ノート:科挙

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このページの「歴史」「」のところに、『唐においては、科挙は郷試会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。』とあります。しかし、村上哲見氏の『科挙の話 試験制度と文人官僚』や『科挙の歴史』(月刊しにか、1999年9月号寄稿)によると、唐代では郷試もしくは六学を経て、省試が最終試験と記載されています。

また、その後に、吏部試が行われ、その「宏詞科」もしくは「抜萃科」において、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査され、採用が決定されたとあります。

さらに、代に省試は会試と改められたとされています。(元代から郷試は州ではなく、省という行政単位で実施されることが背景)

このページの記載事項における事実の誤認であると思われますので、こちらで改変を行ってよろしいでしょうか? ご意見をお待ちしております。--Mamme 2009年10月11日 (日) 02:46 (UTC)[返信]

特に、反論もありませんでしたので、加筆および改変しました。--Mamme 2009年10月31日 (土) 11:57 (UTC)[返信]