ノート:花見弘平

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中央日報記事[編集]

2013年11月26日の記事『【グローバルアイ】ケネディと「天霧」艦長』で中央日報の金玄基東京総局長が「事務室に戻って資料を調べた。しかし“ファクト”に少し差があった。ケネディが先に手紙を送ったのではなく『天霧』の艦長だった花見弘平が先にケネディに『謝罪および激励』の手紙を送ったということだ。 」としているが、文献から実際に読み取れるのは「最初に手紙を送ったのは花見」だが、「その前にコンタクトを求めたのはケネディ」という"ファクト"である。

なお、アメリカ大使館が公開しているこの時の花見による最初の手紙に謝罪の文言はない。

--4th protocol会話2018年8月13日 (月) 06:28 (UTC)[返信]

補足。アメリカ大使館の手紙は英文のため、翻訳前の手紙には謝罪の文言が入っていた可能性はある。

--4th protocol会話2018年8月13日 (月) 06:58 (UTC)[返信]

検証結果。『ケネディを沈めた男』11章に経緯が書いてあった。

まず1951年に下院議員として来日したケネディが細野軍治に「自分の乗っていた魚雷艇を撃沈した駆逐艦の艦長を探してほしい」と依頼して帰国。細野は復員局等をあたって花見を探し当てた。1952年当時ケネディは上院選を控えており、細見から激励の手紙を求められて花見が書いた手紙が上記の画像付きで米大使館が公開している手紙である。この英文の手紙は、そのとき海軍兵学校時代から英語が得意だった花見自身が書いたもので、日本語からの翻訳は行われていない。『ケネディを沈めた男』中に「I had been the destroyer commander since October 1940. 」以下の訳文があるが、対等の立場を強調こそすれども謝罪の文言はやはりない。

ケネディが先に手紙とサイン入り写真を送ったとする報道もあったようだが、それらは上院選後に花見へのお礼として送ったもののようである。また手紙の文面をみても、花見の自己紹介やケネディのことを知った切っ掛けが初めに書かれていることから、これが両者のやり取りの最初とみるのが自然である(金氏のいうところの『謝罪および激励の手紙』でなければならない)。

金氏は一体何を「事務室で調べた」のか知らないが(まさか「I regret very much that I missed the opportunity of meeting you during your last visit to Japan.」のregretだけ読んで謝罪と早合点したわけはあるまい。まさかね)、「花見が手紙を先に書いた」ことは恐らく事実であったにせよ(ケネディ側が先にコンタクトや選挙応援を花見に求めている以上、本来これ自体あまり意味があるファクトではない)、「謝罪」というファクトがない以上、歴史修正主義の批判をしたいが為に自分自身が歴史改竄の愚を犯していると結論せざるを得ない。

ただ、気になるのは、「I come to know from the Time magazine that you are going to run for the next election of Senators. 」以下の英文は比較的サラっと流しているが、『ケネディを沈めた男』の訳文では「不平等条約改定」等踏み込んだことが書いてある。どこかのタイミングで花見の手紙が「盛られた」のかケネディ側が選挙戦にまずい箇所を「削った」のか……

--4th protocol会話2018年8月17日 (金) 15:47 (UTC)[返信]