ノート:植村直己

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名前の表記について[編集]

>「直巳」と届け出るが、役所の手違いで直己となる
ある著書で、(中学から大学までのいつの時点か忘れたけど)ヘビの付く名前を嫌がって自分で「直己」と名乗ったと言っているけど?--以上の署名のないコメントは、Ypacarai会話投稿記録)さんが 2005年2月5日(土) 10:29 (UTC) に投稿したものです(Leonidjp会話)による付記)。

記事に関する質問です[編集]

2004年2月8日、植村直己とされる遺体が発見されたというのは、本当ですか?他のどこにもこのことに関する記述がないのですが。できれば詳しい詳細を知りたいのですが。--以上の署名のないコメントは、210.146.106.19会話/Whois)さんが 2005年8月25日 (木) 15:53‎ に投稿したものです(たわわちゃん会話)による付記)。

Anchorage Daily News[編集]

Anchorage Daily News(2004年6月30日)によれば、一体の遺体が収容されたとありますが、同文に植村直己ではないという記事が載っています。詳しくはhttp://www.alaska.net/~jlanders/Fatal/Uemura%2002-84.htm

を参照願います。--以上の署名のないコメントは、219.162.13.70会話/Whois)さんが 2005年10月10日 (月) 02:18‎ に投稿したものです(たわわちゃん会話)による付記)。

没年月日について[編集]

没年月日が1984年2月13日とあるのに下の方で「(2月13日の)3日後飛行機がマッキンリーに行ったところ植村が手を振っているのが確認されたが、」と書かれています。死後三日経った遺体が手を振るとは思えないのですが、没年月日が2月13日とする根拠は何でしょうか?(おそらく失踪宣告によると思いますが、出典と註が欲しい)--Monaneko 2006年11月3日 (金) 16:04 (UTC)  [返信]

「最後に植村の姿が確認された1984年2月16日が、植村の命日とされた。」というのは、誰が「した」のでしょうか。御遺族? 何らかの公的機関? 参考までに英語版は2月13日を歿月日としています(さらに参考までに、うちのサイトも2月13日にしてます)。朝鮮語版は日の特定は諦めて2月とだけ書いてます。nnh 2007年5月31日 (木) 13:52 (UTC)[返信]

ウィキぺディア日本語版2月13日の項に、植村直己の忌日として記載されています。巡回冗長検査エラー 2007年9月30日 (日) 22:35 (UTC)[返信]

豊岡市の植村冒険館の学芸員に尋ねたころ、最後に確認されたのは2月13日で、消息日を2月13日としているそうです。同館の年譜表にも「2月13日 飛行機との交信を最後に消息を絶つ」と書いてあります。 59.128.29.215 2007年11月1日 (木) 02:03 (UTC)[返信]

ご参考に[編集]

本文に「マッキンリー登頂計画は、(中略)この時期に実行された明確な理由については不明となっている」ですが、1996年2月2日に放映された 『驚きももの木20世紀:植村直己・悲劇の山の謎』では、植村の海外での交渉窓口となっていた人物の言葉を引用しながら、「南極のための“布石”」としていますね。「明確な理由」と断定できないので、本文は書き換えませんでしたが、参考の一つになればと思いまして。--218.222.80.250 2009年7月21日 (火) 19:12 (UTC)[返信]