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ノート:桐生六郎/過去ログ

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項目名「桐生頼忠」とされていた本項旧版の信頼性について[編集]

以下のような疑義があります。

>さらに、『吾妻鏡』などの文献を参照にした「群馬県郷土史」の『桐生市史』によると、「桐生」の姓名が登場するのは平安時代末期に、桐生六郎忠利(頼忠)の名が記されている。

『吾妻鏡』巻2・治承5年閏2月25日、養和1年9月13日・16日・18日の各条に「桐生六郎」の名があらわれています。これを典拠とすればよいはずなのに、なぜ『桐生市史』に拠る必要があるのか理解できません。この部分に限らず本文中に『桐生市史』を典拠とした箇所が頻出しますが、『桐生市史』は平安・鎌倉期を扱った論稿として、当時の根本史料や後行の研究を差し置いて引用するほど高い価値を有するものなのでしょうか(詳細は後述)。また、上の引用部分は文法的に正しい日本語といえません。

>養和元年(1181年)2月、俊綱・忠綱父子は野木の宮の戦いで志田義広と組むも、小山朝光に敗れた。頼忠は俊綱・忠綱父子に向かって、「平家に従軍すべき」と進言し、共に西海道まで従軍したという(『吾妻鏡』)。

『吾妻鏡』を参照できるのなら、先の箇所で『桐生市史』に拠らず『吾妻鏡』を引用できるはずです。もっとも、『吾妻鏡』には桐生六郎が俊綱・忠綱に「平家に従軍すべき」などと進言した旨の記事は存在しないのであり(治承5年閏2月25日の条、「足利又太郎忠綱(中略)招郎従桐生六郎許。数日蟄居、遂隨桐生之諌、経山陰道、赴西海方云々」)、『吾妻鏡』を参照していない事が強く推認されます。また、これは意訳ともいい難い創作に類する行為であって、Wikipediaにおいては厳に禁じられるものと思料します。

そもそも、『吾妻鏡』を参照していれば治承5年7月14日に養和に改元された旨知り得るはずであり、「養和元年(1181年)2月」なる表記をしてみようとは夢にも思わないでしょう。さらには『吾妻鏡』寿永2年の記事が養和1年の部分に錯簡したとされる点(例えば「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」、石井進著作集・第5巻『鎌倉武士の実像』p189-p192、岩波書店・2005年)を考慮していないようにも見受けられ、やはりおかしい記述です。石井説が反駁の余地の無い真実か否かという問題もありますが、たまたま手許にある『群馬県史』通史3・p118-p119は石井説を採用しています。なお、Wikipedia上でも例えば野木宮合戦#合戦の年月日などは石井説に基づいているとみられ、足利忠綱でも初期の版では石井説に依拠しつつ時系列の混乱を来たさないよう配慮がなされていたようですが、足利忠綱の記事はこの2,3ヶ月の編集で時系列が破壊されています。

>義兼は義茂とともに9月7日の前夜にいとこの頼忠に密使を送り、足利父子殺害を唆したという。翌日に頼忠は、俊綱・忠綱父子を裏切りこれを殺害し

義兼が桐生六郎に対し俊綱・忠綱の殺害を唆した事の根拠が不明です。また、桐生六郎が殺したのは俊綱のみであり(『吾妻鏡』養和1年9月13日・16日の各条)、事実誤認(または捏造)が見受けられます。そもそも忠綱は野木宮合戦に敗れて山篭りした時点から俊綱とは別行動を取っています。

>頼朝は頼忠の父・義重の日和見な態度に激怒した事情もあり、頼忠に向かって「御家人になりたいとほざく男は主君の寝首を掻いた不届者よ」という扱いにされ

そのような事情で激怒した事や、頼朝のセリフはどのような文献から読み取れるのでしょうか。『吾妻鏡』養和1年9月18日条にある、頼朝の「誅譜第主人、造意之企、尤不當也。雖一旦不足賞翫、早可誅之由」という発言を上のように解したとすれば、これも創作に類する行為とみるべきです。

以上により、本稿は全く信を置き難い記事であると考えます。--Сорасоуё 2008年2月3日 (日) 04:47 (UTC)[返信]

桐生氏研究における『桐生市史』の位置付けについて[編集]

須藤 聡氏の論文「桐生佐野氏に関わる研究史とその史料紹介」(桐生文化史談会・編『桐生佐野氏と戦国社会』所収、2007年)は桐生六郎と「後桐生氏」、佐野氏との関連に言及した箇所で「戦後の代表的な桐生氏研究としては、『桐生市史』がある。(中略)客観的な史実を導きだそうと詳細な考察を行っている」と、『桐生市史』に研究史上の一定の価値を認めています。

もっとも、同論文は『桐生市史』を含む従来の桐生氏研究につき、『桐生老談記』など近世に成立した軍記物・系譜類にほとんど依拠して展開されていたといえる」とも指摘されています。さらには「『桐生市史』にも桐生氏と佐野氏との関係を触れた記述もわずかにあったが、軍記物や系譜に頼る余り、その一体性にまで踏み込むことはなかった」との見解も示されています。

『桐生市史』上巻は昭和33年、同書別巻は昭和46年に刊行されたものであり、上記の問題点の克服を目指したとみられる論稿が相当数発表されている現状(前掲・須藤論文参照)に照らせば、無批判に『桐生市史』のみを参照して作成された本項目はやはり措信し難いと考えます。

なお、Wikipedia内を「桐生市史」で検索したところ、本項の他に前桐生氏足利義兼足利忠綱足利氏足利氏 (藤原氏)足利俊綱足利庄の各記事が抽出されました。これらの記事も上で指摘させて頂いた事と同様の問題点を含むものと思料されます。--Сорасоуё 2008年2月12日 (火) 17:05 (UTC)[返信]

以上のように『桐生市史』は後行の研究により批判されていますが、桐生六郎を本項目旧版のように「新田義重の末子・桐生頼忠」とするような誤謬を犯していたとまでは考え難いです。--Сорасоуё 2008年9月29日 (月) 08:29 (UTC)[返信]

ルーツ・項目名について[編集]

桐生六郎に関する最近の論著として、桐生市立図書館長・大瀬祐太氏の『桐生六郎の周辺―『吾妻鏡』における或る逆臣の正当性について―』(私家版、2005年)があります(ただし未見)。久保田順一氏の論文「中世桐生郷と桐生佐野氏成立の背景」(前掲『桐生佐野氏と戦国社会』所収)は、大瀬氏の著作を参照した上で「六郎は『吾妻鏡』にみえるのみで、これ以上のことは不詳である。取り敢えず桐生の苗字を名乗ることから桐生に基盤をもっていたことは明らかで、藤姓足利氏の同族の可能性もある」とされています。本項目の旧版にいう通り「清和源氏新田氏の一族。新田義重の末子とされる」のであれば、大瀬・久保田両氏がその旨指摘されたはずです。

また、「桐生頼忠、通称・六郎、別名・忠利」という名は何を根拠としているのでしょうか。そもそも「桐生頼忠」なる人物は実在するのでしょうか。本項目の旧版の

>桐生氏(前桐生氏)の系譜は、『尊卑分脈』を基にした『系図纂要』・『鑁阿寺新田足利両家系図』(『鑁阿寺系図』)に記されている

という記述を手掛りに「尊卑分脈 系図纂要 新田」をキーワードとしてgoogle検索したところ、[1]が見つかりました。恐らくはこの系図中の「(桐生)頼忠」なる人物を桐生六郎と同一視した上で本項目が作成されたものと思われます。

そうであるとすれば、Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源に基づくものとして検証可能性が否定されます。そもそも本項目で扱う人物は「桐生六郎」として「『吾妻鏡』にみえるのみ」であって、項目名自体について検討を要するのではないでしょうか。なお昭和14年刊行の『山田郡誌』中、日枝神社の社伝由緒を記した箇所に「桐生六郎忠利」なる名がみえるようです。しかし、『山田郡誌』は前掲・須藤論文がその信頼性に疑義を呈しており、「忠利」の根拠もよく判りません。--Сорасоуё 2008年2月20日 (水) 16:16 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

『尊卑分脈』・『系図纂要』・千葉琢穂氏『清和源氏740氏族系図』(展望社、1985年)・『新田金山伝記』(ただしネット上のテキスト)を参照したところ「桐生頼忠」なる人物の存在は確認できませんでした。『新田足利両家系図』は未見ではありますが真偽不明です。仮に清和源氏・新田氏の一族に「桐生頼忠」が実在したとしても、この人物と「藤姓足利氏の同族の可能性もある」(上記参照)桐生六郎とが同一人物である可能性はまずないと考えられます。本項目は項目名からして誤っていたというべきではないでしょうか。

本項目を加筆・修正する前提として、項目名そのものを改める必要があると考えます。本項目で扱われた人物は『吾妻鏡』に「桐生六郎」としてのみみえること、複数の学術論文に「桐生六郎」の名で表記され、その内には「桐生六郎」の名を表題に冠した論著が存在すること(上記参照)からすれば、「桐生六郎」を新たな項目名とするのが妥当と考えます。--Сорасоуё 2008年2月22日 (金) 11:45 (UTC)[返信]

遅ればせながら『新田氏根本史料』所収「新田足利両家系図」を参照しました。確かに義重の末子として「頼忠 桐生八郎・・」の名が記されています。しかし、上記のとおり仮にこの人物が実在するとしても桐生六郎と同一人物である可能性はまずないと考えられることには変わりありません。--Сорасоуё 2008年9月29日 (月) 08:42 (UTC)[返信]

改名報告[編集]

桐生頼忠桐生六郎に改名しました。--氏名不詳者 2008年2月28日 (木) 20:05 (UTC)[返信]

ありがとうございます。改稿させて頂きました。--Сорасоуё 2008年2月29日 (金) 12:10 (UTC)[返信]