ノート:戦国時代 (日本)

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滑稽!!応仁の乱から、戦国時代という用語が生まれたのに。[編集]

戦国時代(=応仁の乱)は、明応の政変からですか??????????

室町幕府の存在が要件なら、戦国時代は存在しないことになりますね。信長が足利義昭追放するまで、幕府ありますから。

大辞泉・大辞林も、応仁の乱になってますけど。

あなた、各地の城の築城年代調べたことありますか?????????????

応仁の乱以前に、戦国の城は出来ていますよ。

島の四国や僻地の東北は、戦国時代の到来が遅かったです。が、関東・東海・北陸・中国なんかは、早くから戦国に突入していますね。--オタスケマン 2007年3月24日 (土) 03:49 (UTC)[返信]

あのさ、『平凡社大百科事典』の室町幕府の項目じゃ、1333年もしくは1336年から1493年(明応の政変)までを室町時代とする説が有力であると書いているけどね。無論1477年や 1467年を室町時代末年とする説も紹介しているけど、明応の政変を時代の画期とすることが、あながち全否定するほど荒唐無稽ということは無いんでないの。[1]にアクセスして、自分の眼でみてくれや。自己限定を試みながらコメント書かないと、恥かくよ。じゃあ。--210.132.219.125 2007年3月24日 (土) 17:06 (UTC)[返信]
エンカルタでは1467年を主に、1491年・1493年を併記してますね。いずれにせよ「トンデモ」ではないのは明らかでしょう。
「室町幕府の存在が要件」などとは誰も言ってません。「室町幕府が中央政権として機能し得たか」です。
それと辞書の類は典拠にはなりませんよ。編集者は国語学者であって歴史学者ではありませんから。またウィキペディアは事典であって辞書ではないのですから異説(トンデモ説で無ければ)を書かないのは正しくありません。らりた 2007年3月25日 (日) 01:49 (UTC)[返信]

NHK大河 花の乱 現在時代劇専門CHで放映中 戦国時代突入の序曲、応仁の乱を描いたドラマです。学研の歴史群像シリーズにも記載あり。人口に膾炙しているのは明らか。

明応の政変は、辞書に記載すらなく、当然ドラマもない。

最近の学説(異説)によって、覆るような時代区分ではない。--オタスケマン 2007年3月25日 (日) 10:49 (UTC)[返信]

いちいち新しい節を立てないで下さい。それにしても・・・歴史群像シリーズも大概ですが・・・、何でドラマを出してくるのか、理解に苦しむ・・・。普通に考えて、学説がどういう状態にあるかが主であり、それを反映しているのがドラマとか群像シリーズとかだと思うのですが。らりた 2007年3月25日 (日) 11:54 (UTC)[返信]

↑間違っていますね。平凡社大百科事典の文章はこうです。

通常,応仁の乱の始まった 1467 年 (応仁 1) から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した 1568 年 (永禄 11) までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。

最近の有力な学説というのは、この異説のことです。

ウィキでは、編集者の主観により、異説が主流として振舞う民意を扇動する手段と化しているわけですね。--オタスケマン 2007年3月25日 (日) 12:21 (UTC)[返信]

コメントは最後に付けるようにお願いします。平凡社『世界大百科事典』「室町時代」の項では
>次に狭義には,1392 年 (元中 9 ∥明徳 3) の南北朝合一以降, 1493 年 (明応 2) の明応の政変までを室町時代とし,以前を南北朝時代,以後を戦国時代として,広義の室町時代を 3 分割する見解がある。しかし室町幕府が 1336 年 (延元 1 ∥建武 3) にはじまるというのは今日学界の通説であり,途中幾度かの紛擾があったとはいえ,ほぼ全国的政権として存在したことは否定すべくもないから,建武政府をも含めて 1333 年より 1493 年までを室町時代として,南北朝の対立を相対的に低く見る理解も有力である。この場合は中世後期を室町・戦国の両時代に分けることになる。なお,終期の 1493 年を応仁・文明の乱が勃発する 1467 年 (応仁 1),あるいは同乱の収束する 1477 年 (文明 9) に繰り上げる見方もある。
と「応仁の乱の方を異説」としています。らりた 2007年3月25日 (日) 12:54 (UTC)[返信]

平凡社のマイペディアでは、戦国時代は、

通常,応仁の乱の始まった 1467 年 (応仁 1) から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した 1568 年 (永禄 11) までをさす。

しかしこれには始期・終期ともに異説がある。

すなわち始期については伊勢長氏 (北条早雲) が伊豆堀越公方足利茶々丸を追った 1491 年 (延徳 3) とする意見があり,

最近の異説として紹介されています。

エンカルタ総合大百科MSNPremium 戦国期 I プロローグ

室町時代の後期にあたり、応仁の乱がおこった1467年(応仁元)から、織田信長が15代将軍足利義昭を追放した1573年(天正元)にいたる約1世紀をいう。戦国大名が各地で戦闘をくりひろげた日本史上もっともはげしい戦乱の時代で、近世への移行期として大きな歴史的転換期だったため、時代区分として戦国時代ということも多い。

始期については北条早雲が堀越公方をほろぼした1491年(延徳3)とする説、細川政元が10代将軍義稙(よしたね)を追放した93年(明応2)とする説などがあり、終期についても信長が義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11)とする説、信長が近江(おうみ)の安土城へうつった76年(天正4)とする説などがある。

エンカルタでも、応仁の乱です。

ネットのサイトで検索してもらえれば、原文を読めます。--オタスケマン 2007年3月28日 (水) 13:16 (UTC)[返信]

>人の話をちゃんと聞いてください。他の百科事典でも1493年説をきちんと併記しています。それをウィキペディアに載せてはならないとするのはどういう理由によるものかを問うています。お答えください。
とあなたの会話ページで述べました。繰り返しますが「1493年説をウィキペディアに載せてはならないとするのはどういう理由によるものか」をお答えください。らりた 2007年3月28日 (水) 13:24 (UTC)[返信]
「明応の政変=有力説」を書いたshimoxxです。執筆の意図を少し説明しておきます。中世後期に関する文献をいろいろ読んでおりましたら、室町期の社会政治体制を「幕府 - 守護体制」として理解することが現在通説化してきていることが読み取れました。その上で、同体制は15世紀中期頃から徐々にほころびを見せはじめていたが、明応の政変が画期となって同体制は崩壊し、室町幕府は畿内における地域政権と化していったことについて、永原慶二氏や今谷明氏が主張しておりました。両氏は中世史研究において最も信頼できる研究者の一人であり、さらに両氏と同様の主張を他の研究者の著書でも読むことができました。こうした主張は、1990年代後半から今世紀にかけていよいよ盛んになっているように思われました。
ただ、代表的な戦国史研究者の一人である有光友学氏による概説書(『戦国の地域国家』)を読んでおりますと、明応の政変を有力説とまで言い切るのもどうか、という気がしてまいりました。もっとも、有光氏は、応仁文明の乱がいわゆる通説であることを認めつつも、同乱をもって戦国時代の始期とすることに疑問を投げかけておられます。これは有光氏のみの感慨ではなく、戦国史研究に通底する問題意識であるように感じました(これは類書を幾冊か読んでみての感想です)。
さて、有光氏は応仁文明の乱を戦国時代の始期として無批判に受容すべきでない理由として、応仁文明の乱以前から「幕府 - 守護体制」の崩壊がゆるやかに始まっていたこと、応仁文明の乱が終わっても直ちに戦国大名や大名領国制が出現したわけでないこと、明応の政変をもって「幕府 - 守護体制」が終焉を迎え各地に地域国家が勃興する契機となったこと、を挙げておられます。もちろん、有光氏も「明応の政変が戦国時代の開始時期」とは明言していません。ですので、本項本文には、いくつかの事件が積み重なって戦国時代にいたる状況が段階的に現出したことや、応仁文明の乱の(戦国時代につながるという意味での)歴史的意義、最近では明応の政変が「幕府 - 守護体制」崩壊の最大画期となったと考えられていること等について、記述すればよいのではないかと思い直しております。
あとは余談のことです。議論の際は、研究者が書いた論文・文献をもとに議論すべきなのであってですね、「あの百科事典(辞書)にはこう書いてあった」などと二次三次資料に過ぎない国語辞書や百科事典を議論根拠として挙げるのはもうやめませんか?百科事典だって、近年の研究成果をちゃんと反映しているわけじゃありませんし。折角ですから「戦国始期を応仁文明の乱に求めている研究者には、○○や△△や◇◇などがおり、その根拠としてシカジカを挙げているよ」とか「○○氏の『△△』という論文では『明応の政変はシカジカの理由により戦国始期とはいえない』ことが述べられているね」とか、せめてそのレベルでの議論をしましょうよ。いやしくも我々は百科事典の執筆者なのです。志を高く持っていきたいものです。(長文すいませんでしたね)--shimoxx 2007年3月29日 (木) 15:25 (UTC)[返信]
私個人としては、1493年説です(これには従来、1491年とされてきた北条早雲の伊豆侵攻が古文書などによって1493年に訂正されたことも含みます)が、もう一つの説として「国史大事典」が採用している享徳の乱の始期である「1454年説」(同書ではそう書かれているが、発端である上杉憲忠誅殺事件は西暦換算では翌年なのですが)も併せて記述すべきではないかと思います。この乱は中央から遠いこともあり、長年等閑視されてきましたが、近年では北条早雲よりも40年も前に30年近くにわたって関東に室町体制に属しない古河公方による事実上の独立政権が出来ていた点などの再評価が行われています。今後の研究によってはこちらも無視は出来なくなると考えます。
まず、何をおいても合意を重視するウィキペディアにおいて持論のみが正当であると主張して論争になっている(しかもこの件については過去ログにも全く同様の論争について記されている)のを承知で編集を強行する事は、明らかにウィキペディアの精神に反していますし、コミュニティに対して過度の負担と疲弊を与える荒らし行為に準じるものと考えます。
ちなみに「戦国時代」という言葉は江戸時代以後に『戦国時代 (中国)』になぞらえて出来た言葉じゃなかったかと思うのですが……。--水野白楓 2007年3月31日 (土) 09:21 (UTC)[返信]

shimoxxさんや水野白楓さんが仰るように、戦国時代の開始時期に諸説があるのは理解します。
今回の問題は先行研究の整理及び参考文献明記がないための編集合戦に陥っていると思われます。論文を書く際の基本として、先行研究とその簡単な内容を記します(それに節を裂くのも普通です。そうしないと論文執筆者は過去の学説や先行研究も全く知らないで適当に自分の意見を書いているとしか思われませんから。例えば今回の場合、通説は応仁の乱より始まる。また以下のような学説も有力となってきていると交通整理するのです。今回の場合は、有光(****)『戦国の地域国家』(****には年代が入ります、何年か分からないのですみません))には「AAA」と、また、某(****)論文「BBBについて」『CCCC』など。)
第二次世界大戦の記事をご覧下さい。あの記事は秀逸な記事の選考に掛ける為に、検証可能性の観点から概略書、自叙伝などから色々と持ってきているのです。
当面保護されている状態になっているのですから、各位、ノートで学説を整理してみては如何でしょうか?。--Wushi 2007年3月31日 (土) 11:43 (UTC)[返信]

私自身は日本史に関しては素人ですから意見を持ちません。オタスケマンさんに対して「他の百科事典で紹介されるくらいに一般的になっている説であるのにウィキペディアに載せてはいけないというのは何故なのか」を問うていたのですが、未だにお返事は無いようですね。私には学説を提示できるほどの知識がありませんのでとりあえずネット上にあったものをソースにしたのですが、余計に混乱させたようで申し訳ありません。らりた 2007年3月31日 (土) 12:55 (UTC)[返信]
Wushiさんのご指摘は誠に耳の痛い限りです。せっかくの機会ですので、適切な典拠をあらためて調査してみようと思います。--shimoxx 2007年4月8日 (日) 17:54 (UTC)[返信]

戦国時代という時代区分は、幕府や朝廷に基づくものではない[編集]

そのため、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、大和朝廷の律令制、平安貴族の藤原氏、南朝廷・北朝廷、建武政権などとは違う。

応仁の乱前後を境にして、下克上、群雄割拠が起きて、中央政権の地方統治が不能になった約1世紀を言う。

百姓のもちたる国(加賀)、関東の動乱(北条)、東海の天下統一の動き、山陽山陰の山名没落・大内・尼子・毛利。

はっきり言えるのは、応仁の乱~信長入京という戦国時代の定義が、確立し、人口に膾炙した後に、これを快く思わない学者が、別の戦国時代の定義・区分を持ち出した。

要は、戦国時代(通説)、戦国時代(通説の反論)という2つの尺度(ものさし)が、存在するということ。

学者にとっては、完成された素材には研究価値がないために、異説、新説、珍説を絶えず唱えたがる風潮がある。

昔は、戦国時代のスターというと、東北と畿内は、無視されていた。

1987年のNHK大河の独眼竜政宗で、東北評価が激変。(いわば過大評価)

さらに、畿内は、信長入京以前に、政権が確立していたと唱える学者がおり、三好氏の堺幕府のことである。 三好は、信長にあっという間に潰されて、たいした武力も保有していなかったため、信長などの戦国大名と同等にみなせない。細川氏の延長に位置づけられていた。(堺幕府も造語であり、過大評価)

いわば、畿内の空白状態に、目を付けて、最近になって唱えたものであろう。

そうなると、戦国時代という用語とは異なる時代区分を定義提唱するべきだったのが、戦国時代の新発見みたいな学説になってることが、混乱の原因。--オタスケマン 2007年3月31日 (土) 16:16 (UTC)[返信]

あと、戦国時代というのは、室町と織豊の中間に位置するものではなく、室町と並行する時代区分なんですよ。 南北朝も同じです。室町幕府滅亡までが、室町時代です。

安土桃山時代って、いう表現も直接的ではないので、織田豊臣の略の織豊時代にすべき。 信長入京からずいぶん後ですからね、安土城築城は。伏見桃山ってのも、天王山直後のことを考えると。--オタスケマン 2007年3月31日 (土) 16:25 (UTC)[返信]

(コメント)快く思わない学者・・・のくだりがありますがそれを整理してください。私のコメントに対する回答になっておりません。--Wushi 2007年4月1日 (日) 14:50 (UTC)[返信]
結局のところ、オタスケマンさんのご執筆内容やご主張は、独自の研究であり、検証可能性を満たさないもののように思えます。ここウィキペディアは、執筆者本人の主張や考えを書く場じゃーございません。適切な文献や論文を典拠として、知の集積を行っていく百科事典です。オタスケマンさんのご執筆・ご主張の論拠となっている文献・論文をお示しくださいまし。--shimoxx 2007年4月8日 (日) 17:54 (UTC)[返信]

戦国時代の開始時期の整理についてのお願い[編集]

オタスケマン氏は無期限ブロックとなりました。議論すら成り立たなかったのは残念ですが、仕方ありません。これより下のほうに、戦国時代の開始時期について整理しましょう。いずれは本文の節立ての補強へともっていきましょう。今谷明教授の本(『戦国三好一族』(ISBN 978-4862481351)が洋泉社より復刊しております。少しは補強になるかなと思います。参考までにお願いします。--Wushi 2007年4月14日 (土) 11:59 (UTC)[返信]

私は、勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』(岩波書店・ISBN 978-400002997-1)と永原慶二氏の『戦国期の政治経済構造』(岩波書店・ISBN 978-4000236010)を読んでみたのですが、両氏とも共通していたのは戦国時代の始期を特定の年代として捉えず、「応仁の乱から明応の政変」までという考え方で論旨を進められておられました(永原氏は享徳の乱もその前兆として評価されています)。つまり、「何年から戦国時代か?」と問われた場合、応仁の乱の1467年(「始まり」の始まり)も明応の政変の1493年(「始まり」の終わり)も間違いではないということのようです。--水野白楓 2007年5月20日 (日) 04:35 (UTC)[返信]
どうも、始めましてです。私も日本史は詳しくないのですが、参考資料が手元にありましたのでお手伝いを。以下の文章のうち【】は引用部分、《》は私の処理部分です。
桑田忠親氏監修の『戦国史事典』(秋田書店・ISBN4-253-00284-6)の「序に代えて」には、広い意味の戦国時代は【広い意味の大乱が始まった室町中期の応仁元年(1467)から】、狭い意味では【伊勢長氏(北条早雲)が《中略》自立して戦国大名に成り上がった延徳三年(1491)から】と書かれています。本の発行が昭和55年なので、データとしては古いかもしれません(特に北条早雲のところ)が、ここでは本の記述をそのまま書きました。
なお、区分方法としては北条早雲が小田原城を乗っ取った明応四年(1495)からとする区分方法もある、ということを同文の中で併記されています。その上で桑田氏は1467年と1491年をそれぞれ広義・狭義の戦国時代の開始年とされているようです。
蛇足ながら、この文の中で桑田氏は、日本の戦国時代という時代区分を、古代中国の春秋戦国時代になぞらえた俗称で、この時代に似つかわしく親しみやすいから愛用されているに過ぎない、との見解を述べられておられます。私も同意見で、京都での戦国時代の始まりと地方での戦国時代の始まりは異なっていてもおかしくないのではないでしょうか。特定の1年に断定せず、各論併記でもよいように思われます。--羽奈瀬蓮 2007年7月21日 (土) 10:21 (UTC)[返信]
私も水野氏の意見に賛成ですね。応仁の乱から明応の政変、それと伊勢長氏の足利茶々丸討伐あたりまでの間に、日本全国が戦乱の時代に突入していったと考えます。戦国時代の終わりも、信長の入京から関ヶ原の戦いまで、あるいは大坂夏の陣まで幅広く解釈する意見もありますし。--122.22.7.98 2007年7月14日 (土) 07:02 (UTC)[返信]

オタスケマン氏のブロック後、保護も解除されてある程度の合意が形成されたと私は考えております。そろそろこの議論を正式にクローズして過去ログにしても良いのではと思われるのですが、いかがでしょうか? なお、その際に戦国時代の始期と終期に関する議論についてはすでに過去ログで行われたこと、今後これに関する新たな議論を行う際にはここで合意を得てから編集することを盛り込んでいただければ、幸いであると考えておりますがいかがでしょうか?--水野白楓 2008年5月25日 (日) 06:29 (UTC)[返信]

戦国時代は室町幕府崩壊と共に終わったとは思えない[編集]

テレビは(殊に学術分野においては)百科事典編集の参考資料たり得ません。それは兎も角、大の役までとする説は戦国史愛好家によく見られますが、私は不勉強なせいか、1573年説、1576年説、1590年説しか学術書では見かけたことがありません。また、北東北史では通常 九戸政実の乱(1591年)までを戦国時代と呼んでいます。Wikipedia:ウィキプロジェクト 日本の戦国時代では「関ヶ原の戦いころまで」と曖昧にしていますが明確に「歴史学における戦国史及び安土桃山時代一般がその主な範囲です」としていますね。上の節に続いて終期の表現についても話し合いを持ってもいいかもしれません。--ろう(Law soma) D C 2009年10月30日 (金) 03:02 (UTC)[返信]

ウィキプロジェクトにおける戦国時代範囲に関する議論[編集]

プロジェクト:日本の戦国時代立ち上げ人の蚯蚓です。
もう9年前になるようですが、こちらのページで始期と終期に関する議論(?)があったようですが、気づいておりませんでした。申し訳ございません。当時とくに考えもせず、プロジェクトの範囲をあいまいに定義しておりましたが、プロジェクト運営にあたって一定の定義を与える必要があるかと思い、プロジェクト‐ノート:日本の戦国時代にて議論をしようと思っております。「正しい」定義である必要はなく、むしろ自由度の高い広めの定義を与えたいと考えております。ご意見ございましたらノートの議論にご参加ください。--蚯蚓会話2018年2月2日 (金) 10:27 (UTC)[返信]