ノート:渋川一流
この記事は過去に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、ノート議論となりました。詳細はノート:渋川一流/削除をご覧ください。 |
小佐野淳さま(まさかご本人でしょうか?)、削除される場合は根拠をお願いいたします。下にも書かれていますが、渋川一流を名乗っている事実はあるので、それに問題があり削除する場合は、簡単でよろしいので根拠を明記したほうがよろしいかと思います。--Hakusai 2008年4月6日 (日) 23:05 (UTC)
124.44.53.237さん、前も書きましたが、根拠や出典をお願いいたします。渋川一流を名乗っているのは事実ですから、問題があればノートにでもお書きください。
天道流や力信流、心眼流を以前と同じ箇所をコメントなしで削除、変更されている方(124.44.53.237さん)、根拠を述べていただかないと荒らしと思われますよ?--Hakusai 2008年1月28日 (月) 00:41 (UTC)
現在、車地氏や小佐野氏などが渋川一流を名乗っていますが、彼らの系譜についても書くべきではないでしょうか?編集が荒れる等、なにか問題があるなら、現在の師範方については書かないほうがよろしいかと思います。--Hakusai 2007年12月27日 (木) 03:00 (UTC)
澁川一流の項目を作成した森本です. 指摘されたホームページは全て私自身が作成したホームページであり、まったく問題ありません. 新たに作るとすればそれは創作であり、虚偽となってしまいます。 私自身が作った文章ですので、同様の説明になってしまいます。 何かよい方法があるとすれば、お教えください.——以上の署名の無いコメントは、210.253.48.252(ノート/Whois)さんが 2005年6月7日 (火) 06:30 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 13:38 (UTC)による付記)。
- はじめまして。FeZnと申します。通常は「同じ事実関係でも複数の書き方がある」わけですが、既に練りに煉った後の文章は同様の記述にならざるをえませんよね……。とはいえ、サイトの著作権者の方で、かつGFDLに則っての投稿と分かれば大丈夫ですので、公式サイトのアドレスのほうに、自分の個人アドレスから確認のメールを送らせていただきました。そのアドレスからご返信いただければ、確認させていただきます。
- (なお、投稿時に~を4回連ねますと、自動的にユーザー名もしくはIPアドレスによる時刻つきに署名に変換されます。)FeZn 2005年6月7日 (火) 19:25 (UTC)
- 返信メール受領しました。→Wikipedia:削除依頼/渋川一流 ありがとうございます。FeZn 2005年6月8日 (水) 14:57 (UTC)
記事名が「渋川一流」になっていますが「渋川一流柔術」に移動させたほうがよろしいのではないでしょうか?Izayohi 2005年6月9日 (木) 12:26 (UTC)
伝系の追加について
[編集]このたび、車地氏の伝系を追加しました。その理由として、同氏も渋川一流を名乗っているからです。 ウィキペディアは調べもののためにさまざまな方が利用している訳ですから、調査を容易にするためには、さまざまな記事を載せる必要があると感じます。 なお、同氏の伝系などが数回削除されているようですが、削除される方は、明確な根拠を示していただければ、より利用者の参考になると思います。——以上の署名の無いコメントは、Egeyama6112(ノート・履歴)さんが 2008年4月13日 (日) 00:31 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 13:38 (UTC)による付記)。
流名について
[編集]渋川一流の流儀名については、坂町の広報誌その他の文献の中では、「渋川流」との記載が多く、事実、渋川一流を知る町の古老は、「渋川」と呼ぶ者が多かった。 また、明治期の伝書の中には「渋川流」として発行されたものもある。 もちろん、伝書では「澁川一流」として発行されているものも多く、坂八幡宮に掲げられた奉納額には「渋川一流」と記載されている。 これらをどう解釈したらよいのか。 これまで、ウィキメディアでは、「渋川流」との呼称は「略称」であるとして、数回にわたり文章が編集されている。 ある時期までは、流儀名が一定定まっておらず、「渋川流」あるいは「渋川一流」の両方が正しく、その後「渋川一流」という名称が定着・正式化したのか、それとも、当初から「略称」なのか。 そおそも、流祖とされる首藤蔵之進が流儀名をどのように考えていたのか。 これまで「略称」として編集されている方はどのような根拠により編集したのかを教示願いたい。
内容を編集しました。
[編集]何度か、記事の内容を編集しました。 渋川一流については、いくつかの系統があるようで、流派の歴史などについては、各系統に伝わる話がやや異なることもあると思われます。 したがって、古文書などで確認できるものを除いて、記載事項を断定しないように心掛けたつもりです。 --えげざん(会話) 2018年3月24日 (土) 13:03 (UTC)えげざん
渋川一流の流儀名について
[編集]渋川一流との名称についてですが、明治期の伝書には、渋川流と記載されたものや渋川一流と記載されたものもあります。 これが何を意味するのかは分かりませんが、「ある時期までは渋川流であったが、その後、渋川一流と称した。」「ある時期までは渋川流、渋川一流の両方が同時期に使われていた。」など色んな理由があると思います。ただし、理由については、首藤などが命名の由来を述べておれば別でしょうが、ないのであれば、言い伝え以上の意味はないと思います。(だだし、武士以外の階層が伝えた武術や神楽などの伝統芸能などは、そもそも文字による記録がないことが多く、言い伝えなど口承による記録は極めて大切です。)おそらく、特段のこだわりはなかった可能性があります。(そもそも明治期の伝書には「柔術朝山一流」などとの記載されたものもあります。)ちなみに、これまで、「渋川一流が正しくて、渋川流は略称である。」と主張される方がおられると思いますが、これについては、古文書などで確認できたことなのか、あるいは口承によるものなのか伺いたいと思っています。また、坂町ではいまだに「しぶかわ」と呼ぶ人は多いです(年配は特に) 「渋川一流」と呼ぶ人はあまりいません。 最近、編集された人がいましたが、(203.168.122.119さん)、編集した理由は何でしょうか。 後学のため、教えてください。 なお、今回の編集で、「系譜」や「外部リンク」を省きました。理由は、「現存の伝系」と重なるところがあるのと、流儀内の人間関係(具体的に言えば、車地善光氏や西清一氏に関する記事が記載されると、必ず削除する者が出る。個人の好き嫌いを反映させるべきではない。)を編集に反映させるべきではないとの考えからです。これからも、編集はその都度続けますが、それは、閲覧者に資するようにするためですので、ご理解ください。また、記述の根拠については、随時していこうと思います。 --えげざん(会話) 2018年4月9日 (月) 21:39 (UTC)えげざん
--えげざん(会話) 2020年11月30日 (月) 05:23 (UTC)--えげざん(会話) 2020年11月30日 (月) 05:23 (UTC)== 流名や伝系を改変する人へ ==
渋川一流については、私を含めて、これまで、色んな方が編集をしてきました。編集は大いにすべきで、新たな事項の追加、誤りの訂正をすることにより、良質の記事ができるものと思われます。しかしながら、悪意や個人の好悪により、編集をする者がいるのは残念です。 具体的には、IPアドレス202.174.58.161の方ですね。この方は、どうやら車地善光氏などに好意を持っていないようで、彼の伝系が記載されると削除するという行為に出ています。また、彼は流名にもこだわりがあるようで、自分が支持しない説を削除するという・・・。 彼がどういう立場に立つ者であるのかは、だいたい予想できますが(記事の内容やそれ以外の要素により予想できます)ウィキペディアは特定の個人や団体のものではありません。必要とする人のためにある訳で、複数の説があるのなら併記すべきであるし、個人の好悪で削除などをすべきではない。なお、以前も述べましたが、口碑は重要です。なぜなら、世の中の事象のすべてが、文書や石碑などの可視化できるもので記録される訳ではないからです。口承によるものは、その真偽については裏付けは必要ですが、では、なぜそのような伝承が伝えられたのかを考えるべきでしょう。記録にないからといって、伝説であるとして無視ないし軽視すべきではないと考えます。(民俗学などでは住民などへの聞き込みなどフィールドワークを重要視してますよね)また、渋川一流が伝えられた坂村は、江戸期から四国や近畿地方(吉野などの山岳地帯)への出稼ぎが盛んでした。明治以降についても、他の山陽地方の例にもれず、米国などへの出稼ぎ・移住者は多くいました。また、坂村沿岸地方の住民の中には、漁のため九州地方(特に対馬など)へ出漁する者も多くいました。他地域の住民との交流があったからこそ、他地域での修行者がいた訳ですし、修業が終わった者が門弟を取り立てたりもしていたのです。とりあえず、武術に限りませんが、地域に伝わる芸能や祭礼などの無形の文化遺産は、それが伝わる地域の歴史や風土も考慮すべきです。--
今回、記事の編集の必要があると感じたので、編集しました(令和元年7月29日)最近、編集される方は、「口碑によらない」とか「真実性」云々という理由で記事を改変されているようですね。そもそも、私が以前から申しているように、世の中のすべてが文書や石碑などの可視化できる資料により記録されているわけではありません。でも、伝えられているのなら、理由があるはずです。 坂町で首藤が「松山藩の柔術指南役」と伝えられているのはなぜでしょうか。彼が指南役であると伝えられた理由があったはずですが、現在、坂町でも事情をよく知る人はいないでしょう。でも、そのように伝えられているのなら、その理由を探るべきではないでしょうか。 単に、資料の上で記載がないからといって、「指南役ではなかった」というのは科学的な考察ではありません。そもそも、澁川一流は江戸末期に創流された流派で、戦前は多くの修行者がいたようですが、戦前といえば、実際に首藤に会ったことがあるとか、あるいは直接会ったことはないものの、首藤に教えを受けた人から首藤について聞いたことがある人は多くいたはずです。ですから、そういった伝承には何らか根拠があったのではないかと考えるのが自然です。また、渋川一流は戦前、坂村を中心に修行者が多くいました。 修業した者のうち、中極意以上を得た者は道場を開いて教えたり、既存の道場で師範代をしたり、稽古に顔を出して後輩に教えたりとさまざまだったと思われます。また、道場を開いたりしていない者でも、近所に住む者に教えを請われれば、個人的に教えたりもしていたようです。 (農作業の合間に畑で稽古していたということがあったようです。そもそも、教授は師匠の家の土間などで畳を敷いて教えていたので、現在の常設道場や武道場のように立派なものではありません。)渋川一流に限らないでしょうが、農村地帯で伝承された流儀の師範と門弟の間柄は、堅苦しいものではなく、「近所のおじさん」「近所の兄貴」が「近所の子」に教えた程度です。ウィキ中の「伝系」では宮田友吉系が主に記載されてますが、実際にはさまざまな系統が学ばれていたようですので、記事でも触れておく必要があります。(現在も、宮田玉吉伝を学んだ人が現存する) 古流の歴史を調査するのであれば、民俗芸能と同様、それが伝わった地域の歴史や伝統、地域性などに即して調査する必要があります。文献調査もいいが、実地調査も大切です。 --えげざん
--えげざん(会話) 2019年1月18日 (金) 12:52 (UTC)えげざん --えげざん(会話) 2020年11月30日 (月) 05:23 (UTC)えげざん
- この度、記事の出典を明示することとしました。2018年から実に6年かかりました。申し訳ありません。澁川一流については、いくつかの系統が現存しており、また流派の歴史を研究されている方もいらっしゃるようですので、議論やウィキペディア記事中の誤りの訂正などに資することができればと思います。--えげざん(会話) 2024年9月30日 (月) 21:33 (UTC)