ノート:諸法無我
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これは、哲学としての仏教ですね。仏教における禅(仏教の入門で最大の関門)を越えないと理解できない話です。しかし、よく理解できるようにまとまっています。すばらしいです。
西洋哲学との比較 紀元前5世紀頃にシッダルタの悟った「諸法無我」は、十八世紀の哲学者カントの「物自体」と同じことをいっているのだと思います。哲学の整理のためのメモに書かせていただきます。--バンパー(会話) 2012年5月12日 (土) 21:22 (UTC)
カント「純粋理性批判」1巻92ページ
053 物自体は認識できない
(前略)人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、 これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。
仏教
「スッタニパータ」中村元訳
236ページ。
「どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう」
「ブッダの真理のことば 感興のことば」 中村元訳
49ページ
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆空)
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我)
以上より、カントは、物自体を認識できない物質の本質としているが、 仏教は、物質の本質を空虚としており、また、物質の本質が認識できないともしていない。
これによって、カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じという議題は、まちがっていたと結論づける。--バンパー(会話) 2012年6月12日 (火) 08:14 (UTC)