ノート:東郷重位

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日置流東郷重尚が次兄とありますが本当ですか?「本藩人物誌」等では東郷重治(休伴)となっています。また、「郷士の中で優秀なものが城下にすみ城下士となった」とありますが、これも出典は?関ヶ原直後、選りすぐった武士を国境の外城に移住させたという全く逆の記録があります。有名な中馬重方も国境の出水の外城士です。あと、「余談」なら書く必要はないと思います。--盛風力 2008年1月8日 (火) 12:32 (UTC) 以上のコメントは盛風力会話履歴)氏が[2008年1月8日 (火) 12:32]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

後に「本藩人物誌」(天保13年の作品)や「南林寺由緒墓」で調べた結果、「さつまの姓氏」では、東郷重尚(薩摩日置流)は東郷重位の兄とは別であり、「さつまの姓氏」では「東郷重尚(重治)」としているが、東郷重尚(重治)の子を重恒としているが、それとは別に重尚の養子重張から始まる「弓師流」があり、「本藩人物誌」では弓術日置流開祖の東郷重尚の跡は養子、重張が継いでおり、重治と日置流の重尚を混同していると思われる。なぜ、このような混同をしたかは分かりませんが、あるいは「さつまの姓氏」の作者は一家一家の系図を作成の際、「姓氏家系大辞典」等の家系関係資料や、旧家の系図などから収集し、それを整理して研究し、取捨選択して系統立てたもので、作者の収集した資料に東郷重治と重尚を同一扱いするなにかがあったかもしれないが、その資料を知るにあたわないので、本日--210.237.32.170 2008年1月12日 (土) 08:29 (UTC)に東郷重尚を東郷重位の兄とする記事は削除しました。長兄の重信についても、その養子重照が山田氏の子で、「本藩人物誌」でも載っているのですが、瀬戸口弥左衛門の本名が重信かは分かりかねるので、これも削除しました。--210.237.32.170 2008年1月12日 (土) 08:29 (UTC)以上のコメントは、220.111.240.206会話/投稿記録/Whois)さんが[2008年1月9日 (水) 11:06]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。[返信]
このままでは「さつまの姓氏」が偽物扱いされかなないので、同書に記載されている東郷重位の子孫の系譜を載せますので、これで盛風力さんにご判断いただきたい。
《示現流東郷氏系譜》
初代 東郷重位;(瀬戸口重為3男、坊津泊郷地頭職)
2代目東郷重方(東郷重位の子、坊津泊郷地頭職、薩摩藩郡奉行の初め)
3代目東郷重利(東郷重方の子、坊津泊郷、内之浦郷、羽月、野田、姶良郡山田郷地頭職)
4代目東郷実満(東郷重利の子)
5代目東郷実昉(東郷重利の孫、東郷位照の子)
6代目東郷実乙(東郷実昉の子)
7代目東郷実位(東郷実乙の子、納戸奉行)
8代目東郷実明(東郷実位の甥、東郷実守の子)
9代目東郷重矯(東郷実明の子)
10代目東郷重毅(東郷重矯の子)
11代目東郷重政(東郷重毅の子、郵便局長、日本武道振興会理事、古武道功労者として全国に表彰。)
《原文このまま》
--210.237.32.170 2008年1月12日 (土) 08:29 (UTC)立山源次郎[返信]
「さつまの姓氏」は力作ですが出典が不明であったりミスも多く鵜呑みに出来る資料ではありません。あくまでも参考資料でしょう。東郷重尚の件はこの本の間違いの一例です。(「さつまの姓氏」に限らず家系に関する資料は他史料で要検証です)他の210.237.32.170 さんの投稿をみると「家伝~」というものが多いですが、家伝もそれだけでは信用に足りないものが多く、学術的な論述においてはやはり文献資料との突合せで検証すべきものと考えます。いずれにしろ、歴史に関する調査はいくつかの史料をつき合わせて慎重にすべきものと考えます。--盛風力 2008年1月14日 (月) 07:39 (UTC)以上のコメントは、盛風力会話投稿記録)さんが[2008年1月14日 (月) 07:39 ]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。[返信]
鹿児島県立図書館に行き、「鹿児島県姓氏家系大辞典」(角川書店)で調べたところ、「さつまの姓氏」と同じく薩摩日置流の開祖を東郷重治としていました。この薩摩日置流の開祖の東郷氏については考察が必要と思われる。--210.237.32.170 2008年1月18日 (金) 09:26 (UTC)立山源次郎[返信]
「鹿児島県姓氏家系大辞典」が単に「さつまの姓氏」をソースにしているのではないですか?家系関連は粉飾・捏造がつきものです。検証なしにそのままWikipediaに記載するのはどうかと思います。(誰かが検証してくれるのもWikiの良いところですが)--盛風力 2008年1月21日 (月) 12:06 (UTC)以上のコメントは、盛風力会話投稿記録)さんが[2008年1月21日 (月) 12:06 ]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

 鹿児島市立図書館に置いている方の「鹿児島県姓氏家系大辞典」では東郷重治と日置流の東郷重尚は別人として扱ってました。しかし、間違えて投稿したとはいえ、正直、この間違いには驚きです。というのも、「さつまの姓氏」の作者は、「家系図の見方、作り方」(鹿児島県立図書館蔵)の中で、系図の誤記や隠喩について書いているので、そこ踏まえて本を書いていると思ったのですが・・・。まあ、勝田孫弥の「大久保利通伝」でも、大久保利建の死亡地を沖永良部島と間違えたり(本当は奄美大島。『奄美資料集成』参照)しているので、やはり1冊に頼るのは間違いということで、勉強になりました。「さつまの姓氏」の間違い探しも案外いいかもしれません。--220.111.240.206 2008年2月4日 (月) 09:33 (UTC)立山源次郎[返信]

 「天正年間に兄の重治とともに東郷氏嫡家17代目東郷重虎の許可をもらい、東郷氏に複姓した。」とか書いた張本人ですが、たしか、「瀬戸口籐兵衛」とか、「瀬戸口肥前」とかの名前で載っていたのは、たしか、慶長の役のときの資料だったと思いますが、そこらへんはどお、思います?。--220.111.240.207 2008年2月9日 (土) 07:54 (UTC)中村次郎[返信]

東郷重位は朝鮮出兵には従軍してませんよ。ただ、同時期、島津歳久自害後にその遺臣が祁答院に立て篭もったとき、島津義久の使者として「瀬戸口藤兵衛尉」が祁答院に行ってるらしいんですよね(村山輝志「示現流」の付冊より)。でも史料では確かに天正年間に改姓となってます。しばらく瀬戸口も使っていたのか、実は改姓はもっと後だったのか。良く分かりません。--盛風力 2008年2月9日 (土) 13:03 (UTC)[返信]

 ああ、やはり、記憶違いでしたか......。そんな気がしていましたんで、本文に書かなかったんですがね。--60.38.255.134 2008年2月11日 (月) 09:17 (UTC)中村次郎[返信]

「示現流聞書喫緊録略系図」の記述[編集]

「示現流聞書喫緊録略系図」にて東郷重位の父が他史料では兄である重治になっている件ですが、これは「示現流聞書喫緊録略系図」のみが伝える異説であり、研究者の著書や論文ではこの説を採っているものは皆無です。Wikipedia上でもあくまでも異説であることを明記するか、あえて記述しないほうがよいと思うのですが、いかがでしょうか。今の記述では両説が並立している印象を受けます。なお、重治の子孫は別途続いています。--盛風力 2008年3月2日 (日) 10:31 (UTC)[返信]

 わかっているでしょうが、「示現流聞書喫緊録略系図」では、重治次男が、長男家の瀬戸口家を継いで、東郷重位となったとあり、重治の子孫家十左衛門家とはなんら関係ねえですよ?ぶっちゃげいうと、「「国分郷土誌 資料編」の「慶長10年 国分衆中」に、「東郷藤兵衛尉 、子 肥前、その子藤兵衛」というのと、「東郷安房入道 子 十左衛門、その子十左衛門」とあり、この藤兵衛を東郷重方とすると変なことになるので、案外、この「示現流聞書喫緊録略系図」説はまんざらでもないんですがね・・・。それとは関係なく、あくまで「異説」として載せたにすぎません。こういう説もあるということ載せるべきでしょうし、「本藩人物誌と東郷支族系図ではこういっているが、示現流聞書喫緊録略系図ではああいっている」程度で載せたにすぎません。「研究者の著書や論文ではこの説を採っているものは皆無です」だからといって削除するのではなく、「示現流聞書喫緊録略系図ではこういっているが、研究者は相手にしていない」と載せるほうが、百科事典としての意味があります。もっとも、こずるく、ここで言わずに自分の論文で発表したほうが賢明なんだろうけどね。  ああ、そうそう。東郷十左衛門家の系図って、何処あっかしりません?--220.111.240.207 2008年3月3日 (月) 08:11 (UTC)中村次郎[返信]

言葉遣いに気をつけてください。ウィキケットに反しています。「本藩人物誌と東郷支族系図ではこういっているが、示現流聞書喫緊録略系図ではああいっている」とも「示現流聞書喫緊録略系図ではこういっているが、研究者は相手にしていない」とも取れない記述だったのでコメントしたのですけどね。私の上記コメントの後でボールドを外してるではないですか。と、書いていて実は私も意見が豹変してまして(スイマセン)、「示現流聞書喫緊録略系図」の説も捨てたものではない気がしてます。重位が三男にも関わらず父の通称の藤兵衛を継いでいる理由が気になっていて、もしかしたらヒントがここにあるのかもしれません。とはいえ、「喫緊録」の重位以前の記述は明らかな間違いもあり精度が微妙でもあります。作者の久保之英は主に東郷位照と薬丸兼慶に取材して書いたらしいですが、位照は廃嫡されて家を出ていたので家の古文書を参照できたか怪しいですし、そもそも東郷実満が火事になったときにこの辺の文書が焼けてしまってるのかもしれません。十左衛門家の系図はまだ見たことがありません。ちなみに薩摩藩士の系図の江戸期以前は途切れていたり無理矢理こじつけているものがざらで、あまり信用できないと思います。東郷家系図も元々は東郷実乙のときに藩の史官が作成したもののようで、重位以前が不明確なのはさもありなんといった感じです。--盛風力 2008年3月3日 (月) 13:47 (UTC)[返信]

 


   久しぶりにログインして見れば、インフルエンザがぶり返しそうな事になっていますね・・・。中村君、人が病気に苦しんでいる隙に地を出して根拠の弱い反論しないでくださいよ。ただでさえ、中村君と同一人物だと思われているのに(実は相当不愉快なのですが)、これじゃ私が無礼な人と思われれてしまうでしょうに(怒)。もう少し言葉遣いに気を付けてください。私事はここまでとして、実はこの「示現流聞書喫緊録略系図」の説を持ち出したのは私でして(だから中村君については無視してください。私が選んだ文献でログインしている人ですから)、改めて自分の書いたのを見て、今回の自分の書き方や資料がまずかったと反省しております。なお、「慶長10年国分衆中」はどうも後年書き加えられた部分があり、(同資料の「町田縫殿助、子縫殿助、その子右京」と鹿児島県史料集の町田氏系図とを比べれば分かりますが、右京は元和以降の生まれ)「子・・・」以降は注意が必要であります。(故に中村君、「「東郷藤兵衛尉 、子 肥前、その子藤兵衛」を、「重位、重方、重利」と考えていいのですよ)  なお、この「示現流聞書喫緊録略系図」の説の真偽や東郷重位の父については盛風力さんのいうとおりであります。「示現流聞書喫緊録略系図」で東郷重治を「東郷安房守入道休伴」を「東郷十左衛門尉休伴入道」としているところは興味がありますが。(というのも重治を十左衛門尉と呼んでいるのはこの資料だけの上に、「慶長10年国分衆中」の、本当に慶長10年に国分衆中をやっていた可能性が高い武士には「・・・衛門尉」や「・・・兵衛尉」が多く、通称の世襲は結構あるので)  いずれにしても、このサイトに載せるには不適切な表現で記載していましたので、本当に申し訳ありません。個人的には表現を変える必要はあると思いますし、そうしますが削除の必要まではないとは思いますが、後は好きに処してください。あと、中村君、今度から投稿するときはこっちに相談してくださいね。(怒)--220.111.240.207 2008年3月14日 (金) 09:29 (UTC)立山源次郎[返信]