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ノート:新潟大学

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学内写真及び大学近辺写真提供のお願い

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本記事では、大学に関わる写真の掲載が皆無です。百科事典という特性上、多くの方に目で見ることが出来る資料として、写真の掲載に協力していただけるようお願いします。

手順

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Wikipedia:編集の仕方参照。ウィキメディアコモンズにアップロードすると、今後の使用上便利です。

「著名な出身者」の分割の提案

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Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学への準拠の準備と記事の冗長化の解消のために、「著名な出身者」の項目の内容を「新潟大学の人物一覧」へ分割することを提案します。

異議がありませんでしたので、分割を実行しました。--Luna plena 2006年9月23日 (土) 09:26 (UTC)[返信]

「新潟大学の人物一覧」で、「出身」に山内志朗教授の名前がありましたが、山内教授は学生時代は学部・大学院とも東大であり、新潟大学の「出身」ではありません。「出身」と「在任者」はきちんと分けて記述すべきでしょう。2007年1月10日 drei Buchten

すみませんでした。私の間違いです。分離した形に修正しました。--Luna plena 2007年1月10日 (水) 07:24 (UTC)[返信]

 山内志朗教授は2007年4月から慶應義塾大学文学部教授となりましたので、消去しました。2007年4月6日 drei Buchten

創立年について

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創立年の欄に1870年とありますが、その根拠はなんでしょうか。(私自身、創立年を記入しようと思ったのですが、公式の根拠が見つからずにいたもので)--Luna plena 2006年9月26日 (火) 17:40 (UTC)[返信]

私も疑問に思いました。新潟大学のサイトにある沿革表ではこのようになっています。この表を参考にすると、この記事では共立病院の設立年を創立年にしているようですね。当時は、病院に附属する学舎が医学教育機関になっている例が他都市で見られますが、新潟のこの病院にもそのような教育機関があったのでしょうか? 教育機関が附属していない場合は、新潟師範学校の創立年(明治7年2月)を新潟大学の創立年にした方が良いと思います。
「教育機関」という観点ではなく、何かしら関係のある機関や団体の最も古い創立年をその大学の創立年としている例や、「教育機関」の断絶が10年以上あっても再興されれば大目に見ている例が他の大学の記事でも見られます。創立年の定義は今のところ曖昧ですが、当該大学の関係者以外が見ても納得出来る根拠が必要だと思います。もね~るmoner 2006年12月30日 (土) 19:53 (UTC)[返信]

神戸大学の例もありますが、全国の地方国立大学に必ずある教育学部の前身である師範学校はもともと県立の中等教育機関として発足していますので、その創立をもってそのまま大学全体の創立年次とするのは無理があります。(初期の師範学校は速成コースの場合たった4ヶ月の履修年限しかなく、せいぜい旧制中学と同格とされた時代が大正期まで続いています)神戸大学の場合は、看板学部である経済学部の前身、旧制官立神戸高等商業学校の創立年である1902年をもって全学の創立年と考えているようです。 新潟大学の場合、看板学部は旧制の官立大学であった医学部というのは周知の事実ですし、地方の病院が医学校を持っていてそれが政府の方針(医学校経費の地方税使用禁止)で廃止され、のちに官立の医学校として復興したというのはあちこちの国立大学であります。医師の養成は高等教育機関が行うことについては異論はないでしょうから、医学校の起源をもって創立年とすることで新潟大学の場合もそれでいいのではないでしょうか。 (Asamamaru)2007年1月8日 (月) 0:08 (UTC)

(県のHPより引用)  明治9年、新潟町医学町の新潟病院は県立移管され、翌10年、「新潟病院医学所規則」が制定された。これにより、新潟病院教場と称して漠然としていた医学教育の場が新潟病院医学所と公称された。同医学所の修業課程は正則生が6か年、変則生が3か年となっていた。同12年、県立新潟病院医学所は県立新潟医学校と改称され、生徒定員は150名とされた。なお、病院は医学校の附属施設となった。  文部省は明治15年に布達した「医学校通則」で医学校を修業年限や学科により甲乙2種に分けた。県立新潟医学校は当初、乙種医学校とされたが、教授陣と医科器械の充実を図ったうえで、同16年に甲種医学校に昇格した。同17年に改正された「県立新潟医学校規則」では修業年限が5か年半となり、生徒定員はおよそ200名であった。ところが、同20年の勅令第48号で府県立医学校費用の地方税支弁が禁止とされ、同21年、新潟医学所開設以来99名の卒業生を送り出した甲種新潟医学校は廃止のやむなきに至った。附属病院は新潟区立となった。以後、本県の医学教育は大きな空白期を迎えた。

Asamamaruさんの説明で、医学校の起源を創立年とするのが自然であるということは分かりましたが、「創立年」は基本的には大学が制定するものではないのでしょうか。公式の根拠がないのなら、空欄にするか不明とするのが適切な気がします。ただ、その場合、Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学の合意項目との整合性が問題になりそうですね。ちなみに、Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)には創立年に関する同様の問題についての議論がなされていますが、周年史を根拠にするという提案がなされています。しかし、新潟大学の付属図書館のOPACで検索してみましたが新潟大額に関してはこのような文献が見つかりませんでした。--Luna plena 2007年1月9日 (火) 08:41 (UTC)[返信]

合意事項に合わせました

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一部見落としもあるかもしれませんが、合意に合わない内容などをコメントアウト・削除しました。また記載方法や位置も修正しました。--秋の虹 2006年9月30日 (土) 07:25 (UTC)[返信]

修正ありがとうございました。テンプレートへの準拠作業は私がやりだしたことであり、不勉強と不注意ゆえに多くの不備があったことをお詫び申し上げます。ところで、今回コメントアウトされた「歴史的な実績」の項目に関してですが、荻野久作氏についてはオギノ式の知名度が関係者以外にも高いので、その部分の記述を残してもいいと思うのですが、どうでしょうか?--Luna plena 2006年9月30日 (土) 12:03 (UTC)[返信]
どの記述も研究節の中で説明が可能だと思うのですが、それぞれ関係者以外には理解できない以下のような理由があるのでコメントアウトにしました。
  • 新潟大学プロジェクトは、どのような背景のあるプロジェクトでそれと他大学は関係しているのか、あるいは文部科学省などの何か補助金が出ているのか、などの説明がないためコメントアウトをしています。まずプロジェクト自体の説明を実施した上でその中でこのような研究があるとリストを提示するのがよいと思います。
  • 主な研究実績は、これをやった、ということしか出ていないので関係者以外には不明です。それぞれの研究が新潟大学で実施されることになった背景や研究をした結果どのようなことが判ったのか、さらには社会どのような影響があったのか、まで書いて頂ければいかせると思います。
  • 歴史的な実績は、一文でまとまってしまっているために帰って判らなくなってしまったような気がします。それぞれの内容に関して人物伝で書けばよいことを最小限にしつつ、背景や新潟大学がその研究とどのように関わったのか、場所の提供だけに留まらない何かがあったと思いますので、それらを書いて頂ければ完璧だと思います。
なお、それぞれを書かれる場合には出来るだけ参考文献を明示してください。よろしくお願い致します。--秋の虹 2006年10月1日 (日) 06:47 (UTC)[返信]

人文・社会科学系の大学院について

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新潟大学の人文および社会科学系の大学院は、2004年度より現代社会文化研究科(博士前期課程・後期課程)に包括されたのではないのですか?公式HPの大学院一覧の項で、人文科学研究科等の表記を確認することができますが、それはあくまで、組織の改組以前に入学された方が上記の研究科等の所属になっているから等の理由であって、実際の人文科学研究科等の組織自体は存在していないのではないかと思われます。この認識が間違いであるのならば、どなたかご指摘くださるとありがたいです。 余談ですが、秋の虹さんがWikipedia:ウィキプロジェクト 大学をずっとリードされてきたことはわかるのですが、秋の虹さんの記事の修正等のやり方は、少し一方的過ぎるのではないかと思われます。私は決して、いたずらで人文科学研究科等の記述を削除したのではありません。いくら秋の虹さんと言えども、まずは他の編集者の方などと話をしたり、公の情報等から根拠やソース等を確認していただきたい、と考えます。--124.96.84.189 2006年11月18日 (土) 07:50 (UTC)[返信]

公の情報等から根拠やソース等を確認するべく公式サイトを見てみたところ、公式サイトにはきちんと存在しておりました。さらに消去にあたって今回なされたような説明が全くないのでいたずらと考えました。理由の説明無く公式サイトに書いてある組織が消去されれば当然のことながらいたずらと判断するのが真っ当であり、一方的でもなんでもありません。
もし関係者ならではの何か情報があるのでしたら消す前に本文へ記載するとともにノートか本文コメントアウトでソースを提示しておいて下さい。Wikipedia:検証可能性を満たすだけのソース提示がなされず、公式サイトにも載っている情報を突然理由無くIPユーザが消したらいたずらであるという判断をするのは正当であると私は考えますので今後変更する予定はありません。あしからずご了承下さい。--秋の虹 2006年11月18日 (土) 08:28 (UTC)[返信]
本当にちゃんとご覧になられましたか?学部・研究科一覧だけではなく、人文学部、人文科学研究科、および現代社会文化研究科のリンク先の内容までちゃんとご覧になられましたか?各リンク先の内容(論文一覧の年度や、授与学位、学部からの進学先、研究科の入学についての内容等など)を確認していただければ、いちいち根拠等を示すまでも無いのではないかと思うのですが。
付け加えて、いたずらであるか、そうでないかは、その編集の内容に拠る部分が大きくあると思われます。その編集の内容が真であれば、決していたずらであるとは思わないのですが。あくまで、私がそう“思う”だけで、秋の虹さんは、違うように“考えて”おられるようなので、どうこう言っても仕方ありませんが、己がルールであるかのような印象を他者に与えかねない文章表現はなるべく控えていただきたく思います。私個人についてのことしか述べることができませんが、少し不快な印象を受けます。--124.96.84.189 2006年11月18日 (土) 16:45 (UTC)[返信]
ノートで根拠を述べるというのは私の自己満足ではなくてWikipediaの公式ルールですのでご確認下さいませ。私を中傷なさるのは結構ですが、新潟大学の関係者にとっては自明であっても第三者には根拠となるソースがなければ判断のしようがございません。サイトの各所でそのような差違があるということでしたら公式リリースなどをご呈示頂ければ話は簡単なわけです。Wikipedia:説明責任などの問題を持ち出すまでもなく、御貴殿はIPユーザであることをご理解頂いた上でWikipedia:検証可能性をみたし、さらにプロジェクトの合意を尊重したソースの提示に御協力下さい。なにかニュースリリースなどはどこかにないのでしょうか。--秋の虹 2006年11月18日 (土) 17:10 (UTC)[返信]

横から失礼します。まず編集の態度云々については私からは何も申しあげません。次に事実について申しあげますと、2004年4月より人文科学研究科等が現代社会文化研究科の前期課程となる形で改組されたのは、124.96.84.189さんの仰るとおりで、こちらの「3.研究科の施策」の(1)の[4]、こちらの「大学院現代社会文化研究科の改組」をご覧いただければわかると思います。さてここでこの例に限らず問題となるのは、学校組織の改組には「学年進行」の問題が必ずつきまとうことです。例えば新潟大学の例では、2004年以前に入学した旧研究科の学生が在籍している限りは旧組織も存続しており、規定も残っていますしカリキュラムの提供なども行われています。すなわち実体があるわけですから公式サイトなどにも載せられ続けることがあるわけです。しかし新規募集をしていないのですから、第三者、とくに入学を検討している者にとっては存在しないのも同然であると言うことも出来ます。こうした経過措置の間については、その旨注記して記載するのが百科事典利用者にも親切なあり方であると思われますが、大学の改組は今後もしばしば行われますので煩雑であるということもあるでしょう。この辺をプロジェクトなどで議論することも必要ではないかと感じた次第です。もしすでに合意などがあるようでしたら失礼します。--Kwappa 2006年11月19日 (日) 07:58 (UTC)[返信]

ソースのご呈示をありがとうございます。参考にして本文を改定しておきます。また、何かプロジェクトとして決定しておくべき事柄があるとお考えでしたら、プロジェクトのノートまでお願い致します。今後ともよろしくお願い致します。--秋の虹 2006年11月19日 (日) 09:09 (UTC)[返信]

北陸帝大構想の記述について

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北陸帝大構想の記述についてなのですが、確か私の記憶では北陸帝大構想が存在していたのは事実ですが、その際の母体となる大学として指名されていたのは、新潟医大ではなく、金沢医大だったように記憶しています。状況から考えても、近隣に第四高等学校を擁していた金沢の方が、帝大誘致において有利だったでしょうし。ただ、正確な記憶ではないので、私個人では断定できません。どなたか、詳しい方で、情報提供お願いします。並びに、その際、情報提供、及び議論の後、結論によっては、この新潟大のページにおける「北陸帝大」の記述を削除させていただこうと考えています。--Selbst 2007年2月11日 (日) 07:45 (UTC)[返信]

下記のページによると、新潟県でも金沢と同様の活動があったようです。

http://www.pref.niigata.jp/kyoiku/soumu/soumuka/kouhou/tyouki/29sinsei.htm --Luna plena 2007年2月11日 (日) 13:25 (UTC)[返信]

ソースの提示ありがとうございます。確認できました。--Selbst 2007年2月11日 (日) 14:33 (UTC)[返信]

金沢大学のサイトを読むと、金沢の方が有利だったのかな...と思ってしまいます。確かに、金沢は江戸時代には三都(江戸・大坂・京)に次ぐ第4位の大都市、明治以降も新潟市より人口が多く、新潟市が金沢市を人口で抜いたのは1960年の国勢調査の時(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位)が初めてですし...。
一方、新潟は開港5港の1つで、鉄道開通後は東京の日本海側の外港としても機能し、証券取引所も設置された商業都市。明治21年の新潟県は、日本最大の人口を擁していたし(→都道府県の人口一覧#1888年(明治21年))、新潟県1県の工業生産額(1940年)は、東北帝国大学がある宮城県をはるかに超え、南東北3県合計とほぼ同じであるなど、帝大の設立に必要な資本力については新潟も侮れないと思います。
長年、大都市として影響力が広域に及んでいた金沢と、新興商業都市で資本蓄積が進んだ新潟と、どちらかがずうっと有利だったというよりは、どちらかに決めかねるほどだったのではないかと思います。結果的に帝大誘致には至らなかったので、あまり議論の意味ないのかも知れませんけど...。一応、「北陸帝国大学」の記載については、新潟大学の本文では「金沢医大でも同様の動きがあった」、金沢大学の方でも「新潟医大でも同様の動きがあった」などと書くのが、経緯を知らない読者のためにもバランスがいいのではないかと思います。 もね~るmoner 2007年8月13日 (月) 06:45 (UTC)[返信]

同棲に関する噂について

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単なる噂は大学の記事には不要と考えます。削除しようと思うのですが、いかがでしょうか。--Luna plena 2008年5月12日 (月) 14:58 (UTC)[返信]

削除しました。--Luna plena 2008年6月7日 (土) 15:10 (UTC)[返信]

画像提供依頼

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2006年9月23日 (土) 12:03 UTC に画像提供依頼が出されましたが、現在の版では既に画像が追加されています。画像提供依頼を外してよいと思うのですが、いかがでしょうか。-- Asanagi 2012年2月6日 (月) 10:55 (UTC)[返信]