ノート:慶長豊後地震

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改名提案[編集]

慶長豊後地震への改名を提案します。理由は、

  1. 「慶長豊後地震」の用例が多いこと
  2. 「大分地震」では他の地震との混同が生じるおそれがあること
  3. 慶長伊予地震との表記の統一が図れること

です。

まず、(1)の用例については、インターネット上で報道、学術論文、公的機関での用例を調査したところ、以下に示すように、「慶長豊後地震」の用例が多数見つかった一方、別府湾地震は一例のみで、大分地震については用例を発見できませんでした。以下に具体例を記します。

(2)の混同については、大分地震大分地震被害調査報告のように、1975年の大分県中部地震のことを「大分地震」と呼んでいる例が複数見つかりました。

以上の理由から、この記事の記事名は「慶長豊後地震」がより適切ではないかと考えます。-- おいたんし 2011年10月29日 (土) 00:47 (UTC)[返信]

賛成 実は1960年以前の地震は気象庁によって正式に命名されているわけではなく、研究者が名付けたものが一般化しているわけですが、論文で「慶長豊後地震」の用例が多いならばこの名称が妥当でしょう。その他の大地震と同じく当時の古文書は単に「大地震」としか記されていませんから元々当時に公的に定められた名称は無いようです。--As6022014 2011年11月1日 (火) 08:58 (UTC)[返信]
報告 改名しました。 --おいたんし 2011年11月12日 (土) 00:37 (UTC)[返信]

質問[編集]

本項の地震テンプレートでは、『理科年表 平成20年』が出典となっていますが、『理科年表 平成24年』(地 147、725頁、番号70)では「1596年9月1日(慶長元年 閏7月9日)33.3°N 131.6°E M 7.0 豊後:(後略)」となっており、現在のJAWPで言うところの慶長伊予地震を併せた記述となっています(慶長伏見地震は別の地震として記載されています)。出典と本文の整合が第一なので、今、わたしが独断で記述をいじることはありませんが、閏7月9日:慶長伊予地震、閏7月12日:慶長豊後地震、閏7月13日に慶長伏見地震、というのは、『理科年表 平成24年』は別にして、日本の歴史地震研究としては定説、有力な見解又はコンセンサスの得られている事実なのでしょうか?--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録2013年9月1日 (日) 21:11 (UTC)[返信]

以下の通り、複数の論文等に慶長豊後地震慶長伊予地震とを別の地震として扱う記述がある一方、両者を同一の地震とする文献は見あたりませんでした。
  • 都司嘉宣 歴史上の内陸被害地震の事例研究 東京大学地震研究所
    「しかし本研究の慶長元年(1596)伊予地震(9月1日夜)の詳細を明らかにした成果によって、慶長元年閏九月1日の別府湾瓜生島地震、その4日後の5日に起きた伏見桃山地震(被害域は兵庫須磨、和歌山、淡路島、香川県讃岐一宮におよぶ)の間に起きていて、このわずか正味4日間の間に起きた3個の地震の被害域がほぼ中央構造線の和歌山県・大分県の間をすきまなく埋めていることが明らかとなった。」
  • 堤浩之、岡田篤正、後藤秀昭、松木宏彰 活断層研究, 2000 中央構造線活断層帯川上断層の完新世後期における活動履歴 (PDF) 活断層研究会
    「現存する文献史料に照らし合わせてみて,川上断層の最新活動に対応する可能性の最も高い地震は,慶長元年7月9日(1596年9月1日)の地震である.(中略)これらの被害は,別府湾周辺に多大な被害をもたらした9月4日の慶長豊後地震や近畿に大被害をもたらした9月5日の慶長伏見地震の3~4日前に発生した別な大地震によるものである.」
  • 伊方発電所「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」の改訂に伴う耐震安全性評価結果 8.参考資料 (PDF) 四国電力(出典は、岡田篤正「活断層で発生する大地震の連動・連鎖」)
    「9月1日に最初に川上断層が活動し,次いで9月4日に別府湾内の活断層帯が動いて,豊後地震を引き起こした。さらに,9月5日に六甲・淡路島や有馬-高槻断層帯が活動して,慶長伏見地震を引き起こしたことになる。」
また、このうち1つめの文献では慶長豊後地震の発生日時を9月1日(「閏」が付いていますが、おそらく誤記と思われます。)としています(ただし、後掲の通り、同じ著者で9月4日発生としているものもあります。)。そこで、慶長豊後地震のみに言及している資料もあたってみたところ、以下の通り、発生日を9月4日としているものが大多数でしたが、少数ながら9月1日としているものも見つかりました。
さらに、手元にあった『理科年表 平成25年』を確認してみたところ、1596年9月1日(慶長元年 閏7月9日)の地震には、「豊後」と明記されている上、説明も大分県での被害についてのみであって、伊予(愛媛県)についての記載は見あたりません。
これらを踏まえると、『理科年表』の記事は、慶長豊後地震と慶長伊予地震とを併せて記述したものと考えるよりも、慶長豊後地震のみについて記述したものであって、2つの地震は別のものと考えるのが妥当と思われます。
ただし、そうだとしても、慶長豊後地震の発生日には9月1日説と4日説の2説があることになります。以上のとおり、発生日を9月1日とする資料は少数ですが、誤記や誤認によるものではないことが確認できれば、9月1日発生とする資料が少数ながらあることを記事中に追記してもよいかもしれません。 --おいたんし会話2013年10月15日 (火) 13:22 (UTC)[返信]
コメント 詳説ありがとうございます。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録2013年10月16日 (水) 01:15 (UTC)[返信]

古くは大森房吉が閏7月9日に九州東部で地震が起り、閏7月12日夜に畿内で地震が起ったとしています。大森房吉(1913): 本邦大地震概説 p8, p71 土井恵治 『地震のすべてがわかる本 発生のメカニズムから最先端の予測まで』p74では閏7月9日に慶長豊後地震、閏7月13日に慶長伏見地震があり閏7月中に四国の中央構造線沿いで記録にない大地震があってこれらは連動していた可能性があるとされています。伊予松山や壬生川の記録はあまり知られていなかったようです。中西一郎(2002) (PDF)

『日本被害地震総覧』では閏7月9日に豊後と伊予の被害がまとめられ、『地震の事典』では閏7月12日に豊後地震の記述となっています。 参考として『大日本地震史料 増訂 第一巻』近代デジタルライブラリ299コマ『新収 日本地震史料 二巻』『新収 日本地震史料 補遺』『日本の歴史地震史料 拾遺 三』に収録された史料の内、日時の記されたものを挙げると、

閏7月9日戌亥刻(9月1日20-22時頃)
  • 『言経卿記』閏七月九日甲辰、天晴、亥刻地動(京都)
  • 『孝亮宿禰日次記』閏七月九日天晴、酉亥刻間有地震(京都)
  • 『薬師寺大般若経奥書』閏七月九日ニ大ニ地震うて国中迷惑仕候(伊予松山)
  • 『小松邑誌』文禄四年〔ママ〕壬辰閏七月九日、戌刻ノ地震ニ、宮殿宝蔵神器記録ニ至迄、大半顛倒シテ地中ニ陥没ス(伊予壬生川)
  • 『薩摩旧記後編』閏七月九日、薩摩ハ大地震也、京都ハ十二日之夜也(薩摩)
  • 『由原宮年代略記』丙申閏七月九日、戌刻、大地震(豊後大分郡)
  • 『大般若波羅密多経奥書』丙申閏七月九日大地震仕豊後奥浜悉ク海成人畜ニ二千余死ス(豊後国東)
  • 『佛通禅寺住持記』七月九日ヨリ十二日マテ大地震ユル(備後三原)
閏7月12日未申刻(9月4日14-16時頃)
  • 『大分市史』七月十二日未上刻百雷の一時に落つるが如き鳴動南方と覚しき処より響き渡ると共に大地震起り
  • 『速見郡史』秋七月十二日地震、海水溢れ沿海の地尽く其災を蒙る(中略)七月三日地震、同十六日十七日地震、又二十三日より二十八日迄地震尤動事大小一日に五度より十度に至る、云々、斬て其月も過ぎて閏七月に成同月四日五日地震、右に付是迄恐怖而逃退者多し、然るに閏七月十一日十二日至口未刻より大震小震不知数比時に当て豊後国総て大地震にて山崩、川溢れて高崎山木綿山鶴見山霊仙寺山頭巨石悉落、(豊後速見郡)
  • 『佐賀関史』閏七月十二日地震(豊後佐賀関)
  • 『雉城雑誌』閏七月十二日水害当寺境内の天満宮流失(豊後)
  • 『府内日記』慶長元年丙申閏七月十二日七ツ時、諸国大地震あり。府内は海洋より大波を揚げ、神社・仏閣・大小民屋多く流失す。(豊後)
  • 『稲葉家譜』慶長元年丙申閏七月十二日大地震、海水溢陸地、没豊府沖浜之民戸十余町人溺死。(豊後)
  • 『日出年代史』閏七月十一、二日大地震あり大分郡笠和沖の瓜生島は東西一里、南北二十町(豊後)
  • 『津山氏世譜』十三日〔ママ〕昼頃より大地震ニ而、大波ゆり上、居宅海中となる(豊後)
  • 『豊陽古事談』丙申閏七月十二日七ツ時諸国大地震当国府内従巨海至(豊後)
  • 『豊府聞書』丙申閏七月十二日晡時(申時)天下大地震(豊後)
閏7月13日子丑刻(9月5日0-2時頃)
  • 『言経卿記』閏七月十三日、戊申、天晴、大地震子刻(京都)
  • 『讃岐大日記』壬七月十二日之夜大地震(讃岐)
  • 『義演准后日記』閏七月十二日今夜丑剋大地震(京都)
  • 『文禄大地震記』閏七月十三日、今夜丑剋大地震
  • 『孝亮宿禰日次記』閏七月十二日、天晴、今夜亥刻許大地震有之(京都)
  • 『板坂ト斎覚書』七月十二日、夜半ニ大地震(京都)
  • 『増補家忠日記』閏七月十二日、夜に入子の刻大地震(京都)
  • 『当代記』閏七月十二日ノ子ノ刻ニ、上方大地震(京都)
  • 『日本西教史』九月四日ノ夜半、一層甚シク
  • 『細川家記』閏七月十二日、畿内大地震、子の刻比よりゆり出し
  • 『慶長甲寅之記』申ノ七月十三日之夜丑ノ下剋、伏見大地震
  • 『木村又蔵覚書』七月十二日之夜也、大地震ゆり候事
  • 『清正行状』七月十二日ノ夜、亥子ノ刻ヨリ地震シ、京洛、伏見、大坂ヲ始メ畿内殊ニ夥シク
  • 『参陽実録』閏七月十二日大地震、伏見ノ城隍石壁殿閣等悉ク崩壊シテ
  • 『朝鮮太平記』七月十二日ノ大地震ニ、洛中洛外ハ云フニ及バズ、五畿内ニ在ル処ノ神社仏閣ノ崩レヌルコト、数ヲ知ラズ
  • 『高野春秋編年輯録』閏七月十二日、大地震、諸伽藍往々小破(高野山)
  • 『土岐家伝記』閏七月十三日日本国中大地震ニテ山々崩海辺ハ大浪陸ニ上ル両賀ガ豊後沖ノ浜ノ居宅ニ留主居ニハ藤四良重成上野主馬佐横山助作上下男女三十余人居ケル(豊後)
  • 『長瀧寺文書』閏七月十二日夜丑刻ニ大地震動(美濃白鳥)
  • 『福祥寺古記録』丙申七月十二日夜半ノ大地震ニ本堂・三重宝塔・権現地形供ニ蓮池内迄九輪トヒ候(播磨須磨)

当時は一日の境界を日出前とする場合も多く、伏見地震は夜半過ぎに発生したため、十二日夜丑刻(今日の暦法では十三日午前二時)と記録されているものも多く、十二日、十三日と日付が錯綜しています。元禄地震も参照(『地震の事典』)。豊後地震と時間的に接近していますが、伏見地震が夜半過ぎであったのに対し、豊後地震は昼から夕方頃となっています。但し伊予地震や豊後地震の記録は市町村史など後世に記された史料が多く原典を精査する必要はあります。

7月9日の伊予地震では『言経卿記』『孝亮宿禰日次記』と京都でも記録があり、これらの文書では13日の伏見地震も明確に記録(こちらの方が詳しい)していることから、伊予地震が京都で有感であっても不思議はありません。

また豊後にも7月9日の記録がありますが、対岸の豊後で伊予地震の余波を受けても不思議はありませんし、そのため7月12日の豊後地震の記録と錯綜している可能性があります。京都には豊後地震の時刻に地震記録が有りませんが、震源から遠く震度1~2程度のものは特筆に値せず文書に記録されなかった可能性もあります。--As6022014会話2013年10月29日 (火) 03:39 (UTC)[返信]

コメント 詳説ありがとうございます。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録2013年10月29日 (火) 09:26 (UTC)[返信]
閏7月9日説、閏7月12日説の論争は大森・今村論争の頃からあったようで、しかし、当時史料を検討すると閏7月9日に豊後地震・伊予地震が同一地震の可能性が高くなってきました。本文参照。--As6022014会話2020年12月10日 (木) 07:21 (UTC)[返信]