ノート:王様の仕立て屋〜サルト・フィニート〜/過去ログ1

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  • 2006年-2013年ログ

漫画的表現について[編集]

登場人物の紹介だけではバランスが悪いかと思い,「漫画的表現についての付記」という項目を追加しました.他によい項目案があったり,人物紹介だけで十分であるという意見があれば,この項目は削除してしまっても構いません. --以上の署名のないコメントは、218.217.228.51会話/Whois)さんが 2006年12月5日 (火) 16:41 (UTC) に投稿したものです(Game-Mによる付記)。

性急な更新について[編集]

「仕立て屋」のページは盛んに更新されていますが,「百科事典」という性格上

  • まだ決着・評価のついていない事柄を本文に加えるのはよくない.(特に,最新号でちらっと出たエピソードまで焦って書き込む必要はない)
  • 同様に「最近は...」「現在は...」という表現は時点が曖昧になるので控える方がよい.
  • 読む人のイメージ構築に寄与しない,単なる「誰がどこでどうしてどうなった」的なエピソードの記述はいらない.
  • 記述は簡潔な方がよい.

と思います.私の個人的意見ですが御一考ください. NGiraffe 2007年4月12日 (木) 12:26 (UTC)

登場人物の配置について[編集]

2007年8月13日 (月) 06:34の版 211.15.48.162 氏の編集で、登場人物の配置が登場順に変更されましたが、却って読みにくくなったように思います。この点について 211.15.48.162 氏と他の編集者の御意見を伺いたく思います。ちなみに氏のコメントによると”「主人公、およびその周辺」などの仲間分けでは、話の展開で所属する仲間が変わってしまうから。”登場順に変更したとのことです。

今改めて見直すと「主人公、およびその周辺」「ジラソーレ社(創立メンバー)」「ジラソーレ社(遊撃隊)」「その他準レギュラー」という分類には改良の余地があるかもしれません。しかし登場人物を紹介するときに、作品内での立ち位置や人物間の関連をもとに配列するのは自然であり、他の作品の紹介でもそのように配列されていると思うのですが。「話の展開で所属する仲間が変わってしまう」という理由にしても、「所属」が変わった例は多くなく、混乱が生じたこともないと記憶しています。今敢えて登場順に変更する理由がわからないので御説明下されば幸いです。

ついでに「ジラソーレ社史」を削除されていますが、理由があればそれもお聞かせください。 NGiraffe 2007年8月13日 (月) 13:53 (UTC)

(反対)前の配置の方が見やすいと思います。又、「ジラソーレ社史」の削除にも反対します。編集合戦になるのですぐにはやりませんが、1週間ほど待って、特に反対がなければ、そっくりリバートするつもりです。--Game-M 2007年8月13日 (月) 15:14 (UTC)
私も前の配置に戻すことに賛成です。明らかに分かり難くなっています。所属が変化に関しては、あくまで出向の場合が多く、完全な異動は少なく、せいぜい人物紹介の最後に「現在は○○に出向中である。」とでも付け足しておけば問題無いと思います。(そもそもジラソーレ社メンバーの区分けは、創立メンバーと遊撃隊なので、所属云々は関係なかったはずです。)そこにジラソーレ社史もあれば、上記の異動の補足にもなるため、これも差し戻すことに賛成です。
また、その他準レギュラーや主要人物、何回か登場した人物などについては、イタリア/イギリス(ロンドン)/フランス(パリ)で細分化することを提案いたします。--EULE 2007年8月16日 (木) 05:01 (UTC)
Game-M 様 EULE 様御意見どうもありがとうございます.準レギュラーを居場所で分類するのはいい案ですね.
今の登場順での配置に対する説明もありませんし,改悪としか思えませんので私も差し戻しに賛成します.NGiraffe 2007年8月18日 (土) 08:16 (UTC)
(報告)差し戻して、「その他準レギュラー」節を居場所によって分割しました。--Game-M 2007年8月23日 (木) 09:08 (UTC)

リバートへの対処[編集]

2007年9月22日 (土) 02:50 の私の編集がリバートされてしまったわけですが,今後の対処に対して助言を頂きたく思います.現在の私の案としては

  • ベアトリーチェの人格についての解説を書き,台詞が主体とならないようにする.(私が編集時に考えたことは,「以下に例をあげるように」という記述がある以上,(作品内の)事実をあげるのが望ましく,そして発言は作品内の事実である,ということでした.)
  • 台詞を若干抽象化して変形する.具体的には 2007年1月4日 (木) 14:52 の版程度の記述を採用.しかしこれも,オリジナルによく似た記述なわけで著作権侵害といわれる恐れあり.
  • 台詞を例としてあげることを諦める.著作権上の問題が起きないように台詞を登場させることは大変難しい.

があります.このなかに適切でないものはあるでしょうか. ちなみに該当部分は 2007年9月3日 (月) 14:03 の版から復活させたもので,2007年1月4日 (木) 14:52 の編集から半年以上の間本文中に記載されておりました.今回突然リバートされてしまって,若干理不尽なものを感じております.NGiraffe 2007年9月22日 (土) 10:34 (UTC)

(台詞を諦めるべき)リバートを実行した者です。他の漫画やアニメの記事で台詞等の原作丸写しの記載があると、たいてい著作権に基づく削除依頼が出され、ほとんどの場合中抜き削除が成立しております。中抜き削除に台詞と関係ない記述がなるべく巻き込まれないよう、気付いた直後にリバートしました。私個人は、そこまで目くじらを立てる必要はないと考えますが、そうは思わない人が記述内に台詞を見つけた場合の事を考えると、「台詞を例としてあげることを諦める」べきでしょう。もしかすると、現在記事に残っている台詞も、履歴を遡ってリバートしないといけないかもしれませんね。--Game-M 2007年9月22日 (土) 12:45 (UTC)、2007年9月23日 (日) 02:25 (UTC) 修正
台詞なしに改めました.(原型をとどめないレベルへの)台詞の抽象化も改めて検討しましたが,後のほうの「買収・心理操作・時には犯罪まがいの...」という記述と変わらなくなってしまうのでやめました.NGiraffe 2007年9月23日 (日) 02:12 (UTC)
(コメント)今の記載で良いと思います。あと、もう1つ選択肢があったのを忘れていました。
  • 台詞をガイドラインに従って引用として出典を明記した上で記載し、著作権違反を避ける.「単行本○巻の○頁から引用したか」をいちいち調べるのが面倒だが、台詞の記載は無条件に禁止な訳ではない.
現在のNGiraffe氏の記述の方が分かり易いので勧めませんが…。--Game-M 2007年9月23日 (日) 03:00 (UTC)
引用箇所個別に直後に出典を明記,というのはさすがにやりすぎのような気がします.この漫画のような連載漫画の場合,引用元となる情報は単行本としてまとめられるわけですし,記事の頭のほう(「内容」見出しの直後くらい)に,「以下の記述において,鉤括弧でくくられた文章は,特に記載がなければ単行本からの引用である」等の断り書きを入れておけばいいんじゃないでしょうか.無論単行本の情報を追加する必要がありますし,その他の引用の条件をみたす記述でなければなりませんが.NGiraffe 2007年9月24日 (月) 01:28 (UTC)

準レギュラーの整理[編集]

登場人物,準レギュラーの節が少々発散気味で整理の必要があるかと思います. 作品の理解にあまり影響しない,ということでまず一話(「フランス編」などはまとめて一話とみなす)にしか登場しない人物をあげてみました.

  • エミリア・フォンターナ
  • ヘンリー・ベーコン
  • エリック・リヴァル
  • ラルフ・ヒューイット
  • マダム・ロスタン
  • シャルル・ロスタン
  • お辰
  • ストロンボー

イギリス編の三人はそれ以来登場なしといえども悠たちとの絡みが多かったので紹介する価値があるかもしれません.他は,必要なら他の人物のところで説明し独立した人物紹介からは消してもよいように思います. 二週間ほど待って反対意見がないようでしたらエミリア,ロスタン親子,お辰,ストロンボーは削除します.コメントよろしくお願いします.NGiraffe 2009年3月2日 (月) 16:06 (UTC)

各編での通しての主要人物は残しておいても問題は無いと考えます(ヘンリー、エリック、ヒューイットというところでしょうか。)で、そのような私個人の考えは別にして、仮にNGiraffe氏の基準を適応するならば、悠の父も記述する必要は無いと考えます。--EULE 2009年3月5日 (木) 10:41 (UTC)
悠の父は第二次日本編でひとコマだけ出てた記憶があります.しかし第一次日本編のみ登場とみなして削除しても問題はないでしょう.NGiraffe 2009年3月11日 (水) 00:20 (UTC)
ロスタンも最近ちょっとだけ出ましたけどね。それは置いといて、前の発言は少し誤解を招くような物なので改めて、補足と言う形で。
ヘンリー達を残すというのははじめから一致した見解ですが、ちょっと理由が違います。NGiraffe氏は主人公との絡みの多さといわれましたが、私の場合は、その編のメインストーリーに関わっているかどうかです。主人公との絡みの多さでは曖昧すぎる基準だと思います。まあ、多分、同じことを言っているとは思いますけど。--EULE 2009年3月12日 (木) 09:00 (UTC)
私も EULE 氏と私の間に見解の相違はないと思います.必要なら個別に協議するというのが現実的でしょうね.(「メインストーリーに関わる」という観点も,一般的に適用できるほど明確ではないと思います.そもそも第一次日本編など一貫したストーリーはありませんし)
EULE 氏以外からの意見もありませんし,以下の準レギュラーを削除します.
  • エミリア・フォンターナ
  • マダム・ロスタン
  • シャルル・ロスタン
  • 悠の父
  • お辰
  • ストロンボー
NGiraffe 2009年3月13日 (金) 15:10 (UTC)

「漫画的表現についての付記」の削除提案[編集]

「漫画的表現についての付記」の節を削除した方が良いと考えます。元々、記事バランスのために設けられたらしいですが、半ば独自研究の様を呈していますし、特筆性があるとも思えません。何よりこれを作った本人が削除しても構わないと言っているので。合わせて「補足」の節も、箇条書きによる雑多な内容の羅列になっている感が否めないと思います。

異論が無ければ、いくつか特筆性のあると考えられる物は概要など他の節に移し、節その物は削除したいと思います。--EULE 2009年9月8日 (火) 12:09 (UTC)

「補足」の節はともかく「漫画的表現についての付記」は残すべき.本作独特の表現の傾向として特筆性はあると考えます(見直しは必要かもしれません).NGiraffe 2009年9月8日 (火) 13:52 (UTC)
例えば、鳥獣戯画から、手塚治虫や水木しげるまで、それらのパロディ的な絵を描くとか、1話限りのキャラを有名人に似せて描くとか、そういうことは特筆に価すると思ってますが、コマの背景に描かれる内容を羅列したりすることに私は意味を見出せません。そもそも構図や作風などは、それが特筆すべきであるなら、それは著者の記事で書くべきでしょう(例:荒木飛呂彦、尾田栄一郎)。
では、特筆性がある物なら今の状態でも良いかと言うと、これも疑問で、他のページを見ると普通は概要節などに書かれているわけです。というか作品別に「漫画的表現」なんていう節はそうそう見ないですし、ジョジョのように、それを裏付ける二次資料が無い限りは独自研究的な観点が否めない。だから、削除した方が良いと考えるわけです。
あと今回の提案とは関係無いですが、(抄)を取ったことに関して。これが、実在する会社の社史であるなら、確かに必要かもしれませんが、言うまでもなくジラソーレ社は架空の会社です。架空の事柄を実在するように扱う、あるいは実在する物と同等に扱うことは必要事項で無いばかりか、むしろ避けるべき事項です(詳しくはWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)を参照してください)。公式な社史ではないから必要というのであれば、ウィキペディア上の記述のほとんどは公式の物では無い。そもそも、この項目が存在する意味は、本作が1話完結型であることなどから、一貫したストーリーを持たないことや、登場人物で全て書くのは難しいことから来る問題を補足していることだと思ってます。そういった意味では私は、あれは社史だけど社史ではないと思ってます。--EULE 2009年9月8日 (火) 14:40 (UTC)
漫画作品(文芸,映画などでも同じでしょうが)において,表現形式は重要な構成要素です.漫画作品一般に対して,本来一節を設けてそこに記述するべき事柄だと思います.本項の「漫画的表現についての付記」についても,(見直して項目数が半分になったとしても)節を分けるだけの分量があると思います.
で,表現形式として何を記載するかを考えるとき,作品中で多用されているものには特筆性があると思います(それがもたらす効果や作者の意図まで踏み込んで書いたものはNG).背景の図柄などは,それが頻繁に使われているから項目としてあげられているのです.
「社史」について.まあ「社史」という節名がよくないのでしょうね.「ジラソーレ社の発展」「ジラソーレ社の動向」あたりに変えてはどうかと思います.NGiraffe 2009年9月12日 (土) 02:45 (UTC)
(追記.下線部は独自研究の観点から NG という意味です.念のため.NGiraffe 2009年9月13日 (日) 02:34 (UTC))

コメント依頼にかけるかの議論[編集]

必要がある、ないでは平行線になってしまうのでコメント依頼に出したいと思いますがどうでしょうか?社史については、節名変更で納得されるなら、それで構わないと思います。--EULE 2009年9月12日 (土) 05:15 (UTC)
コメント依頼でもいいですが,まずはこの記事に寄与されている編集者の方や,ウィキプロジェクト 漫画で意見を伺う方が適切なのではないでしょうか.NGiraffe 2009年9月13日 (日) 02:34 (UTC)
まず、前者について言うなら、私はGame-M氏くらいしか思いつきませんが、まあ、どう選ぶか、どう告知するかで今回のような議題はミートパペットに成りかねないので余り良いとは思いません。今も頻繁に更新されている人を対象とするなら、それは通知しなくても来るでしょうし。
後者については、プロジェクトに意見を伺うということは、それはプロジェクト全体に意味のあることということで、つまりは個々のページに関係なく、「漫画的表現」は百科事典として特筆性のある物かどうか争われることになると思います。王様の仕立て屋に必要かどうかという話では無くなってしまうと思いますが、それはそれで私は構いません。結果として、テンプレートの中に漫画表現の記述ルールが付加されるかもしれませんし。ただ、コメント依頼より適切であるかは疑問です。論点が微妙に変わることになるので。--EULE 2009年9月13日 (日) 04:03 (UTC)

(インデント戻し)私としては,一年分くらいの変更履歴から IDで編集している方に一律で議論参加を呼びかけるというのを想定していたのですが....頻繁に編集がかかるわけでもない当記事でミートパペットの心配というのは考えすぎではないですか?またこのノートページを編集しているのが EULEさんと Game-M氏と私でほぼ尽きているという点から「通知しなくても来る」という意見には疑問です.

さて,私はコメント依頼というものを誤解していたようです.EULEさんがコメント依頼に出すというのなら止めません.ただ,ここまでの EULE さんと私の意見で議論が尽きているようにも思えないので,できれば「議論活性化のためのコメント依頼」を希望します.

例えば,「他のページを見ると普通は概要節などに書かれているわけです。というか作品別に「漫画的表現」なんていう節はそうそう見ないですし、」と書かれていますが,他の記事で節を分けていないという事実は当記事で節を分けない理由として弱いです.その後の「それを裏付ける二次資料が無い限りは独自研究的な観点が否めない。」についても,それを言い出すと登場人物紹介はじめ当記事の記述のほとんどが該当するでしょう.「漫画的表現」の項目(全てとは言いませんが)は登場人物や「社史」と同程度に裏づけがあると思いますよ.NGiraffe 2009年9月13日 (日) 16:29 (UTC)


コメント依頼については始めから議論活性化のつもりです。とにかく2人しかいなくて、必要がある、ないじゃ、まとまる物もまとまらないですし。
まあ、根本的な前提が違うから、本題に関係の無いことですら長引いてしまうのですが、まず言えることは、私はウィキペディアの全体的な傾向として今回の提案を行ったから、当然、ウィキペディア全体の傾向を把握できてる人に来て欲しいのは道理です。と、同時に特筆性を論点にする場合は、かえってその内容を知らない人にも来て欲しいんです。ウィキペディアは言うまでも無く百科事典であり、百科事典の原則は、それについて知らない人にも、それが何であるか理解してもらうことだと思ってます。そして特筆性の有無を見る時、それを知らない人が見た時に、どう思うかが重要な定規だと考えてます。だから私としては、専門的な人間を集めるより、コメント依頼で広く募集をかけたいんです。ミートパペットについては、まあ、言い過ぎた感があるのですが、正直な話、コメント依頼に出すという提案をして、反対されるなんて思っても見なかったんで。相手がまともでも異常でも、大概の相手は論争になった場合にコメント依頼を出せば賛成してくれてたんで。別にNGiraffe氏が不利になるわけでもなく、漫画表現を記述する重要性を訴え、それを第三者が支持すれば良いだけの話ですし。そこに主題に対する専門的な知識なんて関係無いと思うんですが。今回のような、個々の主題とするにはやや広く、プロジェクト全体で議論すると見るには狭いような話についてはね。
あと、人を呼ぶ行動を取った時は、新たに人を呼ぶような行動はよくないってのも理由の1つです。自分にとって都合の良いカードが出るまで引くことですから。コメント依頼をして、かつ過去1年間のアカウントユーザー編集者も呼ぶって言うなら問題無かったかもしれませんが(まあ、NGiraffe氏が望むなら、今から個々に呼びかけしても良いですよ)。
肝心の議論内容については、第三者が来るまで特に反論致しません(他との比較が唯一として絶対の理由というわけでも無いですし、逆に他に関係なく好き勝手しても良いというわけでもないですが)。あくまで2人でやっても水掛け論になるであろうというのが私の目算なので。それで、コメント依頼の提案が予想外に伸びてしまったので、新規にサブ節で、議論を仕切りなおしたいと思います。この本題と関係の無いコメント依頼するかどうかも、私の9/12の発言から節分けでしたいと思います。--EULE 2009年9月13日 (日) 18:36 (UTC)
議論活性化が目的である限りコメント依頼することについて私に異論はありません.その理由とか主張はどうでもいいので,出すなら早いとこ依頼を出してください.NGiraffe 2009年9月14日 (月) 00:49 (UTC)
依頼出しました。--EULE 2009年9月14日 (月) 04:47 (UTC)

仕切り直し[編集]

以後、意見はこちらでお願いします。--EULE 2009年9月14日 (月) 04:47 (UTC)

  • コメント「本作独特の表現」という事で立てるのであれば、他の漫画と比べてこのような特筆すべき表現がある、という意味になるかと思います。そうなれば、当然の事ながら、他の漫画と比較した結果が出典として提示されるべきです。無ければ独自研究の疑いを晴らす事ができませんので。出典がないのであれば、削除もしくはコメントアウトし、出典が出た時点で復帰、というのがよろしいかと。また、ノートの2006年12月5日の記述で、項目を立てられた方自身が「他によい項目案があったり,人物紹介だけで十分であるという意見があれば,この項目は削除してしまっても構いません」とおっしゃっているので、削除自体は問題ないかと思います。ところで、本セクションで記述されている「漫画的表現」は、本作独特のものですか、それとも、大河原遁独特のものですか? 参照すべき出典がないので、それも確認ができません。--~超~ 2009年9月15日 (火) 15:24 (UTC)
  • コメント作品未見の立場からコメントさせていただきます。結論から申し上げますと、当該記事の「漫画的表現」の特筆性は低いように思われます。どの内容も、古今さまざまな作品で繰り返し使われてきた表現手法ばかりではないでしょうか?(※その是非を問うているわけではありません。)この記述内容を当記事に残すべきだということであれば、単に「特筆性がある」というだけではなく、「○○だから」という特筆性の内訳・理由具体的に明示すべきかと思います。また、列挙された表現方法は本作品に限ったものなのか、あるいは大河原遁氏の作品に普遍的に見られるものなのか、その点が不明なことも気になります。氏の他の作品にも同様の表現手法が見られるのであれば、議論の場を移す必要性もあるように思えます。--ごろんぼ医者 2009年9月16日 (水) 03:30 (UTC)
  • 9月12日にも書いたことですが,漫画において表現形式は重要な構成要素だと考えます.作品の内容の基本情報としてあらすじと登場人物紹介があるように,本来は表現形式についても基本情報(四コマ漫画であること,劇画であること,画材,多用されている表現,etc.)を記述する節があるべきです(全ての漫画作品の記事に表現形式についての節を設けようと主張するつもりはありません).その際独自研究・特筆性に注意が必要なのは当然ですが,登場人物紹介と同じレベルで信頼できる記述が可能だと思います.「漫画的表現」という節の見出し,各項目の内容について見直しは必要かと思いますが,節の削除には反対です.
「作者の記事に記載しては?」というコメントに対して.作品の表現形式について作品の記事に記載しないのは不自然でしょう.当作品の作者は多作ではありませんし,結局作品ごとに記載する方が適切かと思います.
あと,節を作成した編集者が「削除しても構わない」と書いていることに言及されていますが,一方で,この節は無茶苦茶な編集や問題も起きずに二年半以上続いてきました.このことも考慮すべきかと思います.NGiraffe 2009年9月19日 (土) 02:45 (UTC)
4コマ漫画であることは十分に特筆性があることでしょう。でも、画材や多用されている表現は、それと同列に扱う程度の物にはとても思えません。確かに表現形式は漫画を構成する重要な要素でしょう。しかし、だからといって全てが重要ではない。Gペンを使う、青色を表現するのにスクリーントーンの○○番を使う、少年漫画誌掲載なのに少女漫画タッチ、ほとんどネームの状態とか色々ある。ひとくくりに表現形式は重要だからと言われてもそれは根拠にはならないと思います。
例えば「喋る動物が登場する」は記述されても、「喋る人間が登場する」と記述されることは普通は無いです。なぜなら、多くの作品に喋る人間が登場するからです。同様に、もし画材や多用されている表現に特筆性が発生するとすれば、それは他の作品ではほとんど用いられて無い、というような場合に発生するものです。スクリーントーンが使われているなんて当たり前のことは記述されない。しかし、例えば尾田栄一郎のようにスクリーントーンがほとんど使われない、とか、藤崎竜のようにかなり初期からパソコンでスクリーントーンを使っていたとかなら、特筆性が生じる。相対的な特筆性とでも言いましょうか。あるいは、そのことが、その作品の内容を理解する上で重要なことであるならば、それもまた特筆性があるでしょう。これは絶対的な特筆性としましょう。
相対的な特筆性においては、原則として二次資料が欲しい。比較というのは、記述者の主観が多分に入る物で、それはサンプルを選ぶという時点で生じるものだからです。よほど自明なことで無い限り、二次資料を用いなければ独自研究と呼ばれても仕方がない。一方で、絶対的な特筆性は、それが無い場合を仮定することです。それが無いことによって、何かしらの事象を説明するのに不都合が生じるならば、それは特筆性があるということですから。今回の話は、その両方から見て特筆性が見えない。
また、私は、その作品を知っている人が読む場合による特筆性と、知らない人が読む場合による特筆性もあると思ってますが、それはそれとして、そもそも、何のためにそれを記述するのか理解できない(絶対的な特筆性とはまた別)。今回のような単に具体的な内容の例示は、ある事柄を説明したい場合に根拠や読み手にイメージさせやすくするためとして記述される物です。例えば、作者がイチゴが好きで、それを説明するための例示として、「背景にイチゴがよく描かれる」というならわかる(作者がイチゴが好きなことに特筆性があるかは別として)。でも、そうじゃない。最初に聞いたように、背景にしばしばイチゴが描かれる、ということを記述すことにどのような意味があるんですか?--EULE 2009年9月26日 (土) 14:37 (UTC)
画材や多用されている表現より四コマ漫画であることが特筆性が高いとお考えですか.それは私には理解できないですね.「その作品の内容を理解する上で重要な」と書かれていますが,もしも「内容」がストーリーのことを指しているならば,見識がせまいと言わざるを得ないです.つねにストーリーのために表現形式があるわけではないですよ.
例えば御質問の「しばしば背景にイチゴが描かれる」という記述は,ユーリアについての「プレゼンティのピッツァが大好きで、仕事帰りなど頻繁に食べに行く」という記述と質的に同程度の「絶対的特筆性」がありますが,それには納得してもらえますか?(この「イチゴが描かれる」を記載するかどうかは別の問題です.)
どうも話が建設的な方向に向かわないので確認させて頂きたいのですが,EULE さんはあくまで節の削除を主張されますか?私が書いているように,節の見直し,具体的には文章の修正や記載基準の設定,節名の変更などで対応できませんか?NGiraffe 2009年9月27日 (日) 15:54 (UTC)

(インデント戻します)コメント依頼があったため、ごろんぼ医者さんや私はコメントを記しました。もし、それを尊重していただけるのであれば、コメントを総括した上で議論を進めていただきたいです。コメントがなかったかの如く議論をお二人だけで進めるのであれば、最初からコメント依頼など不要だったと思います。-- 2009年9月27日 (日) 16:39 (UTC)

さんの仰るように、私も本件におけるコメント依頼の位置づけに疑問を感じます。殊に、記述の存続を希望されているNGiraffeさんが、さんや私の質問をはぐらかすかのような回答しかされていない点はとても残念に思っております。また、NGiraffeさんはEULEさんの「背景にしばしばイチゴが描かれる、ということを記述することにどのような意味があるのか?」という質問に対する回答として、
  • 「しばしば背景にイチゴが描かれる」
  • (ユーリアについての)「プレゼンティのピッツァが大好きで、仕事帰りなど頻繁に食べに行く」
という二つの記述が質的に同程度の「絶対的特筆性」を有すると仰っておりますが、これでは前者の特筆性の「内訳」を何ら説明できておらず、回答としては甚だ不適切です。議論の相手を「見識が狭い」などと揶揄する以前に、NGiraffeさんはまず相手の質問に対し誠実に回答すべきかと思います。そうでなければ「話が建設的な方向に向かわない」のは自明でしょう。--ごろんぼ医者 2009年9月28日 (月) 03:46 (UTC)
(追記)「4コマ漫画である」というのは、記事における基本情報に属すると思います。しかし「劇画であること」については、劇画の定義がかなり曖昧なため、要らざる議論の火種になりかねません。また、画材ですが、これはつまるところその画材の使用に関する先駆者の記事や、特異な画材(あるいは特異な使用法)を用いている作家(作品)の記事でもなければ記述する必要性は低いように思えます。最後に、「多用されている表現」ですが・・・少年誌で活動している作家の記事であれば、「集中線を多用する」「背景にマルチプライやパッティングを多用する」「漫符を多用する」などが記述できそうです。しかし、これらの記述が作品を理解する一助になるでしょうか?私は漫画における表現手段は重要だという御意見を否定しません。しかしそれらは漫画を読む際に重要だと感じるのです。客観的に見て斬新である、またはストーリーに絡んだものであるなどの特筆性がなければ、わざわざ百科事典の、個々の作品の記事に「多用される表現」を記述する意味がわかりません。--ごろんぼ医者 2009年9月28日 (月) 13:52 (UTC)
  • コメント1ファンとして失礼します。節の削除は致し方なし、とも思うのですが、その内容を全て「特筆性」にこだわって削除するのは行き過ぎていると思います。「どの内容も、古今さまざまな作品で繰り返し使われてきた表現手法ばかりではないでしょうか?」とごろんぼ医者 さんが書いておられますが、どこの作品において繰り返し使われてきているでしょうか? 可能ならばその出典を願います。(少なくとも私は(独自研究と言われてしまいますが)象形文字や、群衆(モブ)として○△□キャラを多用する作品を他に知りません。)そしてその出典が羅列され明白になったとしても、これらの表現手法は、作者が意図的に繰り返して使用しており、読者にも少なからず認識されていることから、「王様の仕立て屋」という作品の「作風」であり「特徴」であると認めてもよいと思われます。「特筆性」「斬新さ」のみで「節」の存在意義が決まるのであれば、削除も致し方なし、とは思いますが、内容の一部は形を変えて残す意義もあると思います。(たとえば、登場人物の名前の由来に関連性を持たせるという手法は使い古されていますが、多くの作品の項では普通に記事内に残されています。)それらの表現がこの作者全ての作品で多用されている、と明確に判断できれば、作者の項目に移動するのも議論されるべきでしょう。現時点での判断は難しいでしょうが、少なくとも近時の「東坡食譜」ではほとんど無かったように思います。--218.122.246.6 2009年9月29日 (火) 11:25 (UTC)
  • 私は今回の件は EULE さんの書かれた「絶対的特筆性」の観点から議論すべきである,と思っていることを前置きして,まずは御質問に回答しましょう.
  • さんの「本セクションで記述されている「漫画的表現」は、本作独特のものですか、それとも、大河原遁独特のものですか? 参照すべき出典がないので、それも確認ができません。」という質問,ごろんぼ医者さんの「列挙された表現方法は本作品に限ったものなのか、あるいは大河原遁氏の作品に普遍的に見られるものなのか、その点が不明なことも気になります」という疑問について.私は参照すべき出典を知りません.ただ,手元にある同じ作者の「Lonely Army」「かおす寒鰤屋」には「漫画的表現についての付記」に記載されている表現は見つかりませんでした(「顔のアップシーンを吹き出しで約半分隠す」に該当すると思われる箇所は幾つかあった).また,大河原遁の経歴を見ると,本作発表以前に年単位のブランクがあり,同時並行的に執筆された作品がないことから,作者独特の表現と作品独特の表現のどちらかに決められるものではないと思います.もしも記載するのならば,一覧性の高さを重んじて作品の記事に書くほうが適切かと思います.
  • EULE さんの「背景にしばしばイチゴが描かれる、ということを記述すことにどのような意味があるんですか?」というご質問と私の回答について.漫画は媒介としての絵とそれが表現する内容とで成立しています.私が勘違いしているかもしれませんが,書道の作品が字の形や配置と書かれている文で成立しているのと同じ構造です.ですから,漫画作品について説明する際には,絵と関係のない内容に関すること,内容と関係のない絵に関すること,絵と内容の両方に関係することを事項の候補として考えるべきかと思います.さて,EULE さんは「絶対的な特筆性」を「それが無いことによって、何かしらの事象を説明するのに不都合が生じる」と定義されました.「ユーリアについての「プレゼンティのピッツァが大好きで、仕事帰りなど頻繁に食べに行く」」という記述をなくすことで,本作の内容を説明するのに生じる不都合(ユーリアの人物イメージが少し抽象的になる)と,「しばしば背景にイチゴが描かれる」という記述をなくすことで,本作の絵を説明するのに生じる不都合(本作のコマの背景のイメージが少し曖昧になる)と,不都合が起きることに差はないでしょう?この状況を指して私は「質的に同程度の絶対的特筆性」があると書きました.ちなみに不都合さの程度に差があることは認めます.EULE さんが具体的に「イチゴ」の例を出されたので私もそれに沿って回答しましたが,私はこの例を残すべきだとは主張しません.再三書いているように見直しが必要だと思います.
で,私が懸念しているのは,「絵」に属することだから特筆性が低いと思われているのではないか,逆に「内容」に属するというだけで特筆性の閾値が下がっているのではないか,ということです.ストーリーに何度も登場することを理由に登場人物について記述するならば,何度も紙面に現れる表現も記述してしかるべきではないでしょうか.「特定の画材を使っている」が特筆性の条件を満たさないのならば,「学校が舞台」も特筆性の条件を満たさないのではないでしょうか.実際,今回の議論で,漫画の記事に(当然のように)節を切って登場人物を記載している根拠というものを考えてみたのですが,私には答えが出ませんでした(皆さんのご意見を是非お聞きしたいです).
というわけで,この議論の焦点は特筆性の基準をどこにとるか,ではないかと私は思います.EULE さんのご意見では「ひとくくりに表現形式は重要だからと言われても」「何かしらの事象を説明するのに不都合が生じるならば」と,どの程度のものから記述するべきだとお考えなのかよく判りませんでした.内容についても絵についても釣り合いのとれた基準を設定して,記事全体の整理を計るならば,私も節の存続に固執するのはやめることにしましょう.NGiraffe 2009年9月29日 (火) 14:56 (UTC)
3点、コメントさせて頂きます。
1.関連するWikipediaの基本方針・ガイドライン
本件に関して認識を合わせるため、関連するWikipediaの基本方針・ガイドラインを示します。
Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:特筆性Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)Wikipedia:特筆性 (フィクション)
各位、ご一読いただければと思います。
絵の特筆性については、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#現実世界の観点における「フィクション作品が現実世界に持っている影響力」に該当すると思われます。特筆性のある「漫画的表現」とは、「他の漫画では見られない独創的である表現」を示すためです。
2.特筆性の判断について
「漫画的表現」において、下記のうち、特筆に値するものはどれでしょうか?
  • 織部悠が激情すると、ザリガニに模して描かれる事がある
  • イチゴ、サボテン、斜めもしくは八角形状の渦巻きからなるタイルパターン等がコマの背景に描かれる事がある
  • 例を説明したり何かに喩えているコマにおいて、筆致を古い漫画(鳥獣戯画から水木しげるまで)に似せて描いている
  • 顔の輪郭が丸・(逆)三角・四角の3人組がチョイ役を勤めることがある
  • 扉絵で、ジラソーレ社の立ち上げメンバーがファッション誌等のグラビアを模して描かれる事がある
  • 雑誌掲載時に袋とじの場合、女性キャラクタが多く描かれる
  • 顔のアップシーンを吹出しで約半分隠す
  • 中年男性の登場キャラクタの場合、後ろ姿、がに股でタップダンスのような姿で描かれる事がある
上記について、全てが「漫画的表現についての付記」に記述する必要があるとは思えませんが、私には、独自研究に抵触しないように選択する事はできません。他の記述者の方で、独自研究に相当しないようにご選択いただく事は可能でしょうか。
3.NGiraffeさんのコメントについて
NGiraffeさんが私のコメントに対して書かれた、
>もしも記載するのならば,一覧性の高さを重んじて作品の記事に書くほうが適切かと思います.
というご記述ですが、これだと記述者による独自研究、「記述者が大河原遁の著作を一通り読んで、作品の記事に載せる事が妥当と判断した」事になりませんか?
もうひとつ、「内容についても絵についても釣り合いのとれた基準を設定して」という点について書かせて頂きます。
内容は、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)で示された範囲で書けば問題ないと考えます。
しかし、絵の特筆性については、1で記した通り、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#現実世界の観点における「フィクション作品が現実世界に持っている影響力」に該当するため、結論に書かれている通り「現実世界の観点には一次と二次、両方の情報が必要」となり、一次資料(本作)の他、特筆性について示している二次資料が必須となると思われます。-- 2009年9月29日 (火) 18:29 (UTC)
さて私が言いたいことはほとんど既に言われてしまっているので細かいところだけ。
ユーリアについての記述に関しては、それだけじゃなくてその後まで続いてることの説明の一部に過ぎない。つまり、カロリーオーバーネタなどの。その対象となるプレゼンティ自体も個別に記述があるくらいにそれなりに登場する脇役で関係性を記述するという点で、意味のある記述足りえる。これ自体は完璧にその説明を補完するもでないから、文面を簡潔にするために削っても確かに問題は無い。あくまである説明の目的があって、それを補っているに過ぎない。
一方で、イチゴの方は、まず本作の絵や内容を説明するという目的にすら合わない。単純な話、読み手が背景にイチゴの絵が描かれるという記述を見て、この王様の仕立て屋という作品がどんな漫画や内容であると想像するのか?少なくとも私は背景にイチゴやサボテンが描かれるなんて記述を見たって、その作品をイメージすることなんてできやしません。
私は、最初に述べたように、全てを削除するべきだと言っているわけじゃない。鳥獣戯画から、手塚治虫や水木しげるまで、それらのパロディ的な絵を描くとか、1話限りのキャラを有名人に似せて描くとか、そういったことは、特筆性があると思ってる。それは、今回の論点で言うなら、読み手の作品のイメージ構築に役立つ情報だと思うからだ。他にも織部がザリガニのように描かれるだって、それは織部の解説のところで書けば良い(ヴィレッダが諸葛孔明に~と書いてあるように)。これも特筆性があると思う。まあ、その辺りの個別の具体的な判断と対処はもうちょっと議論の見通しが付いた時にしたいと思います。
あと、私が使った絶対的な特筆性の意味は、「絶対的に生じる」「絶対に必要」と言う意味ではなく、他作と比較する必要は無い程度の意味しか無いので注意を。他と比較する必要が無いから、それが必要な情報かどうか判断するだけで良い。そういう意味です。--EULE 2009年9月30日 (水) 06:12 (UTC)
IP218.122.246.6氏へ。返答が遅くなりまして申し訳ありません。「どこの作品において繰り返し使われてきているでしょうか? 」とのことですが、一応説明致しますと本作品と全く同じように「象形文字や、群衆(モブ)として○△□キャラ」が、「多用されてきた」という意味ではありません。「現在に至るまで類型的な表現手法が、さまざまな、数多くの作品にて用いられてきた」と言うべきだったでしょうか。で、その出典ですが、生憎現在私の手元には適当な資料がありません(・・・というより精査している時間がありません)。したがって、当該発言についてはあくまでも(出典の伴わない)私個人の見解として捉えて頂いて結構です。そして以下が本題なのですが、実はここ何日かの間で身辺の状況が慌しく変化し、ウィキペディア(というよりもネット)に関わっている時間が当分の間取れなくなってしまいました。そのため、誠に不本意ではありますが、本件も途中離脱という形を取らせて頂く他無い状態です。議論中の皆様には大変御迷惑をおかけした事を深くお詫び致します。本件の早期解決・記事のより良い発展をお祈り致します。--ごろんぼ医者 2009年9月30日 (水) 11:25 (UTC)
ごろんぼ医者さん、返答ありがとうございました。お手を煩わせてすみません。自分の持たない情報が欲しかったもので…。先にコメントしたとおり、個人的にこの節の内容は本作独特の作風であり、百科事典としての意義も損なわないと考えておりますが、Wikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避けるに当該していると思われます。私の感覚的にはNGiraffeさんに近いのですが、NGiraffeさんも記事の整理に同意されています。EULEさんは、提案のとおり、節の削除へ向けて整理を開始する段階であると思います。--218.122.246.6 2009年10月1日 (木) 04:09 (UTC)
漫画には絵と内容があって,絵だけを理解するという視点があることをどうしても EULE さんには理解してもらえないのでしょうか.漫画の紙面をページの順番に全部並べて,一切の台詞を解釈せずストーリーを追わず,コマに描かれた絵の連鎖として漫画をとらえることも可能でしょう?その総体として,その漫画は視覚的にどういうものかイメージを構築することはありえるでしょう?この場合に,数を数えてみたら実はパロディ的なタッチのコマよりも背景にイチゴが描かれたコマが多かったとしたら,イチゴの方が特筆性はあるといえるでしょう.「背景にパロディがたくさん描かれている漫画」よりも「背景にイチゴがたくさん描かれている漫画」の方が作品の絵のイメージをより正確に表しているわけですから.当然,逆に絵を徹底的に記号としてとらえてしまって,内容だけを理解しようとする視点もあるでしょう.絵と内容を同時にとらえてその総合として理解する,通常とられる視点もあるでしょう.しかし,ものがどう認識されるかを規定することができない以上,理由なしに視点を固定してはいけないと思います.このような,絵と内容のどちらかだけに偏った視点をとることが漫画にはありえない,もしくは本作にはありえないと仰るならその根拠を説明してください.EULE さんのご意見を読んでいると,作品の理解即ち内容の理解だと思われているようで違和感を覚えます.
当然私は漫画の絵だけを見るような視点は本作にも漫画一般にもあると思っています.しかし一方でこのような見方が「ある」というだけで「イチゴ」について特筆性を主張することはしません.私自身毎回漫画を絵の連鎖として読んでいるわけではなく,前のパラグラフに書いたことが極論に映りがちだということも認識はしています.ありうる可能性を最初から排除してはいけない,しかしそれは極論だと思われる,ということで,検討すべきはなるべく公平で客観的な基準を定めて,それに則って整理することではないかと思います(注意:公平であることと対等であることとは異なります.正当な理由の元,適切に差をつけた基準を定めることも公平です.).
EULE さんが記述の理由としてあげられた,「それなりに登場する脇役」「読み手の作品のイメージ構築に役立つ」という部分も,心情では納得しますが議論の対象としては理由になっていません.例外や広い幅があってもいいから「大体年に一回以上」とか,客観的にどのような条件をみたせば EULE さんが特筆性ありとみなすのか全く判りません.
超さんのコメントについて.
1. 超さんのあげられた基本方針・ガイドラインについて,議論の出発点とするのは賛成ですが,主張の根拠とするのは少々不安が残ります.Wikipedia:スタイルマニュアル_(フィクションの記述)の履歴を見ると翻訳されて二ヶ月しか経っておらず,幾つか粗が見えます.例えば「現実世界の観点」の節の箇条書きの一つ目「フィクション作品が現実世界に持っている影響力」は「フィクション作品が現実世界に持ちえてきた(与えてきた?)影響力」(英語版ではthe impact a work of fiction has had in the real world)で,四つ目「フィクションの資料提供」は「フィクションの表現」(同 The presentation of fictional material)でしょうね.で,絵の特筆性と「現実世界に持っている影響力」との関連がよく判りませんので説明してもらえないでしょうか.むしろ,箇条書き四つ目を見ると撮影技法や文体を含む「The presentation of fictional material」は現実世界としての側面であり,執筆時の立脚点として奨励されているように読めますが.
2. うまく基準を定めるのは難しいですが,一案として,出現回数を数えて回数なりページ数当たりの比率を出すなりするんでしょうね.「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査」です.実行の手間は大きいでしょうが,不可能ではありません.
3. 表現形式について作者の記事と作品の記事のどちらに書くかについて,実は私は両方に書けばよいと思っています.リソースは有限ながらも,せいぜい KB 単位の記述が重複することくらいは誤差の範囲でしょう.しかし全く同じことを書くのは冗長に過ぎるので,例えば作品ページには多少作品に特化したことを,作者ページには他作品との関係を意識しながら書くのがよいと思います.あと「記述者が大河原遁の著作を一通り読んで、」のくだりですが,ある作品に関する表現の特徴は同作品の他の特徴と一覧できる方が便利という意味です.作者の全ての作品の表現の特徴が一覧できる,と読まれたのなら私の書き方が悪かったのでしょう.ご迷惑をおかけします.NGiraffe 2009年10月1日 (木) 13:52 (UTC)
NGiraffeさん、ご返信ありがとうございます。
ある作品に関する表現の特徴は同作品の他の特徴と一覧できる方が便利という意味です
なるほど。了解致しました。ありがとうございます。
むしろ,箇条書き四つ目を見ると撮影技法や文体を含む「The presentation of fictional material」は現実世界としての側面であり,執筆時の立脚点として奨励されているように読めます
この点に関しては、NGiraffeさんと同意見です。私も同じ解釈をしております。
おそらく、私とNGiraffeさんの間で認識がかみ合っていないのは、その後のWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#結論に書かれている「現実世界の観点には一次と二次、両方の情報が必要」という点です。これによれば、「漫画的表現についての付記」(撮影技法や文体、本節の場合は漫画手法等を記述するには、二次資料が必須になります
一案として,出現回数を数えて回数なりページ数当たりの比率を出すなりするんでしょうね
例えば、上記のような結果をまとめた二次資料があれば、本節の出典となります(特筆性があるかどうか、別途議論する必要はあります)。しかし、そのようなまとめを記述者自身が行った場合は、一次資料を基にした記述者による独自研究になるため、Wikipediaには記述できません。
私の意見を改めて申し上げますと、「漫画的表現についての付記」という項目はあっていいと思います。ただし、その内容が記述者による独自研究、独自判断ではない事を示すため、二次資料が必須です。
Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)でも、本節の内容(現実世界としての側面である、表現手法)を記述するには、一次資料、二次資料が必要と書かれております。-- 2009年10月1日 (木) 16:49 (UTC)
とりあえず最後の発言より1ヶ月経過したのでNGiraffe氏から何のアクションも無ければ、合意形成したと見なしますが(あと1週間待ちます)。
ちなみに私が何も発言していないのは、肝心の論点(どうするか)は超氏と全く同一と言っても良く、本筋とは微妙にずれたところ(特筆性とは何か)で話を不必要に乱すと思ったからです。二次資料があれば記述を認めることは、最初の方でジョジョの例を出してますし、本当に私から特に言うことはありません。--EULE 2009年11月2日 (月) 13:03 (UTC)
「このような節を安易に除去してはいけません」というWikipediaのガイドライン(解釈は様々でしょうが)に従うことを前提として、ひとまず編集を見守らせていただきます。--218.122.246.6 2009年11月2日 (月) 21:41 (UTC)
現在議論中の内容は雑草取りレベルではなく節の存続に関する事ですので、ログインしてご参加いただけるとありがたいです。
さて、本節の内容ですが、出典が存在する雑多な内容の節というより、出典が提示されていない節に近いと考えます。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)等を引用してこれまで説明した通り、内容的には二次資料が必須のものになるからです。もし二次資料をお持ちでしたらご提示いただけると、議論を進展させる事(特筆性の検討)ができるのでありがたいです。-- 2009年11月3日 (火) 01:58 (UTC)
Wikipedia 外の活動の多忙さで議論を滞らせてしまったことをお詫びします.しばらくは調査や議論をする余裕がとれそうにないので一旦私の主張は取り下げます.このままいくと「付記」の各項目は二次資料の裏づけなしということで全て削除ですね?二次資料の有無以外の判断基準が提示されていない以上,むしろ半端に項目を残すことには反対を表明しておきます.NGiraffe 2009年11月3日 (火) 16:59 (UTC)
何を目的としてその事例を挙げるかで話は変わります。あくまで、その漫画手法等を説明することを目的とするなら、二次資料を必要とするという話です(それがここでの議論の帰結です)。が、例えば登場する人物の説明を目的(あるいはその補足)として、ゲストキャラは有名人に似せている、モブに丸・三角・四角顔を用いるなどという記述は問題が無い(それは言うまでも無く、一々似せた芸能人や当該のモブのリストを作ったりする必要性を言っているわけじゃないですけどね)。
まあ、そのような目的に特筆性があるかどうかは別の話で、一律削除なら認めるというなら、私はそれで構いません。--EULE 2009年11月4日 (水) 05:50 (UTC)
今回の議論の流れとして,ゲストキャラとか丸・三角・四角顔の三人は表現形式として特筆性なしと判断されると思っていたので EULE さんの意見には正直驚いています.キャラが有名人顔をしていることを受けて登場人物が発言したり行動したりすることはなかったと記憶していますし,彼が普通の顔であった場合と比較して,絵面だけの差しかなく,内容の説明を補強することはないと思いますね.当作品を未読の人も視野に入れるのならなおさらです.(もう議論はしないつもりなのでこの点に関する説明は不要です.)
個人的には EULE さんの特筆性の基準がどこにあるのか最後まで判らなかったのが残念です.いろいろ例をあげられましたが,それらを統括する一般的な説明や客観的な根拠がないまま「○○には特筆性がある」「××は重要だから」と書かれるので,あげられた個々の例に言及せざるを得ませんでした.漫画における特筆性について,新たに一般的な知見が得られるような議論ができればよかったですね(自戒をこめて).NGiraffe 2009年11月4日 (水) 14:57 (UTC)
あのですね、例として出しただけです。だから「そのような目的に特筆性があるかどうかは別の話で」と言っている。もう一度、読み直してみてください。11月4日の発言の論旨を全く理解できていないと言わざるを得ないです。--EULE 2009年11月4日 (水) 15:48 (UTC)
ID218.122.246.6です。超氏の指摘を受けてアカウント作成しました。見守ると書きましたがなんだか議論があさっての方向へ行きそうなので。二次資料は持ち合わせておりませんし、私が自力でコマ数・ページ数をカウントしたところで独自研究とされてしまう以上、「そもそも『二次資料』が存在可能かどうか」という判断すら必要な気がしてもいるのですが…。
繰り返し書きます。議論としては平行線ですが、全面的に反対する参加者もいなくなっていますので、EULE氏・超氏の言う「二次資料」「特筆性」の判断に期待しつつ整理をお任せしたいと思います。(もちろん)できるだけエレガンテにお願いします。ちなみに私は、一括削除するような編集には私は反対します。記述として残る意義があると思っておりますので。--UTL 2009年11月4日 (水) 23:47 (UTC)
私個人の考えをまとめます。
そもそも今回の案件は、雑多な内容の羅列という問題も含むものですが、本来、これが問題視されるのは、具体的事例を挙げることの意味を曲解していると判断されるためです。具体的な事例を挙げる理由は、ある説明したい対象・事象があって、それを補足説明するために例として挙げるわけです。だから、雑多な内容の羅列を修正するためには、何を目的とした文章であるかを区別、整理して、その目的にあった文章に編集しなおすというプロセスを経る必要があるわけです。その上で、事例というのは全て挙げる必要は無いわけですから、説明に十分な物だけ残され、他は除去されてしまうかもしれません。
今回の案件では、幸い(?)節その物がその目的を指し示している。つまり「漫画手法や表現の説明」。だから、現状アトム状態の内容を整理し、漫画手法や表現の説明に適う「文章」に編集しなおせば良い。ところが、漫画手法や表現の説明を行うには二次資料が必要である(でなければ独自研究になる)。だから、そもそも二次資料が無い現状において「漫画手法や表現の説明」を「目的」とする節があるのは問題だ。ってことです。
では、その内容が概要の節など他の節(あるいは項)にあることは問題ないのかと言えば、全く無いとは言えないけど、現状よりは全く問題が無いと言える。許容範囲と言い換えた方が妥当かもしれない。それはつまり、記述する目的や内容によってそれは認められる場合があるし、逆に認められていたものが認められなくなる場合もある。(本題の方から引っ張ると誤解を受けるようなので、もっと抽象的な例えに変えますが、)例えば「名場面」という節を作成し、主人公が男泣きするシーンなどを羅列することは、雑多な内容の羅列であるし、そもそも独自研究であるから問題のある記述なわけです。ところが、主人公の説明として「普段は○○だが、△△の時だけは涙を流した。」とすれば、両者共に全く同じ内容のことを記述しているにも関わらず、問題の無い記述になるわけです。
その上で私の考えや立場を説明すると、現状の漫画手法の節は(これを裏付ける二次資料が無い限りにおいて)無い方が良い。その中で他の節(項)にあっても問題ない(あるいは特筆性がある)なら、除去ではなく移すという形を取りたい。厳密に特筆性があるかどうかは、個々の主観によるものだから自分の考えはあるけど、最終的には議論の結論を持って決める(まあ、当たり前の話ですが)。
そして私個人の認識としては、「絶対に」残すべきという記述は現状には無い(二次資料があれば別)。しいて挙げれば、扉絵とマルコの関係であるが、これは、既にマルコのところに記述されているため、単純除去でも私としては構わない。また、私個人の考えは別として、(UTL氏の意見などを踏まえ)最大限残すことを前提とするなら、有名人に似ているとか○△□は人物の補足説明として可能であるし、筆致を古い漫画に似せるなどは概要にあっても問題がないから、移すことで維持しても構わないと思う。しかし、背景にイチゴが描かれるなどは、移す場所が無いから削除するという形になる。無論、この「合っても問題ない」「あると問題がある」は私のさじ加減に過ぎないので私以外の多数が、概要に背景の説明があっても問題ないと考えるなら記述されても良いし、逆に筆致を古い漫画に似せることは概要に相応しくないという意見が支配的なら、無くても構わない。
だから結論としては、問題の多い節の削除さえ行われれば、私の立場は割と流動的な物で、一律削除でも、最大限の維持でもどっちでも構いません。その前提が定まりさえすれば、あとは具体的な修正案(前者はいらないが、後者なら何を残すか)に移りたいと思います。超氏の意見も聞きたいですし。--EULE 2009年11月5日 (木) 06:08 (UTC)
UTLさん、私の提案を受け入れて下さり、ありがとうございます。
> ちなみに私は、一括削除するような編集には私は反対します。
Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)はご覧いただいたと思ってよろしいでしょうか。
UTLさんとしては、本節の内容は「現実世界に関するもの(表現手法)」に該当すると思われるか、あるいはそうではないとお考えなのか伺いたいです。UTLさんのコメントを拝見したものの、そのあたりをどうお考えなのか私には読み取れませんでした。
EULEさんから意見を求められている件については、とりあえず、二次資料がなさそうというのであれば、本節自体を削除するのは仕方ないと思います。ただ、現状ある記述について、ここは独自研究ではなく別の節に組み入れられそうという記述があれば、個別に特筆性等も含めて議論すればいいと思います。
NGiraffeさんの書かれた「漫画における特筆性についての新たに一般的な知見」は、本項の中だけでもまとめられれば理想的ですが、実際の話、基本方針などを参考にしつつ、個別で検討するしかないような気がします。難しそうです。-- 2009年11月7日 (土) 15:43 (UTC)
今回の議論で漠然と思ったことです.
  • 漫画に関する二次資料は極端に少ない.映画,アニメなど他のフィクション分野では宣伝の一環として製作側が二次資料を出すこともあるし,専門誌などから情報が得られるが,漫画では雑誌の看板になるような作品であっても一次資料以外の資料は殆どない(それこそメディアミックスでもなければ二次資料は出てこない).
  • 内容に関する特筆性の基準と,それ以外に関する特筆性の基準のギャップが大きすぎる.現状「付記」の節に書かれている事項を移して維持するということも,心情としては嬉しいことであるが,意地の悪い見方をすると「内容に関係あると言っておけば五月蝿いこと言われないから」といった「臭いものに蓋」の対応に見える.もうちょっと客観的な記載基準を定めるべき.
  • 更に第一項とも関連して,記載する価値があると思われ,しかしそれが形式的な掲載基準を満たさないのであれば,基準の見直しも考えるべきである.(今すぐは無理だけど,余裕ができたらPJ:漫画あたりで提案してみるつもり)
  • そもそも当記事は大きな分量を持つが(二万五千字程度),そのうち九割近くが内容に関すること(更にその殆どが登場人物の紹介)で占められている.百科事典の記事として構成にバランスを欠いている.
EULE 様,
背景にイチゴが描かれるなどは、移す場所が無いから削除するという形になる。」 「問題の多い節の削除さえ行われれば、私の立場は割と流動的な物で、一律削除でも、最大限の維持でもどっちでも構いません。」 このことを早い時点で書いて頂ければ私も個々の例に拘らずに済んだんですが... .EULE さんからのご意見を読み返しても,(少なくともEULE さんが御主張を理解させようとしていた私には,)そのような視点の存在は見えません.特に,移す先の有無という視点は,私は想像もしていなかったので虚を衝かれた気持ちです.とりあえず EULE さんのお考えは理解しました.全面的な賛成はしませんし,個々の例示が意味するところにおいて疑問は残っていますが,主張を取り下げた以上議論はしません.
UTL 様,
議論に参加できなくてすみません.私は現在,上の箇条書きのように思っていますので,形式上対立することになるかもしれませんが,心情的には応援しています.
超様,ごろんぼ医者様,
いろいろとコメントありがとうございました.今回の議論を通して,私の漫画に対する意見が大分整理されたように思います.NGiraffe 2009年11月8日 (日) 04:19 (UTC)
超氏の発言を受けて少し補足を。私の意見は2009年9月29日のコメントからあまり変わってはおりません。大雑把にいえば「特筆性と二次資料に依るのであれば節の削除は仕方なし」「内容を全て一括削除するのは行き過ぎている」「特筆性がない(過去に繰り返し使われた)という(一次or二次)資料は存在するのか」という観点です。
かといって「最大限の維持」を望んでいるわけでもありません。これで超氏への答えになりますでしょうか?
今後の編集内容について議論も必要でしょうが、自分はひとまずEULE氏主導(?)の編集を見守りたいと思います。有象無象が寄って集っても船が登山することになりますので。
Wikipediaは人間が記述するものですから、どこまでいっても人間臭さは残るものだと思います(それが人間の作った作品への記述であるなら特に)。好みや個人差も含有しつつ過不足なく纏める、という矛盾をどこまで昇華させられるか。本作のいちファンとしては、あくまでエレガンテに、というところです。EULE様、超様、よろしくお願いします。
NGiraffe様、というわけで、私は編集の議論からひとまず外れるつもりです。もし期待されていたなら申し訳ないです。--UTL 2009年11月8日 (日) 17:35 (UTC)
NGiraffe氏に虚を付かれたと言われてるのですが、私の意見は、基本方針(Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください)に沿った話です。この「Wikipedia:編集方針」を提示しなかったがために、私の論旨が理解できなかったというならば、私のミスなので謝罪しておきます。--EULE 2009年11月9日 (月) 01:08 (UTC)
UTLさんのご説明についていろいろ確認したい事があるのですが、議論からいったん外れられるとの事ですので、議論の発散を防ぐため、ここでは差し控えさせていただきます。
本節の内容について、改めて確認致しました。正直な話、私としては、スムースに他の節へ移行できそうな箇所を挙げる事ができませんでした。-- 2009年11月14日 (土) 19:43 (UTC)

まとめ?[編集]

とりあえず、編集しました。報告が遅れました。何か意見があればどうぞ。--EULE 2009年11月25日 (水) 12:35 (UTC)

登場人物節の整理について[編集]

登場人物節の記述が膨大になり、ぱっと見、何がなんだか分からない様相を呈している。特に重要でない記述のほか、推測や独自研究も散見される。恐らく後から後から追記した結果だと思うが、百科事典らしくもっと分かりやすく整理するべきではなかろうか?(参考:Wikipedia:ウィキプロジェクト 漫画#登場人物)--駄ニメ 2009年12月12日 (土) 16:10 (UTC)

(賛成)全体的に整理して記述の量を減らすことには賛成します.ただ,記載可否の判断基準は少し緩めでよいと思っています.NGiraffe 2009年12月13日 (日) 01:48 (UTC)
百科事典らしく、とか抽象的すぎてコメントしづらいのでもっと具体的にお願いします。--EULE 2009年12月13日 (日) 04:07 (UTC)
『特に重要でない記述』や『推測』や『独自研究』を排除してWikipedia:ウィキプロジェクト 漫画#登場人物に合わせて節を整理しようではないか」と具体的な提案してるんですが?--駄ニメ 2009年12月13日 (日) 09:05 (UTC)
だから、を指して「特に重要ではないか」ときいてるんですよ。要約欄ならともかく、ノートでわざわざ提案するなら具体例を挙げて欲しいと。わざわざ説明するまでも無い自明なことなら、わざわざノートで確認を取らずに編集をすれば良い。要約欄に「ウィキプロジェクトに沿った編集」とでも書き添えて。その場合、何を指して重要でないと判断したかもわかる。それで全てにわたって異論があるということは無いでしょうから、差し戻しは発生しないでしょう。そして、一部に異論があれば、異論があると考える人がその一部に手を加えた編集を行えば良い。その一部で対立したら、そこで初めてノートで議論すれば良い。そういう弁証法的な発展がウィキペディアでしょうよ。
『特に重要でない記述』や『推測』や『独自研究』を排除してWikipedia:ウィキプロジェクト 漫画#登場人物に合わせて節を整理しようではないか」が具体的な説明だと思ってるなら、それは具体的ではないと指摘しておきます。聖☆おにいさんくらい酷い状態だと、わからないでもないですが。--EULE 2009年12月13日 (日) 09:40 (UTC)
その程度の事も判断できないのでしたら議論に加わって頂かなくても結構です。当方も最初は提案せずに推敲してしまおうと思ったのですが、独自研究に基づく蛇足を除去した程度でもクレームを入れてくるんだから、今回は予めノートで整理を提案しておこうと思ったんですが、それにすら文句を言われるとは思いませんでした。EULEさんがどれだけ偉いのか知りませんが、この節の提案が理解できないのでしたら、口を挟まないで頂きたい。EULEさんは編集基準でも判断基準でもない。いちいち具体的にあれはこうだいやちがうなんてノートで議論するのは無意味だ。--駄ニメ 2009年12月14日 (月) 00:27 (UTC)
最近(ってか昨晩)、ある人に『つまり「ってかそれ以外にしか読めないと思うんだけど」というのは自己満足で、大半の一般閲覧者は理解してないと言うことです。霞ヶ関化している』なんて言われたんですが(苦笑)、まあ、霞ヶ関は無視するとして、自分が説明責任を果たしていると思うのは結構ですが、それが届いていないということは結構あるんですよ。それは、まして短い要約欄ならなお更で、届いてないことがよくある。だから、ノート(前は会話ページ)で詳しく聞いたんですよ。氏はクレームだと言って無意味な物だと思ってるようですが、あれのおかげで、私は氏の編集の意図を理解できましたし、単純に挿入される描写とモチーフには誤解を招かせる深い乖離がある。ってわかった。これは有意義なことだ。
前の会話ページの出来事があったからわざわざノートに書いたのにって、言うなら、単に無意味ですね。結局、あの時も今も具体性に欠けるから(そして互いが勘違いしたから)、すぐ済む話が拗れたというお話です。そう、今、このノートでやってることもすぐ終わる話ですよ。本来なら。
で、何度も言いますが私は何の具体例もなしに単にプロジェクトに沿った編集をするって言う相手に、肯定も否定もできません。具体例を出すまでも無い自明なことなら、ノートで予告せずとも良い。だから問う。まあ、例外はあって、例えばNGiraffe氏が登場人物の整理しますって言ったら、(説明にもよるが)私はあまり具体例は聞かず賛成するでしょう。NGiraffe氏がどういう傾向を持っているか知ってて、かつ信頼できるからです。--EULE 2009年12月14日 (月) 04:03 (UTC)
コメント)個人的な有意義を求めるための議論は、各項目のノートページに持ち込む事ではないと考える次第。また、編集した利用者の会話ページで自分が納得できるまで延々と質問を繰り返す行為は自己満足以外の何物でもなく、他人の編集姿勢を受け入れそれを尊重するという方針からしたら、(当方が言える事ではないかも知れないが)なるべく避けるべきであろう。--駄ニメ 2009年12月15日 (火) 00:35 (UTC)
信頼して頂いて光栄ですが EULE さんに一言(議論の主題から外れるので返答不要).こういうテーマの議論で最初から詳細や例に拘ると,大抵議論は迷走します(実際前節で不毛な議論になった).抽象的・全体的なところでの大まかな合意を得ることから始めて,段階的に議論の対象を詳細化し,互いの認識のずれをすり合わせて結論を出すのは普通だと思いますよ.だからまず考えるべきは「整理する必要があるか」という一点であって,その基準とか百科事典らしさは抽象化してしまっても問題なかったはずです.あと「具体例」という言葉に大きな違和感があるんですが「具体案」じゃないんですかね.NGiraffe 2009年12月14日 (月) 17:05 (UTC)

恐らく「王様」のノートでは一番うるさ型であろうEULEさんが『具体的な話じゃないなら、わざわざノートで提案してないで、さっさと編集すれば?(要約)』と言ってくれましたので、整理の必要性を感じているのは当方一人ではない事ですし、Wikipedia:ウィキプロジェクト 漫画/過剰な内容の整理#登場人物Wikipedia:過剰な内容の整理に沿って人物節の記述内容の整理を実行しようと思います。「整理の基準」などについて具体的な提案がありましたらお願いします。--駄ニメ 2009年12月14日 (月) 00:42 (UTC)

「誰を記載するか」は#準レギュラーの整理で少し検討しましたのでご参考にどうぞ.私見では現在の版の面子で問題ない(エミリアとボンピエリは微妙なところ)と思います.「何をどこまで記載するか」は難しいですね.とりあえずエピソード固有で一般化できなさそうなところ,連載初期の状況は削っても構わないと思います.最近増えてきた台詞の引用も,前後の文章の誤解・理解不足を生まない限り不要でしょう.枝葉の話ばかりですみません.NGiraffe 2009年12月14日 (月) 17:05 (UTC)
人物自体は増やさないで、記述のみを整理する方向ですね。記述自体に関してですが、人物節は人物紹介をするところですが、それをするのにストーリーの紹介を使っていたりするあたりが記述が増える要因の一つとなっているように見受けられます(人物節を整理するのと反対に「あらすじ」節の充実を図った方が良いかも知れません)。独自研究や推測を除去するのは当然として、人物節にストーリーを組み込まない単純な人物紹介に改めるべきでしょう(「セリフの引用」や「()付きの注釈」なども減らせます)。--駄ニメ 2009年12月15日 (火) 00:35 (UTC)

これだけ言い切って1ヶ月経って何もしない(ように見える)のは、さすがに不見識と言わざるを得ないのでちょと苦言。他のところでお忙しいみたいなのは知ってますが、大規模な編集を行うとはっきりと予告している以上、放置されても困るわけですよ。--EULE 2010年1月21日 (木) 06:52 (UTC)

今まとめてる最中で、意外にまとめにくくて難儀しているところです。それにしても、某所では反対意見がないか確認したうえでさっさと編集すれば「合意なしに編集した」と言われ、ここでは推敲に手間取っていれば「放置すんな」とクレームが付く。一体どーすりゃいいのよ、と愚痴っておきます。--駄ニメ 2010年1月22日 (金) 01:32 (UTC)
何でそんなに、私に限らずいつも喧嘩腰なんでしょうかね。何と戦ってるんですか。いいですか、大規模な編集をすると予告する(かつ、既定路線となっている)ってことは、他者の編集を抑制するってことなんですよ?編集したって無駄になるわけですから。端的に言えば、予告するってことは一定期間、記事を自分の支配下に置くことだと思ってください。
その上で他者から見て何の音沙汰も無いってのは問題なんですよ。メモ帳あたりに成果があるのかもしれないし、実は何らかの事情によって放置されているかもしれない。とにかく、わからないのでは手が出せない。別に短期間で本稿に反映しろってことじゃなくて、他者にわかるようにしろってことですよ?例えばノートに概観を挙げる、サブページに素案を作るとか、いくらでも方法はある。見せることで、何らかの間違いや改善点に気付いてもらい、本稿に反映する前に校正できるメリットだってあるわけで。
ウィキペディアは共同作業なんですよ。個人の都合で好き勝手にできるわけじゃない。だから、こういう長くなるようなら作業経過を時折見せるってのは、重要なことなんですよ。--EULE 2010年1月22日 (金) 02:28 (UTC)
申し訳ないが言っている意味が全く理解できない。当方、喧嘩腰になってもないし誰とも戦ってませんが、何をそんなに過剰反応しているんですかEULEさん? 当方、自分の基準で編集するための準備はしていますが、大規模な推敲の実行を予告したからと言って、他の利用者に「俺がやるから編集するな」とは言ってませんし、そもそもそんな権利は当方にはありません。「共同作業」だからこそ、当方の都合で他者の編集を抑制などするつもりはない=当方が推敲を予告したからと言って、他者の編集が許されないとは思ってないし、誰かが当方より前に大規模な推敲をしたところで自分でやらなくて済んでラッキーとは思っても、その編集を差し戻して自分基準の推敲にしようなんて事も思っていません。また、『予告するってことは一定期間、記事を自分の支配下に置くこと』なんて説は初めて聞きましたが、どっかにそういう方針なりガイドラインがあるのでしょうか? 前にも言いましたが、EULEさんはウィキペディアの編集基準でも判断基準でもない。自分の持つ編集方針は自分のみに適用してください。当方は何を根拠にしているのか分からないEULEさん基準の押し付けは辞退させていただく。当方は当方の都合に合わせて前出の基準に合わせた大規模な推敲を行う予定であるが、実行前に他の利用者が推敲する事に異を唱える事はない。むしろ誰かが先に推敲してくれた方が、当方は楽で良い。--駄ニメ 2010年1月23日 (土) 01:45 (UTC)
(インデント戻します)何だかなあ。具体例を示す、素案を見せる、たったそれだけのことに何でそこまでの反応を見せるのですか?推敲段階まで出来てるなら、サブページ作ってそれをコピペするだけじゃないですか。
少し話をむしかえしますが、例えばプロジェクトに沿った編集をするって言うけど、それってかなり曖昧なわけですよ。例えば、織部悠の説明を
織部悠(おりべ ゆう)
主人公。ナポリの泥棒市で仕立て屋を開く日本人。仕立ての腕は他が及ばないほどの技量を持つ。
とだけにしても、プロジェクトの要請には答えている。ってか、現にプロジェクトに沿った編集と言う理由で、(ここまで極端じゃないけど)こういう編集が過去にありました。大体、現状だって、そんなにウィキペディアが要請する状態から逸脱はしてないです(と私は思います)。少なくとも、これをプロジェクトで問題視したとしても、例えば過剰な内容の整理を適応する程に問題があるとは看做されないでしょう。とまあ、こんな感じでかなり基準には幅があるわけですよ。一口に「プロジェクトに沿う」なんて言われてもね。
先に誰かがやればむしろ良いって言うけど、それはあくまで氏の話でしょ。人によっては「私が編集すると予告しているのに、編集するな!」って怒り出す人もいるし、あるいは予告された以後の編集が反映されなかったことを抗議した人に対して「私は予告していたから問題ない」と答える人もいる。第三者から見て、氏が予告以後の編集を無視して編集する人か、自分が途中まで作ったのをあっさり廃棄する人かもわからない。確かに、利用者全員が氏のような人間なら構わないけど、そうじゃない。そして、これは私の予想だが、それが「プロジェクトに沿う」という根拠だったとしても、自分が考えている物と違ったら、それを無視して、自分の編集をする人でしょう?あなたは。
どうもね、(直接関係無いけど)井戸端でのこととか見ても、氏は、自分の考えや行動はオープンになっていると考えている節がある。自分の考えは明らかになっているわけだから、自分の考えが理解できないのは、相手が悪いというような、そんな感じが見てとれます。まあ、人間誰しもそういう面があって齟齬は発生するけど、齟齬がまだ小さな段階で修正できればいいけど、その態度のせいで、不要に齟齬を大きくしている、そう見えるわけですよ。まあ、(あなたは個人攻撃と取るかもしれないけど)これは個人の感想ですから、ここは無視されても構いません。--EULE 2010年1月23日 (土) 03:26 (UTC)
現時点で議論すべきことは作業の見通しをつけることだと思います.それにつながらない編集姿勢についてのコメントやその回答の応酬は他所でやってください.(記述の整理と関係ない論争になりそうなので,敢えて.)
駄ニメさんには整理作業の見通しについて簡単に説明してもらえないでしょうか.私見では,一旦駄ニメさんの推敲の方針なり素案なりを示して頂いて,それを参考にしながら駄ニメさんを含め複数の編集者が改稿できる状況をつくるのがよいかと思います.仰るように現状でも編集は自由ですが,最終的に駄ニメさんの案とそのときの最新版記事とのどちらかが捨てられてしまうわけで,ちょっと勿体無いです.(追記) 2010年1月23日 (土) 07:14 (UTC) の NGiraffe による発言です.
2009年12月15日 (火) 00:35 (UTC)のコメントで『独自研究や推測を除去するのは当然として、人物節にストーリーを組み込まない単純な人物紹介に改めるべきでしょう』と、すでに当方の推敲方針は示してあります。--駄ニメ 2010年1月23日 (土) 11:54 (UTC)
では駄ニメさんの文案を我々が目にすることができるのはいつ頃になるか,見通しを教えてもらえませんか.一ヶ月以上先になる,或いは皆目見当がつかないということであれば,文案が固まったときに(必要なら)改めて議論を始めることにして,この節での議論は一旦打ち切ってしまうのがよいと思います.NGiraffe 2010年1月23日 (土) 15:18 (UTC)
時期を示せと言われても無理です。空いてる時間で作業してますから。また、すでに「推敲する」という事は決まっていて、「推敲についての意見」をここで募っているのですから、「議論を打ち切る」という提案の意味が分かりません。なんで当方が編集するために作った文章をココで秤に掛ける必要があるんですか?(「Wikipedia:編集方針#多様な参加姿勢が受け入れられます」、「Wikipedia:ページの編集は大胆に」参照)
ついでなのでEULEさん宛:出来たらアップすれば済むものを、何故わざわざサブページを作って出来る前の素案を出してあなたにお伺いを立てる必要があるのか意味不明。あなたがそうしたいなら、あなたはそうしてください。当方はそういうめんどくさい事をするつもりは一切ありません。何度も言いますがあなたはウィキペディアの基準ではない。--駄ニメ 2010年1月23日 (土) 16:27 (UTC)
あのね、私に伺い(?)を立てるんじゃないのよ。ひいて言えば第三者に伺いを立てるんだよ。って言って理解してもらえるならとっくに理解されているはずだから、期待半分に返信します。
結局は最初の方で言ったことだけど、見せる必要が無いくらい自明なことであると言い切れるなら、一々ノートで提起する必要など無い。大胆に編集すれば良い。しかし、もしも差し戻し、そこまでいかずとも異議があった時のために、今回のノートでの提議、そしてそのような事態になった時に「ノートで合意形成をした編集だ」と言うつもりであるなら、少なくとも合意形成などして無い(あなたのプロセスは合意形成というプロセスを満たせない)と言えるでしょう。って言って理解してもらえるならとっくに理解されているはずだから、期待半分に指摘します(たぶん「そうですね、EULEさんは反対しているから合意形成してるとは言えないでしょうね、でも全員の賛成が(略」ってな感じで返ってくると予想します)。
つまり、端的に言えば、合意形成のために必要であるってことです。--EULE 2010年1月23日 (土) 21:47 (UTC)
推敲レベルの編集に合意形成する必要なし。あなた個人ではなく第三者にもお伺いを立てなければならない理由は無いと考える。何度あなたがウィキペディアの基準ではないと言えば理解できるのか? また、問題が生じたとして「ノートで合意した編集だ」などというつもりもないし、過去にした覚えもない。妄想で意味不明な言い掛かりを付けるくらいなら自分で推敲するなりしたら如何か。また、推敲が必要ないと思うなら混ぜっ返していないで黙っていた方が良い。時間の無駄だ。そもそも『わざわざノートで確認を取らずに編集をすれば良い』と言った本人が、何で今更「第三者にお伺いを立てるためにサブページを作れ」なんて矛盾した事を言い出すのか意味不明である。--駄ニメ 2010年1月24日 (日) 01:07 (UTC)
(インデント戻します)やっぱりご理解いただけない。まあ、私その物に対する文句で済むなら構わないんですが、NGiraffe氏と協力する旨のことを述べているのに、他者と内容を検討する必要性を否定されるのは頂けない。別にNGiraffe氏はあなたに白紙委任したわけじゃないんですよ?(まあ、NGiraffe氏が実際にどう思ってるかはわからないけど、23日のコメント見る限り外れては無いと思います)。
それで、あとから異論が出ても合意形成だなんだと言うだろってのは早合点してました。すみません。でも、結果として現状の行動予定をそのまま移し、かつ、問題があった場合の対処が可能であることの言質が取れたので良かったです(合意形成しているとか言われたらまた面倒なので)。ついでに、もし私が氏の編集内容が気に入らず、抗議した時に「EULEさんは、私の編集に口を挟まないって決めたんだから、後から文句を言われても困ります」なんて言わないという言質も欲しいです。こんな馬鹿なこと言わないとは思いますが、保険はかけておきたいので。
まあ最後に。例えば、今、Dr jimmyという方のコメント依頼が出されています。(まあ、有名な方なので知ってるかも知れませんが)彼(彼女?)は、草取りを専門に行っている方ですが、推敲レベルなんて物より低い草取りレベルでも、論争が起こってる。いや、そんな例を出さずとも、他でもないこのノートでもつい最近、ある記述を巡って除去すべきか残すべきかの議論をやった。どっちが正しいとか間違ってるとかそういうレベル以前に、論争の火種、価値観の違いってのはあるわけですよ。駄ニメ氏にとって取るに足りない内容であっても(曰く「推敲レベル」であっても)、第三者もそう思うなんて保障は無いわけです。--EULE 2010年1月24日 (日) 03:39 (UTC)
当方も委任されてるとは思ってません。(むしろ委任されても困る。)また、編集に絶対的な自信なんて持ってる訳がないので、推敲後に、足りない部分を加えたり、必要ない部分を削ったりを、誰かにしてもらわないと困る。しかし、だからと言って素案をサブページに作って他の人と共同であーでもないこーでもないを繰り返し、「決定稿」ができてからアップするのが良いとも思わない。素案をいじくりまわした人だけが編集に参加している訳ではない=『第三者もそう思うなんて保障は無い』訳だから「決定稿」にも待ったが掛かる可能性がある。であるならば、直接作ったのをアップした上で、各々思うままに編集を加えた方が無駄がないと考える。(アップできるのは、たぶん来月末くらい)--駄ニメ 2010年1月25日 (月) 04:04 (UTC)
私は自分の関わった議論が不毛な論争で停滞するのが嫌なだけで,当分の間当記事を編集する意思はありません(だからEULEさん,人を引き合いに出さないように).駄ニメさんは「推敲」に関する意見を積極的に求めておられないようですし,また「来月末くらい」という具体的な目処も出てきましたし,それまでは様子を見ることにします.駄ニメさんには本質的でない意見に逐一反応せず,その分「推敲」を進めてくださるようお願いします(余談ですが,「推敲」の指すものがお互い微妙にずれているのが話のこじれる原因の一つだと思われます).EULE さんも定期的な催促はともかく(EULEさんがすることでもないと思いますが),相手の反応を誘うような,単なる「こうすべき」という論や関連する話題を突然振るのをやめて下さるようお願いします.議論の収束を促すものとは,私には思えません.NGiraffe 2010年1月25日 (月) 15:00 (UTC)

(リマインド)駄ニメ様,三月になりましたが進捗は如何でしょうか?NGiraffe 2010年3月2日 (火) 15:41 (UTC)

登場人物節の整理については大雑把に賛成で、編集内容について皆様の意見を知りたくて傍観していたのですが、進展がなくなったようですね。議論は白紙に戻していいんですかね?というか駄ニメさんは2箇月以上(3箇月近く)放置しておられますし、2月末ぐらいという予告も守られていないので、『白紙に戻した方がよい』と意見を述べておきます。
あと、編集を予告されている以上、自分が編集した途端に駄ニメさんに上書きされることを不安視する声があると思います。編集予告の弊害を、今後の議論では考慮した方がいいですね。EULEさん、 NGiraffeさんも同様のことを述べておられるようですし、皆様わかりきっていることと思いますが、蛇足ながら。--UTL 2010年4月19日 (月) 01:10 (UTC)
駄ニメ氏の投稿自体が途切れておりますし,なんなら猶予期間をおいた上で白紙に戻して構わないと思います.具体的にどう編集するか,という点について戻すほどの議論が為されていないのがなんですが.
編集予告について.私は弊害があるとはあまり考えていません.結局私は記事の内容がよくなれば良いのであって,自分の記述を残すことに拘らないからです.どうしても上書きされることが気になるのであれば,(EULE氏の書かれているように)利用者ページなどで文案を公開して実績をつくった上で記事に反映させればよいでしょう.自分の文章を残す理由の一つにはなると思います.NGiraffe 2010年4月19日 (月) 15:18 (UTC)
「自分の記述を残す」「自分の文章を残す」という発想にまず驚きました。そういうことは全く考えずに、今回の件の弊害について考えたのですが、なるほど、そう考えられる方もおられるわけですね。
このノートを覗きに来る人間にとって、ここ数カ月は、登場人物節について新たな編集案があっても(言葉は悪いですが)駄ニメさんの編集待ちになっていたと思いました。駄ニメさんの「登場人物節の整理」という提案に賛成であればなおさらです。で、待っていても出てこない。いわゆるノーショウな状態です。傍から見ていて、とても健全な状態とは思いませんでしたが……?
編集予告の利点・弊害については仕立て屋記事に無関係のため、議論するつもりはありません。とりあえず各自で考察され、次以降の編集時の議論の材料にして頂ければ。--UTL 2010年4月19日 (月) 19:55 (UTC)

本件提案は取り下げさせていただきます。理由:PCが壊れ保存内容が失われたため、および時間が取れないため。--駄ニメ 2011年3月10日 (木) 08:50 (UTC)

あらすじ節を新設しました[編集]

織部の32巻分の追記があまりにも酷かったので修正し、なぜか無かった「あらすじ」節を新設しました。ストーリーはあらすじ節に記載し、人物節には書かないでください。あらすじ節を新設しましたので現在の人物節の内容の修正も必要です。書きこむ内容、記述の仕方のついてはプロジェクト:漫画を参照してください。--駄ニメ 2011年11月28日 (月) 01:33 (UTC)

不明な理由であらすじ節が除去されていましたので復活させました。相変わらず人物節がストーリー紹介になっているようです。編集する際には気をつけてください。詳細はWikipedia:キャラクターの記述に対するガイドラインを参照のこと。--駄ニメ会話2012年8月2日 (木) 11:49 (UTC)