外は、全国レベルでみた場合は、先法家と同じく、興味を持つ者はは、かなり限られるとは思います。しかしウィキペディアの掲載基準を満たせば、掲載できるわけでそれを、削除するのは、乱暴だと思います。公平・衡平を欠かないように、越後長岡藩の家臣団の記事は、網羅的記事になったのだと思います。--今泉総一郎 2010年1月1日 (金) 15:47 (UTC)[返信]
    • この表題が『越後長岡藩主家牧野氏家臣団』であれば今泉氏のいうのももっともなのだが、記述の3分の1が三河時代のものであるのはどうかと思う。削除発言は乱暴だったことは申し訳ありませんでしたが、『室町、戦国期に牧野氏の被官的要素が、家老の家より少なく、独自の歴史を持っているから』というだけで、三河時代まで『越後長岡藩の家臣』に含むのもどうかと思うし、そもそも槙氏、萩原氏、疋田氏は『牧野氏家臣』として立項しているのだから先法家の出自はそちらに移すか、出自も載せるならこの項目自体を『越後長岡藩藩主家牧野氏家臣』に変えた方がいいのではないのか?。出自減らす分、先法家の越後長岡藩時代の業績の方を詳細にしないと『藩主と兄弟分の筋目というだけで特権を持っていただけで、長岡藩藩政に対して貢献していない家』にしか見えてこないし、これは『越後長岡藩の家臣』としてはまずいのでは?。--42底ない 2010年1月5日 (火) 07:57 (UTC)[返信]

『長岡市史』を見る限りにおいては、先家についての説明が『250石高で家老に直属し、奉行となるものもあり、又無役で終わる人もある』しかない上に、用人の説明においては『寄合組から一人』とあり、『先家から一人』とはどこにもないことや、陶山氏など一代限り貢献者はいいとして、高野貞吉の項目で説明(しかし、活躍した時期を割愛)しているとはいえ3代に渡り藩教学に貢献した高野家に対する記述が軽すぎの上、河井継之助の秩禄改革で100石以上の藩士は軒並み減石されているのに先家の記述は軒並み詳しい割りにその減石に関する記述がなかったり(北越戦争で先家が恭順派よりなのはこのためでは?)と先法家偏重がすぎて、この『越後長岡藩の家臣団』を記述している人物が、先法家の子孫の方の様にすら見えてしまうのはちとまずいのでは?。とはいえ、「長岡市史」では『長岡藩の歴史=牧野家の歴史なので、市史の記述を牛久保時代まで含めた』旨がある点を考慮し、先法家の出自についてはもう問わないことにします。記述もそのままでいいと思います。--42底ない 2010年1月10日 (日) 00:10 (UTC)[返信]

      • とりあえず三日以内に自身の武鑑記載人物の削除と先法家記述の縮小、『三百藩家臣人名事典4』を元にした記述追加を行う予定です。--42底ない 2009年12月29日 (火) 00:12 (UTC)とありますが、作業をしているのは、ただいま昇天中という参加者です。ただいま昇天中という人は、何の協議もなく、作業をしています。マルチアカウントは原則として禁止されていますが、マルチアカウントか否かは、いまのところ不明です。またこの参加者は、さまざまなウィキペディアのルールを無視して、一方的な作業をしています。--今泉総一郎 2010年1月1日 (金) 15:52 (UTC)[返信]
        • 陶山善四郎、村松忠治右衛門など一代だけ、有名な家臣は、なるべく独立ページにして、姓名を記事名にして、新規立稿をしたほうが良いと思います。すでにいくつかは、独立ページになっているはずです。--今泉総一郎 2010年1月1日 (金) 16:21 (UTC)[返信]
      • 200石の鬼頭家と河井継之助の腹心(鬼頭少山か?)は同一なのだろうか?。『河井の腹心』が鬼頭少山なら世禄32石と『三百藩家臣人名事典4』にあるから200石の鬼頭家とは別家なのでは?。--42底ない 2010年1月5日 (火) 08:38 (UTC)[返信]
    • 42底ないさんは、別家と分家の違いを、御存じで記述なさっているとは、存じますが、鬼頭少山は、別家ではありません。別家とは、いろいろな使われかたをしますが、主人の家からのれん分けをしてもらって、独立した場合なども別家という呼び方をすることがあります。単に他の家という意味で、別家という語句を使うこともあります。越後長岡藩の家臣団の安田氏、九里氏 槇氏(槇三左衛門家)の記述にある別家の意味と、鬼頭家の別家の意味の使われ方が異なるのは、編集上、このましくないと思われます。武家で、別家の場合は、本家の支配が薄く、分家のように本家の家風を見習い、重大事は本家に相談するという習わしが乏しかったようです。--今泉総一郎 2010年1月7日 (木) 01:17 (UTC)[返信]
    • 新人物往来社の書籍は、意外とアバウトな記述が多いのです。いちいち議論する時間と、場所がないので、お含みおきだけ頂きたく思います。例として鬼頭氏の項目に書いておきました。--今泉総一郎 2010年1月7日 (木) 01:50 (UTC)[返信]

あと、『武鑑による役職者の変遷』というよりは『諸資料で見られる越後長岡藩の役職者変遷』あたりが、いいような気がしますし、『越後長岡藩の役職変遷における国元史料と江戸武鑑との相違』でもいいと思います。もっとも武鑑に記載されているのは、各藩留守居や江戸の大名貸しなどにとって必要な対外交渉役である、家老、中老、奉行(大成武鑑では年寄)、用人、城使、附、公用人(出雲寺の大成武鑑においては部屋番、定介が出ていたことがある)に限定され、幕末まで番頭は登場せず、新潟奉行や郡奉行なんかでないので、武鑑以外で補足した方がよかったりします。今泉氏の言うとおり、基本史料としては厳しいところです。--42底ない 2009年12月29日 (火) 00:12 (UTC)[返信]

タイトルはなるべくシンプルに『越後長岡藩の役職者変遷』などとし、定義文において、当該ページが越後長岡藩のデータ編(または参考編)として分岐するページであること、また武鑑・由緒記等の諸資料による比較によることなどを宣言すれば良いと思います。--故城一片之月 2010年1月10日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

出典提示の御願い[編集]

下記の{ }内の既投稿部分は独自研究の怖れがあるため、本文から除去し移したものです。もし、出典を御存知でしたら明示のうえで本文復帰でも結構です。--故城一片之月 2010年1月8日 (金) 15:23 (UTC)[返信]

  • 2010年1月8日移動分。
{藩主牧野氏はその家伝・系図において、徳川氏に服属する以前の内容には意図的に記述を避けたり、忘却された部分が多いと推察されるが、真木(槙)氏と、野瀬(能勢)氏を知ることは、謎の多い藩主牧野氏の安土桃山時代以前の動向を知ることにつながり、徳川氏(松平氏)の東三河地域併合・三河統一の過程の解明に寄与する。} --故城一片之月 2010年1月8日 (金) 15:23 (UTC)[返信]
  • 2010年1月31日移動分-1(「先法家#先法三家の特別な取扱い」節より移動、出典提示希望)。
{<!--牛久保牧野氏が近世大名に列した際、この三家の処遇を巡って混乱した。この混乱に先立って、徳川家康が牛久保城主牧野氏と、戦国大名今川氏の編成であった牧野組(牛久保衆)を家臣として組み入れる際、解体した牛久保六騎の処遇に差があったことへの不満が、背景としてあるものと推定される。幕府が武家諸法度で諸大名の家臣の数(あるいは軍役)に言及したのは、天和3年(1683年)からのことであるが、豊臣秀吉以来の慣習として100石に1人の直参士分を家臣として擁するというのが、一応の目安であったとする指摘や、諸大名には、中間(ちゅうげん)と、非戦闘員を除いて50石に1人の軍役があったとする見方もある(諸説あり)。この条件に適合させるためには、大身の家臣が多くては困難であるので、藩主の権力強化策と併せて、大身であった家臣の一族・郎党を分割して家臣団化する方策を打ち出すことがあった。当然に対象とされた最上級層の家臣等から、猛反発を受けることがあった。|独自研究の可能性のためコメントアウト--> }--故城一片之月 2010年1月31日 (日) 05:48 (UTC)[返信]
  • 2010年1月31日移動分-2(「着座家・中老職・旧知1000石以上家臣」節より)
{先法家の疋田家は、懲罰による減知や、分家の分出により、江戸時代後期には、本給450石となっていた。明文化された規定はなかったようであるが、先法家より格下の藩士の本給は、疋田氏の家禄を上回らない範囲とされ、それ以上となると、次代で分家を分出する慣行・または不文律があったものと推察されている。[要出典]、}--故城一片之月 2010年1月31日 (日) 05:48 (UTC)[返信]

先法家記述に関して[編集]

先法家出自[編集]

先法家出自に関しては、三家各々のページが既にあるので、「越後長岡藩の家臣団」では省略し、そちらで記述して誘導すべきと私も思いますが、どうでしょうか。--故城一片之月 2010年1月9日 (土) 04:42 (UTC)[返信]

出自部分は、真木氏を除いて、移動でよいと思います。真木氏は、真木氏(牧野家重臣)のページで鉄三郎氏が記述中なので、様子をみるということにして、越後長岡藩の家臣団の部分では、コメントアウトにするのが良いと思います。--今泉総一郎 2010年1月9日 (土) 16:09 (UTC)[返信]

今泉さんの御意見を了承。但し、1週間位は他の方の意見をこのまま待ちます。--故城一片之月 2010年1月10日 (日) 02:38 (UTC)[返信]


Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の規定に従い、越後長岡藩の家臣団#先法家出自を「真木氏 (牧野家重臣)」、「越後長岡藩重臣野瀬氏 (能勢氏)」、「疋田氏 (牧野家重臣)」の各頁に転記し、本節:先法家の出自は省略の手続きを行う事を提案致しました。賛・否及びコメントの方を宜しく御願いします。--故城一片之月 2010年1月18日 (月) 15:14 (UTC)[返信]


”重臣の分家の分出”節および”着座家、世禄300石以上の上級家臣”節のrvについて[編集]

この節に関して、独自研究の可能性の大きい編集事項が発生しております。大変遺憾ながら、利用者:今泉総一郎さんの今回の編集は差し戻させていただきました。

(理由)

  1. ”重臣の分家の分出”節の「450石を越えることはあり得るが、その存在は一代限りであって、次代で分家を分出するか、以前の家禄に復する慣行・または不文律があった」も典拠が不明であり、私の管見でもその様な記述は見当たらず、「不文律」・「推察される」の表現からもそのようなものが長岡藩において成文化されておらず、既投稿者の独自研究による疑いがあります。
  2. ”着座家、世禄300石以上の上級家臣”節の趣意である300石以上が上級家臣という区別の根拠(典拠をともなう)が明らかではありません。
  3. 用語・表現の問題。中老職就任要件を300石以上を境とする明確な基準が存在しないために「四捨五入すれば300石になる250石以上の家臣」というような無理な表現になっていると思います。また、「推察される」とか「…とみられる」などの推論を示す表現は寄稿者の独自研究を強く印象づける表現であり、この様な形の記述は推奨されません(推論・推定を示す場合でも典拠の記述がその様になっていれば問題ないですが…)。
  4. ”着座家、世禄300石以上の上級家臣”は定義のあいまいさのみならず、高野余慶が『由旧録』で述べている、「家格の筋目は知行の高下によらぬ」という、当時の長岡藩の考え方は尊重されるべきだと思います。知行高で区別するのではなく、実際に文献にみられる平士・者頭・取次・番頭・用人・中老・先法家・家老あるいは、小組・大組・寄会組・加判組支配・評定役および着座家・年寄のような区分による節構成の方が記述に矛盾を生じないのではないでしょうか?

以上の疑問点が解決されることを望みます。--故城一片之月 2010年1月24日 (日) 01:34 (UTC)[返信]

差し戻しは了承します。私が書いた部分以外の要出点については、回答を差し控えます。

(1)1000石以上の初期の重臣、(2)着座家(中老・年寄職)・寄合組で、一つの項目を作り、(3)その他、主要な家臣、事件に関与した家臣(4)幕末・維新期の重臣、(5)支藩に転籍した主要家臣の4つに再編成したら、良いと思います。いくつかの家臣は削除することになると思われるので、牧野幕府さん、鉄三郎さん、底ないさんなどから、反発が出るといけないので、個別家臣の記事削除は、慎重さが求められる思います。--今泉総一郎 2010年1月24日 (日) 21:33 (UTC)[返信]

再編すれば、稲垣藤八家、槇三左衛門家、稲葉家以外は、すべて残ると思います。原氏は小倉氏に改姓して活躍した記述が落ちていますから、それを補充すれば残ります。 藤八家は稲垣惣領家のところで2~3行述べて、槇三左衛門家は、真木氏(牧野家重臣)のページで述べればよいと思います。稲葉氏は財政難の中で新規召しだしを高禄でしたのだから、何かよほどの理由があったか、藩主の養子入りに随従したものと思われますが、何か情報はお持ちではないでしょうか。--今泉総一郎 2010年1月25日 (月) 00:48 (UTC)[返信]

深津氏と大川氏は300石以上だが削除も考えられます。しかし大川氏は幕末・維新期の重臣に移動すればよいかもしれません。--今泉総一郎 2010年1月25日 (月) 00:51 (UTC)[返信]

私の案に了承頂き有り難うございます。稲垣権右衛門(1100石)、真木茂左衛門(700石)など、重臣であったかどうか史料等の記述が無いものは推定で扱うよりも、家老家の稲垣太郎左衛門、先法家の槇氏の各項目で高知行であったことを付記するのが自然であり、典拠に即した取扱いだと思います。
現在、記述が有って、節構成組み替えで削除の可能性あるとされる各家についても、とりあえず保留枠を残し、今後の議論で扱いを決めることにして、節の枠組みの変更を先行した方が無理無いかも知れません。記述内容の整理は取りあえず独自研究や不適切表現の除去・修正にとどめ、段階的に整備するのがよいかと勘考します。--故城一片之月 2010年1月25日 (月) 11:48 (UTC)[返信]


家老五家の当主歴代の実名について[編集]

越後長岡藩の家臣団#家老五家において、今泉総一郎さんの「山本(帯刀)家と牧野(平左衛門)家のみに歴代実名の記述があるのは、バランスを欠くので他家も補充したらどうかとの意見についての議論です(→利用者‐会話:故城一片之月#越後長岡藩の家臣団の山本氏)。--故城一片之月 2010年2月4日 (木) 11:20 (UTC)[返信]

歴代実名の単なる羅列は意味がなく、歴代実名は記述内容の流れで必要ならばその都度の記述でよいと思いますので、私は自分の会話ページでお答えした通り、羅列の記述は不要の立場です。削除が妥当と考えます。--故城一片之月 2010年2月4日 (木) 11:20 (UTC)[返信]


北越戦争を前に出奔した勤皇派5人とはだれですか。 北越戦争のときには家老稲垣太郎左衛門家は平助の一派だったのでしょうか。--高円寺藩 2010年2月13日 (土) 08:33 (UTC)[返信]

史料不足で回答できません。故城一片之月さんもし御存知なら、お願いします。--今泉総一郎 2010年2月13日 (土) 15:24 (UTC)[返信]