ノート:森有礼

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李鴻章との対談の典拠[編集]

質問です。恐縮ですが、李鴻章と森とが会談したことを記載された方、何を見て書かれたか教えていただけないでしょうか。--Tears for Asia 2007年4月12日 (木) 15:22 (UTC)[返信]

あるホームページで見ました。アドレスは控えてませんが実教出版の世界史教科書が元ネタだそうです。李鴻章と森が談判したことは、NHK出版の『ニッポン青春外交官』(犬塚孝明)にも書いてありましたので事実だと判断しました。Greenland4 2007年4月12日 (木) 17:54 (UTC)[返信]
ご返答ありがとうございます。会談自体あったことは存じています。『ニッポン青春外交官』は読んでいないので、絶対とは言い切れませんが、このやりとりは相当デフォルメされていると感じます。そのHPや本の元ネタは『日本外交文書』第九巻のpp176-180だと思いますが、そうだとすると李鴻章が慌てたなどという記述はどこにも見あたりません。李鴻章はあの難関の科挙を及第した進士であるばかりでなく、淮軍を組織して太平天国軍を負かし、その後腹黒い西太后とも対等につきあっていた清朝の実力者です。個人的な感想ですが、人の格という点からいうと、森程度に言い負かされてうろたえるような柔な人ではありません。恐らく依拠されたHPや本は森を引き立てるために、デフォルメしたのでしょう。また私は中国の近代思想史を勉強していますが、これまで論文や研究書でこの会談を取り上げたものをいくつか読みましたが、管見の限りやはりそのようなことは記してありません。たとえば王暁秋『アヘン戦争から辛亥革命』東方書店、1991、pp111-113など。恐縮ですが、確固たる典拠が見あたら無いのでしたら、削除した方が良いのではないでしょうか。無論正確な引用を教えてくだされば、削除などという野暮なことは即ちに撤回致します。一度ご一考くだされば幸いです。--Tears for Asia 2007年4月12日 (木) 18:30 (UTC)[返信]
御指摘ありがとうございます。ただ、「進士」であることや「人の格」が、そういう事実がなかったことの証拠になるかどうかはおおいに疑問です。また、「森程度に言い負かされてうろたえるような柔な人ではない」という「個人的な感想」を議論の中心にすえるのは、検証可能性の面から考えていかがなものかとは思います。「管見の限り」とおっしゃいますが、『清光緒朝中日交渉史料』(故宮博物院編)や『近代日支文化論』(実藤恵秀著)にも記載されており、実教出版『世界史A』は曲がりなりにも文部科学省の検定は通過しているわけですから、Tears for Asiaさんの個人的感想(それを軽視するというのでは決してありませんが)を最優先しなくてはならない理由もありません。提案いたしますが、「それをデフォルメされた逸話だと指摘する向きも多い」というふうに両論併記するのはどうでしょう。森を持ち上げる気持ちは毛頭ありませんが、現代の中国人がふれたくない話題であることは確かであり、ふれたくない話題にはふれないというのが彼らの行動様式であるように思えます。削除まではしなくてよろしいのではないでしょうか。Greenland4 2007年4月13日 (金) 14:11 (UTC)[返信]
再度コメントありがとうございます。無論いわれるとおり私の個人的な感想のみをもって削除を提案しているのではありません。そう誤解させたのであれば、流してくださって結構です。たださきのコメントからするとGreenland4さんは実際に教科書を見たわけではないのですよね。HPなどを典拠とするわけにいかないことはよくご存じかと思います。ですので削除ということを申しあげました。とりあえず確認できるまで削除ということで、確実な典拠があれば、そのまま復活させるか、別の形をとって復活させるかを論じれば良いという考えです。何が何でも削除だ、といっているわけではありません。
また『清光緒朝中日交渉史料』(故宮博物院編)や『近代日支文化論』(実藤恵秀著)を読まれたようですが、(他の典拠もなくリバートを繰り返す輩と違い、学術的な意見をいただき光栄です)、「李鴻章はあわてて話題をかえてしまったという」の部分は何と書いてあるのでしょうか。前後合わせてノートに引用していただければありがたいです。一応未熟ながら漢文も読めるので、別に原文のままでも結構です。両論併記のご提案はとりあえず、そのお返事をいただいてからでよろしいでしょうか。--Tears for Asia 2007年4月13日 (金) 15:29 (UTC)[返信]
『清光緒朝中日交渉史料』(故宮博物院編)と『近代日支文化論』(実藤恵秀著)は実は読んでいません。これは、ある他のHPの記載を参照してのものです。その点は確かに弱いです。ただ、実教出版の『世界史A』については気になって調べてみました。遅くとも13年度版から傍注に同じ文が記載されており、19年度版からは1ページを割いて『断髪易服~髪を切り、服を易える~』と題したコラムにしていて「髪形や服装には時代の気風が反映する」の文から書き始めています。文面は御指摘のHP『世界史読み物/断髪易服』のものと全く同一です。これは実見いたしましたので間違いありません。このエピソードは、人の「器」に着目するより、「時代の気風」あるいはアジアの国際秩序を万国公法を基本にするか華夷秩序を基本にするかの対立としてとらえるべきなのではないかと思います。華夷秩序を基本にした際に生じる微妙な矛盾、たとえば、李鴻章自身は漢族なのに満族のスタイルで長髪の太平天国軍を制圧したわけですし、朝鮮や琉球に対しては宗主国的立場を維持したい一方でそこから生じる責任はとりたくないという清朝の姿勢を代言しており、そういう微妙な矛盾を森は突いたわけです。何のかんのと言っても、森はものすごいインテリですよ。国家を背負っているという気概もある。現代のインテリジェンスなき日本の政治家を基準にしてはかえって誤ります。少なくとも、そういう矛盾を突けない人ではありません。とはいえ、わたしはそれほど2人の人物論に造詣が深いわけでもありませんし、特段、森のファンというわけでもないですから、「あわてて話題をかえた」の箇所について表現を変えるというのはいかがでしょうか。Greenland4 2007年4月13日 (金) 22:16 (UTC)[返信]

インデント戻します。正直今忙しいので流そうかと思ったのですが、4月以降の加筆にいくつか見過ごせない箇所を見つけてしまったのでコメントします。

  1. まずノートでのルール・マナーについて。Greenland4さん、読んでない本を根拠とされるのはご遠慮ください。自ら確認していない情報を元に自説を主張するのはルールに反するものと存じます。またHP上の情報は基本的に典拠としては不適切です。国立国会図書館といったお堅い公的なもの以外は典拠となり得ません。これは学術研究において常識です。マナー上もよろしくありません。見ていない映画について、「非常におもしろかったよ」と友人に言えば、「嘘」と判断されかねないのと同じです。この点、必ず改めていただきたいと思います。教科書については後述。
  2. 以下記事そのものについて。まずスタイルの点からいうと、Wikipediaのルールでは、注釈は句読点の前に置くことになっています。また注釈にエピソード的なものが書かれているのに、また別途「エピソード」の章を設けているので、この点整理が必要でしょう。
  3. さらに森有礼の事実について書くべきところに、小説での指摘を根拠とした記述は基本的にしないでください。森については多くの論文が書かれているのですから、それに基づいたものだけでも十分なはずです。劉備について、吉川英治は~と書いている、とは誰も加筆しません。『演義』について触れていても、きちんと別にしています。たださる研究者が、小説を引用して指摘しているなら別です。ある研究論文に「刺殺犯が黒住教信者であったことは、某々の小説『・・・』によって夙に指摘されている」といった具合にです。もし無いのであれば「森有礼を扱った小説」といった章を設け、そこに書くべきでしょう。プロの歴史家と小説家の意見を混濁して扱うべきではないと思います。
  4. 李鴻章との会談について。この部分はより適切なものに差し替えたいと思います。清・朝宗屬関係について書いているのに、会談そのものは文明開化に対する意見の食い違いを取り上げており、文脈が一致しません。よって宗屬関係について会談している情景に後ほど変更します。もう一つの理由は、百科事典執筆において、やはり教科書を典拠とするのはふさわしくないと感じるためです。Wikipediaに限らず、大学のものならいざ知らず、高校の教科書を典拠としているものは絶対にないでしょうから。なお変更するに際して『日本外交文書』第九巻から抽出したものを投稿する予定です。
  5. 実はここまでであれば、黙って編集で直しても良かったのですが。問題は以下の箇所です。「西村・・・ヨコのソサエチーが必要だと言ったのだ」これは関連リンクで挙げられている、松岡正剛氏のサイトにそっくり同じ文章があります。他人の文章を勝手に投稿するのは、非常なルール・マナー違反です。数日待ちますので、特定版削除を自己申告してください。処置が終わった時点で、上記の点を加筆訂正しようと思います。--Tears for Asia 2007年4月23日 (月) 15:19 (UTC)--Tears for Asia 2007年4月28日 (土) 12:19 (UTC)[返信]
おっしゃることは至極もっともです。(国立国会図書館ウンヌンの箇所だけは何を言いたいのかがよくわかりませんでしたが) 当該箇所は削除いたしましたので、ぜひ加筆訂正お願いします。Greenland4 2007年4月23日 (月) 16:42 (UTC)[返信]
重ねて二つばかり質問します。
  1. 「至極もっともです」と言われているので、ご理解いただけたと思うのですが、未だ削除依頼が提出されていないようです。履歴をたどれば剽窃部分を参照できるので、この記事は削除としなければなりません。恐らく特定版削除だと思いますが。アクションを起こされないのは、実は削除に納得いかないのか、それとも方法が分からないのか、私には判じかねますのでご回答お願いします。提出が遅れれば遅れるほど、他の方が次々と加筆され、やっかいになる可能性があります。
  2. 仮に特定版削除とする場合、一度で済ませた方が管理者の方々にかける負担が減ることはご理解されると思います。そこでうかがうのですが、私が指摘させてもらった箇所以外には削除しなければならない箇所は無いのでしょうか。たとえば、「木場貞長「森有礼先生を偲びて」」や「(木村匡「森先生の半面」『森先生伝』より)」と書かれている部分がありますが、これは直接ご自分で確認されたのでしょうか。著作権が切れていると思われるので、木場・木村両本をそのまま引用することは何ら問題ありませんが、原文を現代語訳した際、たとえば大久保本などからそのまま断り無く加筆すると著作権上微妙です。問題ないのであれば良いとは思いますが。
  3. 国立国会図書館云々が分からないとのことですが、ネット上の一ブログなどを根拠とすべきではないということです。しかし国立国会図書館の近代デジタルライブラリー上の史料などは、それを元に加筆者の解釈をまじえなければ問題ありません。たとえば上で触れた木村匡『森先生伝』は[1]などで見られます。こういう確認の際、典拠となりうるかどうかということを申し上げています。ご理解いただけましたか。--Tears for Asia 2007年4月25日 (水) 13:53 (UTC)[返信]
1.については削除依頼の方法がわかりません。2.については『世界人物逸話大事典』を参照しました。大久保本からの引用・借用はありません。3.については了解しました。Tears for Asiaさんの加筆をおおいに期待しております。Greenland4 2007年4月25日 (水) 14:09 (UTC)[返信]
削除依頼の方法はWikipedia:削除依頼#依頼の仕方にあります。一度ご自分で挑戦してみてください。他人に依頼提出されるよりは、ご自分でされた方が傷も浅いと思いますよ。後わたしは週末までWikipediaを覗かないと思いますので、諸々よろしくお願いします。週末までには『世界人物逸話大事典』の中身を確認しておきます。--Tears for Asia 2007年4月25日 (水) 14:29 (UTC)[返信]
削除依頼をしました。ぜひとも最新の森有礼研究の成果を反映させてくださいますようお願いします。森有礼情報のいっそうの充実を心よりお待ちしております。Greenland4 2007年4月25日 (水) 15:19 (UTC)[返信]
削除依頼確認しました。後ほどコメントしておきます。今日、参考文献に挙がっているものなどを中心に調べてきました。文章が一致している箇所はマーキングしてあります。赤が『世界人物逸話事典』の犬塚さんの文章、緑が『世界伝記大事典』の園田さんの文章と一致した箇所です。林竹二さんや森本貞子『秋霜譜-森有礼とその妻』は他の人が借りており、確認できませんでした。マーキングした版を一端投稿し、該当部分をばっさり削除します。よって履歴で確認してください。
冷静になって考えてみると、このノートにおける松岡文の指摘もルールに抵触する可能性があるので、訂正し、記事本文同様特定版削除してもらえるようお願いするつもりです。
孫子 (書物)でも、先日著作権違反が発見されました。発見されるまでに二年を要したため、被害・影響は甚大です。わたしの大量加筆も無駄になりました。もし私が指摘した以外にもありましたら、必ず申告してください。切にお願いします。--Tears for Asia 2007年4月28日 (土) 12:19 (UTC)[返信]

青い目の子について[編集]

1.山田風太郎『エドの舞踏会』には、森有礼夫人が産んだ子は青い目をしていたという話が掲載されている。 >> についてはどの程度信憑性のある話でしょうか。 2.三田の幽霊坂に森の屋敷があったということが言われていますが、どの辺りか分かりますでしょうか? Tokyo Watcher

2.についてはわかりませんが、1.については、当時そういう報道がさかんになされたようです。伊藤博文と戸田極子の不倫も同様ですが、欧化政策に対する庶民の反発がそれだけ強かったということなのでしょう。そしてまた、その報道を受けてそれを事実だと思った人も多く、さまざまな伝記にも書き写されて今に至っています。WEBサイトを開いても、それを事実のように書いているものが多い。山田風太郎の小説は虚実おりまぜて書くことがありますから、信憑性は低いとも言えますが、当時の人もみんなそう思っていたし、記録にもそう書いており、それを典拠にしていますから、妙に説得力があるわけです。「妻たちの鹿鳴館」という名で演劇にもなっていますから、それをみて「そうだったのか」と思う人も多い。しかし、伊藤博文と戸田極子の不倫にしても、検証した人によればそんな事実はなかったといいます。広瀬常にしても、かたや建築家コンドルとの愛を描いた小説作品もあれば、事実無根であるとする『秋霖譜―森有礼とその妻』(森本貞子著)もあります。[2]ここのブックレビューで「小谷野敦さん」などは、この本を非常に高く評価されています。あまり、お答えになっていませんが。Greenland4 2007年5月7日 (月) 16:06 (UTC)[返信]

Greenland4様、御丁寧な御返事ありがとうございます。 男女同等の結びつきによる一夫一婦制を日本に導入しようとし,結婚改良のための契約結婚を唱えた彼がこのような辱めを受けるとはあまりにも悲しい話ですね。Tokyo Watcher

そうですね。わたしもそう思います。それが加筆の動機でしたし、「森程度」という言葉にカチンときて思わずムキになってしまった部分もあります。おとなげないことでした。Tokyo Watcherさんのように考えてくださった方が一人でもいれば、自分の目的は達せられたかとも思います。慰めとなるお言葉ありがとうございます。今は、ここで森有礼の名誉挽回に躍起になる必要もなかったのかなとも思い返しています。考えてみれば、根拠もなしに「森程度」と言ってくださった人がいたおかげで、森有礼について随分調べて知見を広げることもでき、また人物に関する興味をさらに深めることができました。その意味では、その方にも感謝したいと思います。ひとりの人物には様々な見方があることを教えてくださいました。わたしの加筆部分は全部削除してもらおうかなとも考えています。--Greenland4 2007年5月11日 (金) 12:59 (UTC)[返信]

Greenland4さんの記述部分は、資料価値としても文章の面白さでも一級で、私としては残しておいて頂きたいですが、お気持ちの済むようにされるが良いと思います。私も自分が記した記事を削除されたり改変されて腹が立つこともあります。しかしWikiはしょせん匿名の世界で、たかがWiki、されどWikiですから、とにかく文章を書くのを楽しまれるのが一番ですよ。他者とのやり取りもゲーム感覚で楽しむのも一興です。
PS.幽霊坂にある掲示板には、名称の由来が「森有礼の屋敷が存在したからとも」とあります。古地図を見ても一帯は寺院で地割りは現在と殆ど変化はありません。明治時代政府の顕官が住むような屋敷が存在したスペースはないように思え、なぜ港区がそのような掲示を出したか不思議です。Tokyo Watcher 2007年5月11日 (金) 14:04 (UTC)[返信]

お久しぶりです。Tokyo Watcher様。重ね重ねの温かい御言葉、ずっとありがたく、そして嬉しく感じておりました。また、御無沙汰して申し訳ありませんでした。「幽霊坂」の件は何分、僻地に住んでおりまして、地理不案内ですので、よくわかりません。ただ、すでに明治7~8年において「明六の有礼」=「あけむつのゆうれい」なる語があったようです。森の極端な洋癖を揶揄したことばのようですが、当時の庶民や保守的な人士からすれば、契約結婚、男女同権、文化会館建設など、いかにも現実離れした思想・行動と受け止められたのではないかというふうにも思います。憶測ですが、幽霊坂はおそらく寺院に由来するのではないでしょうか。何かの機縁で森有礼と関連づけられ、その屋敷跡というふうに考えられたのではないかと思います。これほど古くから森を揶揄する語彙がある以上、「ユーレイと言えば森有礼」という連想も広く流布したものではないかと推測します。それにしても、この人物は現実的な官僚政治家の顔と理想主義的な啓蒙思想家の顔を併せ持っており、なかなか評価の難しい人物です。当時の政治家というのは、およそ弁解ということをしませんしね。調べれば調べるほどわからなくなる一面があります。まあ、そういう意味でもユーレイかもしれませんね。--Greenland4 2007年5月24日 (木) 13:44 (UTC)[返信]

拝復 Greenland4
どうやら屋敷云々はこじつけのようですね。了解いたしました。今後のいっそうの御活躍をお祈りいたします。まずはお礼までTokyo Watcher 2007年5月25日 (金) 14:06 (UTC)[返信]

最初の夫人・常の項目に、森本貞子氏の小説の内容を書いておられますが、森有礼を題材とした作品の項目ならばともかく、事実関係を扱う場で、小説(フィクション)を出してきますのは、不適当ではないでしょうか。原口清氏の「明治前期地方政治史研究〈下〉 」に、藪重雄が広瀬姓になったことに関して、飯田事件の控訴状の以下の文言が載っています。「被告実家ハ姓ヲ藪ト称シ、元ト東京麹町富士見町ニ居住セリ。被告出デテ広瀬家ニ養子トナリ、同家ヲ相続セリ」。つまり、この時点で、重雄は「広瀬家」を相続して戸主になっていたわけでして、この「広瀬家」が森有礼夫人・常の実家ではないことは明白、と思われます。常夫人に関します()書きは、森有礼全集の伝記資料からのものに、書きかえさせていただきます。--Iratume 2010年9月19日 (日) 07:04 (UTC)[返信]