ノート:慰安婦/ウィキペディアの方針再考

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ウィキペディアの方針再考[編集]

如月の弥さん、あなたの今回の投稿で、この「中立的な観点」を初めとするウィキペディアの方針をどう解釈するかということは、今回の問題にも大きく関わっており、今後も編集の上でもやはり議論になると思われるので、これを期に、ウィキペディアの方針に対するそれぞれの認識を述べ合い、お互いに再確認しておくことはとても必要だと思いました。この「慰安婦」のような激しい論争があるトピックはその記述を巡り、様々な感情の対立を引き起こしやすいものです。しかしまず最初にお互いに再確認しておきたいのは、ノートでの議論は論争自体や他者への批判自体が目的ではなく、あくまでウィキペディアの方針に沿って、よりよい記事を書くための編集会議であり、わたしたちは共同執筆者だというとことです。その前提を忘れずに実りある議論になることを願っております。それから、憲法や法律というものを考えればわかるように、ルールというものはあくまで原則であり、実際に運用する際には明確に書かれていない部分に関してある程度の解釈の幅ができ、一律にどれが正しい解釈とすることはできない面もあると思います。私自身も、自分の解釈を絶対化するつもりはありませんし、現在の自分の理解に基いて述べることができるだけで、他者からの指摘で正されることもあろうかと思っています。ですから、お互いに自分がルールをわかっているが、相手はわかっていないというのではなく、冷静に、ウィキペディアの方針を再考し合えたらと思います。最後まで読んで頂ければ如月の弥さんも幾分ルールを誤解されている部分もあることがおわりいただけると思いますから・・・

それと、218.44.81.60(60.36.126.40)さんにも再三訴えているのですが、記事を改善するために、他者の編集の問題点を批判することは大いに結構だと思うのですが、その際には必ず具体的な記述や主張をきちんと指摘して下さるようにお願いします。“中立というつもりで、読者がまともな論のように受け取れる編集をした”とか、今回の、“『自ら問題のある文を提起しときながら論争だと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。』はまったくその通りですよ。”などという指摘についても、それに該当する私の主張や編集を具体的に挙げていただければと思います。そうでないと、その指摘が妥当なものだとしても、相手に実際にどういう所が問題であったのかをきちんと認識させることができないので、せっかくの指摘が実を結びません。また反対に、もし、その指摘が妥当なものでなければ、意図的でなかったとしても、如月の弥さんが嫌われる“小鬼の活動”と結果的に同じことをしていることになってしまいます。ですから具体的でない抽象的批判はきちんと弁明や反論ができないゆえにフェアでないことにもなるということは御理解頂きたいと思います。

それから、この「中立的な観点」という方針というものは、ウィキペディア独自のもので、これまでの既成の百科事典にも、報道にも、書籍にもなかった、ある意味非常に画期的な概念だと思います。誰しも、自分がいくらかでも情報を得ているトピックについてはある観点や意見を持っており、この「中立的な観点」という方針で述べられているようなニュートラルな物の見方をすることはほとんどないのではと思います。ですから、この「ニュートラルな物の見方」に私達は慣れていないため、なかなかそれをきちんと理解できなかったり、心理的に受け入れ難いという面があるように思います。これは自分自身のこれまでのウィキペディアでの経験から感じることです。特に自分自身が思い入れのあるトピックは「中立的な観点」に立つことが難しいため、「あまりにも情熱をもっているテーマは書かない」ということがウィキペディアにおいて一つのアドバイスになっているくらいです。

先回も述べたように、如月の弥さんが示された編集に対する姿勢は一般論としては私ももっともなものだと思います。しかし、如月の弥さん、既に読まれているかもしれませんが、後でもう一度「Wikipedia:中立的な観点」をじっくり読んでいただけないでしょうか?よく読むと、如月の弥さんの語られたような編集姿勢はそこからすんなり導き出されないように思うのです。むしろ、ウィキペディアは何と骨も思想もない、無責任な百科事典か?と思うような部分がないでしょうか?本当に理解すればそうではないのですが、一見そのように思ってしまうような斬新な発想が語られているように思います。実際、この「中立的な観点」という方針はウィキペディアの多くの記事でも本当に正しく適用できているものはかなり少ないのではと思います。

では、如月の弥さんのいくつかの御指摘について解答します。『自ら問題のある文を提起しときながら論争だと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。』という意見について如月の弥さんは同意されましたが、私自身はまったく明らかに方針に反していたり、事実に基かないと判断した記述については削除したことは幾度かありましたが、肝心要の文言をわざわざ削ったという認識はありませんし、削除するよりはできるだけより妥当な表現に修正することをこころがけてきたつもりです。ですから、該当するところを具体的に御指摘くださればと思います。

それから「トンデモ意見をわかってて紹介するなら、それへの反論もしっかり書くべきです。」という御指摘ですが、まず、(「○○氏はXX大の教授である」などの)明確な事実関係と違って、執筆者すべてがある意見を「トンデモ意見」であるとみなすとは限りませんし、その判断をめぐり論争になってしまうこともあり得るでしょう。そして、それよりも大事なことは、ウィキペディアは基本的には見解の内容に関係なく、様々な観点を公平に記述するものだとされているということです。「Wikipedia:中立的な観点」においては、「『人類の知識』の総体を提供する、つまり『われわれが知っていると信じていることの全てを提供する』という百科事典というウィキペディアの目的に照らすと、「われわれは、不快感を催すような見方(「疑似科学」、人種差別や性差別などの「差別主義」、「ホロコーストの否定」など)であっても説明しなければならない、それが誤りであると主張することなく説明しなければならないことに同意するべきでしょう」とあります。つまり、大多数が「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと考える主義、主張であったとしても「人類の知識」の一つとして説明すべきである。かつ、それを「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと主張するかたちでの記述をしてはならない」ということだと思います(「論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」、「論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する」、「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない」)

それからもう一つの御指摘の「白石の文に載せる資格がなければ、あなたの説は成立しません。誰かが、ブログ主の意見を書き込んだら、それがトンデモ意見でも批判するなと書いているのと同じです。なぜ、内容以前に、載せることを前提とするのですか?」については、「載せる資格がない見解」はウィキペディアの方針上からすれば基本的に、「出典がない」、「検証可能性を満たしていない」、「独自研究である」、「著作権を侵害している」というものだけではないかと思います。誰かが書きこんだブログ主の意見はそのブログ主が著名活動している人でなければ、「独自研究である」という理由から載せられないと思います。忘れないでいただきたいのは、ウィキペディアはその見解が支持されているいないに関わらず、様々な観点を公正に扱うだけであって、載せること自体は別にその説が正しいと紹介するのではなく、あくまでこれこれこういう説があることを紹介するだけです

それから如月の弥さんは「『論理』は独自研究ではありません。」と仰っていますが、公式な方針である「Wikipedia:独自研究は載せない」は「独自研究(original research)」を、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」と定義しており、具体的には「未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」とされています。また、「編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。」ともあり、「独自研究」に当たるもの中に、「他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。 」、「編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する。 」などがあります。ですから、個人的な考察や論評を記述することは禁じられていると思います。これは人によれば、「これじゃ何も書けない!」と失望することもあり得るくらいに、個人的要素、主観的要素が入り込むことを禁止しているのです。私も自分が知っている重要な情報を知らせたいのに、それをできなくするこの方針をもどかしく感じることもあります。しかしそれは「中立的な観点」という基本方針を守るために必要なものなのだと思います。よく考えれば、個人的な考察を記述することをゆるすのなら、自分は正論だと思う見解に対し、それを支持しない人がその信憑性を否定するために、様々な独自の考察や論評をすることも禁じられないことにもなり、その考察や論評をめぐり論争や編集合戦が起こる可能性が非常に高くなるでしょう。私はウィキペディアの方針によれば、人によってはトンデモ意見と思える見解を載せることは禁じられていないこと、個人的な理論、論証、考察などを書くことはできないということになるということを述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。それに慰安婦についての様々な見解の一つとして紹介するだけで、その見解が正しいと紹介するわけではないということをよく御注意下さい。既に慰安婦を性奴隷という主張とは反対の見解がしっかり書かれた中で、批判派の中の一つの見解として紹介されているだけです。それらをどう捉えるかは「それぞれの読者にゆだねる」(読者の知的な独立性を支持)というのがウィキペディアの発想だと思います。ですから「反論を封じた上でそういう意見を紹介する」ということでなく、反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです。もし、そのような反論がなされていないとしたら、それは社会においてはあまり問題視されていないのか、知られていないから指摘されていないのかいろんな理由があるでしょう。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。様々な観点を公正に扱うという「中立的な観点」の方針は、問題のある見解にはきっと、社会の良識において、きっと反対、批判の声が存在するだろうという、社会全体という大きな枠組みの中で批判や検証のシステムが働くというある意味、楽観的な信念に基いているのだろうと思います。(「特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります」)それはウィキペディアが記事を編集すること誰にでもゆるしているのと同じで、問題のある記事はいつしか良識ある人々によって、きっと妥当な記事に修正されるであろうという見方と同じ発想だと思います。

「白石はその論拠抜きにウィキペディアで取り上げるほど、有名な議論という根拠はないでしょう」と御指摘については、慰安婦制度の否定派の代表としてもっと取り上げるべきが人物はいるとは思いますが、私は白石氏のミッチーナ報告書に対する反論に対し、不正確な記述を修正などをした記憶はありますが、元の文章は私が載せたものではなかったように思います。(特定版削除で履歴が途切れているので誰が最初に載せたのか確認できません)

それから、「ウィキペディアは百科事典である、と看板を出しているから、その社会的責任はウィキペディアの内規をあれこれ語る以上に、優先しなければいけません。編集者はまちがいも犯しやすいので、最低限、罪なことをしないように、「中立」は必要です。」という御指摘についてですが、社会的責任を考えようというのは確かに良識には違いありませんが、ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず、記事の執筆に当たって、相互補完する関係にある「中立的な観点」、「検証可能性」、「独自の研究を含めない」という公式方針を何よりも遵守することを求めていると思います。その公式方針をしっかり遵守することで、結果的に社会に対して罪なことをしないようになると考えているようです。中立的な観点の「批判と解答」という節に「有害な考えを広めてしまうのではないか」というテーマがあり、正に如月の弥さんの示されたような懸念を持つ人々への解答があります。そこではウィキペディアは「とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たない」と書かれています。その以前の節から、多くの人がウィキペディアにその見解を載せることが悪影響を及ぼすのではと懸念する「疑似科学」、人種差別や性差別などの「差別主義」、「ホロコーストの否定」なども、様々な観点の一つとして説明することを推奨しています。しかし、それを正しいものだとも悪いものだとも説明することを禁じています。しかし、それが社会において、あまり支持されていないことや、その見解を嫌悪する人が多いというような事実があることを書くことはゆるしています。そのことによって、社会的に評判のよくない主義、主張を載せることは、それらを社会的に受け売れられているその他の多くの主義、主張と同列に扱っていることにはならないのだとしているのです。そして、そのように記述された記事を読者がどう判断するかはそれぞれの読者の良識に委ねているわけです。今見てきたように、「中立的な観点」という方針は我々の常識や既成概念に修正を迫るという側面もあり、それはある意味、自らの思考に修行を求めるようなものであるような気さえするのです。ですから、謙虚にこれらの方針を理解しようと努め、それに沿ってウィキペディアの記事の質を高めることができたらと思います。取り合えず、これが現在の私の方針に対する見解です。--モトカル 2007年6月16日 (土) 10:47 (UTC)[返信]

> その際には必ず具体的な記述や主張をきちんと指摘して下さるようにお願いします。
何度も何度も何度も何度も書きますが、私の主張は抽象的表現などではなく、「AであったかBであったか論争がある」ではなく「『XはAである。但しBとの見る者もいる』と、争いがあるところをキッチリ両論併記しましょう。」との表現方法を具体的に指し示しています。
但し、現在は上記の問題の前に、その前提である「白石問題」(出典の質)を片付けましょう。そちらの問題の方は、モトカルとしては「なぜこの出典(白石文献)が出たのかは分からないので、問題があるようなら消しても一向に構わない」と云うお立場なのですか?長々と書かれているようですが、結局何が言いたいのかよく分からないです(簡単に言うと「抽象的過ぎます」)。218.44.81.60 2007年6月16日 (土) 12:20 (UTC)[返信]

自分の解釈を絶対化するつもりはありませんし、現在の自分の理解に基いて述べることができるだけ

なら、それでいいです。

他者からの指摘で正されることもあろうかと思っています。

すぐは期待できないとしても。

以下、後々の参考にいちおう返事をしました。が、主張を継続されないなら、続ける気はありません。

>『執筆者すべてがある意見を「トンデモ意見」であるとみなすとは限りませんし』

そのときはそのとき。問題は、きちんと見ようとするか、です。トンデモ意見とは、誰が見ても、反論への弁護ができない意見ということであり、それは議論の結果です。私は、見ようとするという姿勢と手続きが必要だと語っています。

>>「白石の文に載せる資格がなければ、あなたの説は成立しません。誰かが、ブログ主の意見を書き込んだら、それがトンデモ意見でも批判するなと書いているのと同じです。なぜ、内容以前に、載せることを前提とするのですか?」

>「載せる資格がない見解」は・・方針上からすれば・・というものだけではないかと思います。 ・・著名活動している人でなければ、・・載せられないと思います。・・様々な観点を公正に扱う・・(まさに、そこが問題。資料を捏造しているという反論を封じて載せる理由は何か?)
どうも、「内容以前に載せることを前提とする」ことを認めているのかいないのかわかりませんが。

「『論理』は独自研究ではありません。」

独自研究ではないとあなたの以下の引用『』が示していますね。
>『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』
私の書く白石批判は、該当しませんよ。白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)として、また各部分を指摘したのです。だから、『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』に当たりません。
「白石の提出した資料に即して、明らかに捏造に等しい、とすること=論理」は、独自研究ではないということですね。
つまり、それほど明確に指摘していることに対して、『反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです』と扱うことは、反論を封じています。

>反論が・・公になされていれば・・もし、そのような反論がなされていないとしたら、・・知られていないから指摘・・。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。

それはつまり、ウィキペディアがマイナーなものを宣伝してもいいということになります。ならば、ブログ主が編集者になって、それを隠していても、全く内容議論抜きに書き放題です。そんな基準になっているとしか読めなかったとしても、それは間違いでしかありえません。

>述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。

わかりました。もっとも、その区別の認識が問題なのですが。

>「それぞれの読者にゆだねる」

最終判断はもちろんそうだけど、それまでにどれだけの便利な手助けをするかがウィキペディアの役目であり、最低限、情報の混乱はしないでおくべき。

>特定版削除で履歴が途切れているので

なるほど。履歴が消えているそうだから、書いておきますが、白石の意見は、吉見資料集にも政府資料集成にもある資料についてのもので、白石のその読み方は資料を直接読んでいる人が少ないと思って、捏造(としか読めない前提)のし放題、と言わざるを得ない。具体的にその間違いを私は記述していたはずですよ。

>ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず

良心は当然のことです。ウィキペディアは何の責任ももってくれないボランティアでもっている組織だというのに、良心をいちいち決めてもらいたがるべきではありません。

>罪なことをしないようになると考えているようです

基礎への理解はこれからということですね。アメリカでは、独自研究の禁止と検証可能性とは同じとして合体する投票がありました。モトカルさんはこの違いがわかりますか。最終的に、投票でも僅差だったようですが、創設者がウィキペディアの基本を変える、として拒否しました。どういうことか理解できますか。
私もわかりませんが、多くの管理者がしっかり理解できてないと推測できます。日本版が同じとは言えませんが、アメリカ版をまねる面も強いようで、理解の状況は+と-で似たようにしか予想できません。そういう人達の文章を矛盾無く受け取ろう・まとめようとしたら、浅い理解でしかできないでしょう。ルールは現場で日々熟成し制式への決定を待つ、と考えるべきです。

>「とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たない」

透明な立場であるということと、表面的な態度で機械的に作業していれば落ち度はない、ということとはちがいます。

>謙虚にこれらの方針を理解しようと努め、

成り立つ基礎を十分理解しないうちに表面をまねることは、卑屈であって謙虚ではありません。また、社会的責任についての考慮を後回しにするなら、謙虚と呼ぶ価値があるでしょうか。

最後に、「ウィキペディアの方針再考」という節に合わせて、書いておきましょうか。

Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」

以上が、私の主張していたことです。モトカルさんのウィキペディア解釈に比較してもらうために、置いておきます。 --如月の弥 2007年6月16日 (土) 15:45 (UTC)[返信]

(追伸)前記の「>罪なことをしないようになると」の後半部分を加筆しました。--如月の弥 2007年6月17日 (日) 05:17 (UTC)[返信]

第二周期[編集]

如月の弥さん、御丁寧な解答ありがとうございます。まず結論から述べますが、いろいろ考えた結果、やはり白石論文が捏造に基くものだという個人的指摘を書く事は方針上すべきではない、白石論文を載せたままにするか削除するかはノートでの議論で決めるべきではないかと考えます。
>「白石の提出した資料に即して、明らかに捏造に等しい、とすること=論理」は、独自研究ではないということですね。
Wikipedia:独自研究は載せない」の方針のまとめに「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、『解釈を加えていないもの』だけです 」とあります。また、排除されるもの中に「発表済みの情報の『個人的分析や解釈』」、「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈』」が挙げられており、また、「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、『意見』、『解釈』、定義、『論証』も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」と書かれていることから、やはり個人的な分析、解釈、論証などを記述することは「独自研究」に該当すると思います。
>白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)として、また各部分を指摘したのです。だから、『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』に当たりません。
しかし、「自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します」と明確に書かれおり、「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあることから、”「白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)」とする主張が『評判のいい資料』に掲載されていなければならない”ということだと思いますこれはとても厳しい基準で承服し難く感じられるかもしれませんが、個人的解釈、論証をゆるせば、反対の立場からも、自分が正しいと考える見解にも、様々な否定的論評が加わることも禁じられないことになり、それこそ如月の弥さんの懸念される”方針の解釈の悪用”に口実を与えることにもなってしまいます。そして、それらの論評の妥当性をめぐって論争になり、編集合戦が起こる可能性は高いと思われます。そのような独自研究を許容しているウイキサイトもあるようですが、ウィキペディアにおいては、その方針の中でいい記事を書くことを考えるしかないと思います。
>>「それぞれの読者にゆだねる」
最終判断はもちろんそうだけど、それまでにどれだけの便利な手助けをするかがウィキペディアの役目であり、最低限、情報の混乱はしないでおくべき。
それはおっしゃる通りです。私は白石論文に対する註のように、意見を述べないかたちなら、読者の理解の手助けくらいはしてもいいのではないかと思います。 ですから、白石氏論文の脚注に、(恐らく如月の弥さんが註として書かれたように思いますが)、「この白石秀人の参考文献は、日本政府の発表の資料の直接でなく、「戦争責任資料センター」のものや「解放社」の内容抜粋である。」 や「尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。 」という但し書きがありますが、これは単なる事実の指摘で”解釈”までは述べていないので、個人的にはこの辺がギリギリの線なのではと思います。
>それほど明確に指摘していることに対して、『反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです』と扱うことは、反論を封じています。
たとえ自分が明確な指摘であると思っても(白石氏の論文ではなく)他者から見ればそうでないことも往々にしてありますから、特定の観点に立つことをウィキペディアは禁じているのだと思います。ですから、”モトカルが反論を封じているのではなく、ウィキペディアが個人の論理や考察、解釈を封じている”ということを御理解下さい。
>>反論が・・公になされていれば・・もし、そのような反論がなされていないとしたら、・・知られていないから指摘・・。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。
それはつまり、ウィキペディアがマイナーなものを宣伝してもいいということになります。ならば、ブログ主が編集者になって、それを隠していても、全く内容議論抜きに書き放題です。そんな基準になっているとしか読めなかったとしても、それは間違いでしかありえません。
著名活動をしてない一般のブログ主の見解は、「評判のいい資料」に掲載されていないという理由ウィキペディアには載せられないと思います。それを載せるためには「まずそれを査読制度のある雑誌か評判のいい報道メディアで発表し、その後中立的な観点の流儀にのっとり、あなたの業績を証拠として示す」のが最良の方法として示されています。
独自研究は載せない」の方針には「ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、それを保証するためには、十分に信用できる、第三者による情報源が不足していることから、独自研究に認定される場合があります。」とありますので、極マイナーな観点は載せられないとされることもあるようです。ウィキペディアの共同創始者ジミー・ウェールズは「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない。」と述べているそうです。
>>述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。
>わかりました。もっとも、その区別の認識が問題なのですが。
そうです。配慮や用心は必要ですね。しかし、悪用されないためにという理由で方針に背くのではなく、ガイドラインなどに防御対策を加えるような方向で考えるべきなではないかと思います。
>様々な観点を公正に扱う・・(まさに、そこが問題。資料を捏造しているという反論を封じて載せる理由は何か?)
経緯としては、"資料を捏造しているという反論を封じ載せた"のではなく、載せられたものに対し、資料を捏造しているという反論をなさったのですよね?ミッチーナの資料が慰安婦の待遇がよかったという内容なので、誰かがそれに対する反論として白石氏の反論を載せたのでしょう。それは出典もあり、検証可能性も満たしているので、少なくともそういう面からは載せてはならないことにはならないと思いますが、資料を捏造しているという個人的考察は「独自研究」に該当するので、それが事実であるないに関わらず載せられないことは方針なので仕方がありません。ただ、実際に捏造に基いているのか?”、”明らかな捏造に基いた意見ならそれを載せるか載せないか”という議論は別途行なえばよいと思います。
>どうも、「内容以前に載せることを前提とする」ことを認めているのかいないのかかりませんが。
基本的には社会的評判の良し悪しに関わらず載せるべきとしていると思いますが、”明らかに資料を捏造しての主張”というものをどう扱うかまでは方針からは明確ではないですね。まして、捏造であるという指摘が公になされていない場合は個人的にはそれを指摘できないと思われますから・・・
>白石の意見は、吉見資料集にも政府資料集成にもある資料についてのもので、白石のその読み方は資料を直接読んでいる人が少ないと思って、捏造(としか読めない前提)のし放題、と言わざるを得ない。具体的にその間違いを私は記述していたはずですよ。
著作権とかの問題でその部分がノートから削除されてしまったのでしょうか?もし、よろしければ、お手数ですがまたノートに書いていただけるとありがたいのですが・・・
>アメリカでは、独自研究の禁止と検証可能性とは同じとして合体する投票がありました。モトカルさんはこの違いがわかりますか。最終的に、投票でも僅差だったようですが、創設者がウィキペディアの基本を変える、として拒否しました。どういうことか理解できますか。
ちらっと見ただけで、内容はよく知らないのですが、興味深い話しだと思います。
ということとはちがいます。
>ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず
良心は当然のことです。ウィキペディアは何の責任ももってくれないボランティアでもっている組織だというのに、良心をいちいち決めてもらいたがるべきではありません。
>成り立つ基礎を十分理解しないうちに表面をまねることは、卑屈であって謙虚ではありません。また、社会的責任についての考慮を後回しにするなら、謙虚と呼ぶ価値があるでしょうか。
これらの御指摘はもっともなものだと思います。如月の弥さんは虚偽を含んだ見解がウィキペディアに載ることの影響を懸念されているのだと思いますが、私はウィキペディア自身はは、考え抜かれた方針をしっかり守る限りはそのような懸念はかなり払拭されるとちゃんと考えていることを述べたかったのです。
方針を守るだけでなく、”方針の精神”を生かさなければならないということは私も思います。もちろん”社会的責任についての考慮を後回しする”つもりはまたっくありませんが、私はウィキペディアの方針をしっかり守ることでそれが満たされるのではと考えています。しかし、社会的責任について考慮するという理由であっても、方針を外れることをするのはやはり避けるべきであると考えます。
>ルールは現場で日々熟成し制式への決定を待つ、と考えるべきです。
公式方針は原則ですが、実際の運用において、いろんな問題が出て来るとき、解釈や適用を見直し、それらが方針に取り入れられ、方針がより洗練されていくというのは私も大事なことだと思います。ただ、方針で明確に禁じられていることは方針が変わらない限り安易に破らないということも大事だと思います。しかし、運用、解釈の幅の範囲内では、記事をよりよくしたり、論議になりにくい方向に運用するのがいいのではと思います。そういうバランス感覚は大事だと思います。
>「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」
まず、”Aの根拠を確認する”、Aの意見が事実か否かを確認するという意味であれば、そのこと自体をウィキペディアは必ずしも求めていないのではと思います。つまり、ウィキペディアは百科事典として記述方法として、「ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書く」ことを推奨しています。そして、「偏りのない記述」とは「ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである」、「特定の観点を読者に押し付けない」としています。編集者Bが指摘する‘無根拠という内容’を掲載しないというのは何度も述べますが、「独自研究は載せない」という公式な方針で明確にされているので仕方がないことです。
結局、今回の問題は、もし白石氏の指摘が捏造に基いたものであることがわかっていても、そのような指摘が公になされていない(どこかにあるかもしれませんが)ために、その事実を方針上からは書けないというジレンマがあるということだと思います。
私の現在考えでは捏造がひどく、資料批判の見解の一つとして載せるのは妥当でないということが編集者の間で合意されれば削除するという解決法でもいいと思います。もし、そうなったら、ミッチーナ報告書をめぐる議論という節に、秦氏と小林氏の評価の見解のみになり、バランスに問題が出てくるので、批判派における代表的な論者の見解を代わりに載せたらと思いますが、もしそういう批判がなければ削除だけでいいでしょうし、節の名前を「同報告書に対する評価」とでも変えるべきでしょう。しかし、それにはまず、白石論文が資料批判の見解の一つとして載せるのは妥当でないことが明確にされる必要がありますが・・・--モトカル 2007年6月17日 (日) 14:46 (UTC)[返信]
なんともわかりにくいですが、要するに、「内容以前に載せることを前提とする」「その致命的欠陥の事実は指摘を禁じる」ことを原則として半分以上通そうということのようですね。後の議論の余地はあるが、と。
<全体として>
私のいつもまとめている下線の要点に対しては、無回答ですね。原則論なので、白石のことは例に過ぎず、私の提出した「原則の文の形」を本体として、それへの形で答えてもらえませんか。でないと、字体の見辛いうっとうしさと、体系的とは思えなかったりすることと合わせて、ごまかし文とよく似てしまいます。白石の件で何が正しかったかということと、原則についてとは別にしてください。それとも、こういう設定自体が違うというなら、そういうことを明確にしてください。
<独自研究解釈の厳密さ>
『、『解釈を加えていないもの』だけです 」とあります。』、『主張が『評判のいい資料』に掲載されていなければならない”ということだと思います』とありますが、これは違います。以下の原文章ですが、
『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』
『編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する。』
――これら二つは、論証と記述の二種の別個の基準です。後者の基準をもって前者に使うことはできません。つまり、「(a)根拠が明確なら論証自体は借り物である必要はない」。(記述は根拠との関係があいまいだが、論証は関係が明確だからでしょう)
また、『(b)解釈を加えていないもの』とは、まとめというより、『この方針を簡単に言うと: 』とあるので、追加条件でなく「=」である、と取れますね。つまり、(a)と(b)は、個別に正しく解釈して基本的な矛盾はない。
そしてこれは当然の常識でしょう、「事実の指摘に等しい論証」というものがしょっちゅうありますから。違うというときは‘論証になってない’と揉めるときであり、それは議論すればいいのであり、機械的に削除されることではありません。
言い換えれば、論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。ということだと推測できます。
<言葉の違い>
どうも、言葉の行き違いがあるようです。私が問題にしているのは、主張や論理といっても、厳密な形は「事実の指摘」です。提出されている資料とは提出された意見内容とが明白に違うという照合指摘です。下線をつけたまとめに書いてあるでしょう。
過去の事例を語ると、文の指摘が致命的だったからか、あなたがパート全体の印象上、主張としてはねる扱いをした、と記憶するので、主張として書いて当然に思っていたし、あなたが白石の根拠について確認することを語ろうとしないから、議論の中で、捏造(=意図的としか思えないほど事実と明白に違う)と明らかだと書いたのであって、本文でそういう表現はしていません。
元々、現在の脚註にあるような『単なる事実の指摘』表現に過ぎません。もっとより具体的でしたが。その「指摘部分を省略すること」が、不公正だと言っているのです。 万一記憶違いがあろうと、とにかく原則論の形はそうです。
<再確認(半分)>
前から下線で書いている要点の半分を改めて書き直せば、白石の文がすでに出てしまった後で、それについて、「資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なうということです。
<補足(半分)>
白石の文が致命的に根拠に欠けるということは、つまり、白石を取り上げる価値が疑わしいということです。わざととしか思えないずさんさは、永井和研究室に白石という研究者と呼べる人物がいるかどうかさえ疑わしいレベルだということになります。これを、機械的に、「載せるべき」とする根拠はありません。批判をちゃんと読めば、それを無視できなくなるはずです。
このことは、非難や主張で書いていると考えず、原則についての別件だとしてください。
<不公平、非客観の例題>
ウィキペディアでは、初心者向けに「大胆に編集してください」とあります。始めに書き込むときには、いちいちノートで相談してくれ等とは言えません。
そして、他人の書き込みをあまり削除するべきではない、と個人的に思う。だから削除せずに、私もバランスを考えてその行き過ぎを抑えるような書き込みをすることが多い。ところが、その書き込みを禁止して、正体不明(明白に無根拠だと批判されている)の書き込みをとりあえず放置することはルールだとする。
これは、あなただけの解釈であり、ルールの当然の範囲ではありません。‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。片方に無根拠に優先権を与える根拠はありません。あなたの編集行動も、まず、批判の内容を確認して、掲載の最低限の価値を確認すべきであり、機械的に批判を削除して、「これはルールだ」というのがウィキペディア編集ではないはずです。
<結び>
まだ、原則として議論し続けますか?それとも、続けないが、解決するかもしれないからちょっとだけ続けてみているのですか?
原則論は過去の事例とは切り離しているので、白石の事例をほんとに詳しくやりたいなら、原則論を終了する必要があります。 ただし過去の事例の議論をするなら、原則に違いがある以上なにが正しかったかを語っても無駄で、理解のためのだけの反省会ということになりますが。 白石のことを今後どう再編集するかについては、さらにその後とすべきでしょう。

--如月の弥 2007年6月17日 (日) 16:44 (UTC)[返信]

(余談) 論理という言葉も、ズレのもとでしょうか。 「論の道筋」というだけだと、主観的にも取れますね。 しかし、日本語で、「合理」というのは、「目的への効率がいい道筋」という感じがあり、厳密性を意味するのは「論理」と言ってしまうのですね。 「条理」というと規則を借りているのかという気もするし、「道理」 というと、道徳と関係するかという気もする。ちょっと、いいのがない気がする。 「論証」 と書いた方が良かったのでしょうかね。
 (独自研究のルール、再考)  『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』  → この命題を変形すると、 「評判のいい資料に基づく「論証」は、何かの立場を支持したり反対しても、それだけでは禁止されない。」 

 --如月の弥 2007年6月20日 (水) 11:17 (UTC)[返信]

第三周期[編集]

 ↓以下の部分の青字は、私(如月の弥)が後で追加挿入したものです。
如月の弥さん、忙しくて、お返事お待たせしました。引用部分を斜体にするのは一つの慣例になっているようなので使ったのですが、見づらかったですか?。
>私のいつもまとめている下線の要点に対しては、無回答ですね。
私はいつも率直に議論していますし、質問に対する解答をはぐらかしたり、何かをごまかすつもりなどありません。 わかっていますが、私から見れば混迷が頑固に続いています。問うている私の問いの形を無視しているから、焦点がいつもずれていると指摘しているのです。 下線部分は質問ではなかったので解答すべきことは思いませんでしたが、、自分の見解を述べるべきと思った箇所に対しては、かなりきっちり述べたつもりでしたが、コミュニケーションとは難しいですね。
>要するに、「内容以前に載せることを前提とする」 「その致命的欠陥の事実は指摘を禁じる」 ことを原則として半分以上通そうということのようですね。 後の議論の余地はあるが、と。
基本的にはあるトピックについての様々な見解は内容の如何によらず公平に記述することが「中立的な観点」の要旨です。しかし、”明らかに意図的に資料を捏造した上でのプロパガンダ的主張”というようなものがあるとしたら、そのようなものを方針は想定していないので、その扱いについては方針からは必ずしも明確でないと思います。それから私は何も”致命的欠陥の事実を指摘することを禁じた”わけではなく、如月の弥さんが個人的に「白石氏の論文が捏造に基くものであることを論理的に説明する」ということは方針からすると「独自研究」に該当すると解釈したということであって、もし、「白石氏の論文が如何に適切な資料解釈であることを論理的に説明する」ものだとしても同様な判断をしたでしょう。 問題は、その内容を考えずに機械的に、ということが、支配に当たるということです。自分が禁じたつもりはない、などは無意味です。 これは内容の妥当性に関係なく、例えば、あるタレントの子どもの名前は○○だと加筆しようとする人がいて、たとえ、その名前が事実であろうがなかろうが、著名活動していない人の名前は載せてはならないというウィキペディアの方針により、それは禁じられていると述べることと同様なことだと御理解下さい。
>まだ、原則として議論し続けますか? それとも、続けないが、解決するかもしれないからちょっとだけ続けてみているのですか? 原則論は過去の事例とは切り離しているので、白石の事例をほんとに詳しくやりたいなら、原則論を終了する必要があります 
如月の弥さんの白石論文に対する指摘が「独自研究」に該当するのかどうか、他の方針からもどう捉えるべきかをよく吟味しなければならないと思います。 ならば、機械的に削除して正しいということは、撤回とすることのはず。 これは白石氏の論文をどう扱うかという問題だけに限らず、ウィキペディア自体が特定の見解などについて、論じたり、解説することの是非の問題なので、きちんとした議論を残すことは大切だと思います。原則論を優先すべきと思いますが、如月の弥さんの論証の具体的記述も明確にしていただかないと、判断しにくい部分もあります。
>白石の件で何が正しかったかということと、原則についてとは別にしてください。 それとも、こういう設定自体が違うというなら、そういうことを明確にしてください。
この節はウィキペディアの方針について再確認するために設けました。「白石論文」をどう扱うかは別の節を作りましょう。そこではまず、如月の弥さんの「白石論文」に対する指摘を書いて頂き、それが「事実の指摘に等しい論証」であるか否かを検討することから始めましょう。
>「(a)根拠が明確なら論証自体は借り物である必要はない」。(記述は根拠との関係があいまいだが、論証は関係が明確だからでしょう)
この「Wikipedia:独自研究は載せない」の方針は翻訳のせかい、原文自体がそうなのか、非常にわかりづらい表現になっているように思います。 ならば、機械的に行動することはルールとできませんね。 「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」という文章からすれば、”解釈も論証もその妥当性に関係なく、信頼できる媒体に載っていないものはウィキペディアに書けない”と言っているようにもとれてしまいます。そして、書いていけないものについては多くを語っていますが、書いてよいものの方は今一つ明確でないように思います。
>論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。 これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。 ということだと推測できます。
論証は必ずしも関係が明確とはいい切れず、その場合は議論の対象になる、と言っているのですよ。 そこには常に主観や誤謬が入り込む余地があります。本人は事実の指摘であると確信していても、他者から見れば問題が見えることもあり、「Wikipedia:独自研究は載せない」のノートを見てもわかるとおり、非常に難しい問題だと思います。以前に慰安婦の募集や慰安所の管理に政府が関わっていたことを公式に認めた加藤官房長談話について、「過去の政府答弁が嘘であったことを認めた」という内容の記述がなされ、それに私が異を唱えました。それはまったく間違いというわけではなく、ニアリーイコール(≒)であるとは言えても、イコールとはできない、「灰色」を「黒である」と書いてはいけない。百科事典であるウィキペディアにおいては、「灰色」はやはり「灰色である」と書くべきだと述べました[1]。今回の問題は「独自研究」だけでなく、「中立的な観点」からの問題も大きいと思います。
>元々、現在の脚註にあるような『単なる事実の指摘』 表現に過ぎません。もっとより具体的でしたが。 その「指摘部分を省略すること」 が、不公正だと言っているのです。 とにかく、原則論の形はそうです。
それらの履歴が削除されてしまったので、はっきりしたことは言えないのですが、ミッチーナ報告書の内容が加筆され、その資料の信憑性に疑問を示す白石氏の見解が加筆され、そこに白石氏が用いた資料が原資料とは違うこと、資料の読み方がおかしいというよういな解説が加筆されたように思います。あらゆる観点を公平に扱い、特定の観点に立たないことを要請している「中立的な観点」からして、ウィキペディア自身が、特定の見解の内容を否定することは、問題があると感じて削除したかもわかりません。そして、現在のような「尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。 」などの単なる事実の指摘の部分のみなら大きな問題はないと考え、註の方に移動したのではなかったかと思います。私は如月の弥さんが「不公正だ」と言われるお気持ちはわからないわけではありません。しかし、事実の指摘だからといって、特定の見解に対して、ウィキペディア自身が評価したり、否定したりすることを認めてしまったら、 それ以前に白石の掲載の根拠を認定できないはず。それとのバランスで不公正だということ  それぞれの見解にそれそれの思惑でさまざまな解説が加筆されることになり、そうしたらそれで本当に「中立的な観点」に基いた記事になるかという大きな懸念があります。「慰安婦の定義の思案」で火の鳥さんが言われたように、産経新聞の古森氏が慰安婦がきちんとした契約の下で雇用されていたことを述べた記事でミッチーナ関連の文書を引用しているが「偽りの説明で集められたとか、慰安婦の生活が困窮していたとか、契約の原文にある「forced」などは意図的に避けていた」などという解説もOKということになり、単なる事実の指摘であっても、”編集者が好む立場を支持するような示唆につながる記述”がいくらでもゆるされることになるのはウィキペディアにとっていいことなのか?という疑問があります。
>『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』  → この命題を変形すると、 「評判のいい資料に基づく「論証」は、何かの立場を支持したり反対しても、それだけでは禁止されない。」 
一見そのように読めるように思いますが、 なら、機械的に削除することをルールだとは言えないはず  「独自研究は載せない」の方針は「信頼できる情報源」に依拠しているかいないかということに重点を置いて述べているのだと思います。「ウィキペディアの三大方針は「ほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。」、「個別に解釈されるべきではない」とされています。ですから、例え「独自研究ではない」ということになっても、それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、他の方針を含め総合的に判断すべきと思います。 もともと議論の上で決めることだと求めていたのはこちらです。  そして、「中立的観点」の方針「、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」と述べていることを考えれば、やはり、何かの立場を支持したり反対する論証はそれが事実であるか否かに関わらず、ウィキペディアの方針からはふさわしくないのではと思います。 あなたの個人的な方針としか明白ではないから、それは議論の中で主張すること。  「両論併記(各論併記)」してあっても、特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら、実質的には「両論併記(各論併記)」にならないことはわかっていただけると思います。 根本的に資料と会わないと指摘することを、内容に依らず 「評価」 だというのは、言葉のすり替えです。 
>白石の文がすでに出てしまった後で、それについて、「資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」 こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なうということです。
Wikipedia:検証可能性」の方針には「『検証可能性』とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査を”しない”よう強く求められます。」、「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあります。  前のつながりを省略していますよ。『記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記すべきです。  この文脈における「検証可能性」とは、』 。つまり、自分で記事を実地検証しても、他の編集者には判断できないという意味です。 それ以外の意味はありません。「この文脈における」 という条件が付いているので。 白石の事例は、まったく違うでしょう。
また、「中立的な観点」の方針には情報の客観性について述べているところがあります。「”客観性”についての主張はこのポリシーには含まれていません。特に、このポリシーは”客観性”なるものがある。そしてその観点から書かれた記事は”客観的”に真である、 という主張すらもしていません。このポリシーはそういうものではないし、われわれの目的もそういうものではないのです! 」とあり、客観性のある記事を書かなければならないというのがこの方針に対するよくある誤解だとしています。ただ、「人々が何を信じているか」は正に客観的な事実であると理由から、「ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書く」ことをウィキペディアの百科事典としての記述スタイルにしているように思います。今回の問題とある意味似ていると思うのですが、「疑似科学と科学を対等に扱うのか」とういう節においては、とても信じるに値しない疑似科学の見解を載せる「中立的な観点」の代わりに「科学的な観点」が採用されるべきという考える人々がいるが、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだという「中立的な観点」の方針によって、結果的にそれらの人々の要請に応えられると説明しているように思います。「読者に自自由に考えさせ、知的な独立性を支持する」ということが「中立的な観点」の方針の目的だとされていることからしても、ウィキペディアは(その見解や情報が事実であるかないかなどという)個別の”情報の客観性”にポイントを置いていないように思います。 平面地球説を載せるのは、それなりに頑固に信じる人々がいるという現実があるはず。だれかが地球は三角だとHPに書いたら、それをあなたは、そのまま載せることを機械的に前提にして、それがルールだはできないはず。
>白石の文が致命的に根拠に欠けるということは、つまり、白石を取り上げる価値が疑わしいということです。(中略) これを、機械的に、「載せるべき」 とする根拠はありません。 批判をちゃんと読めば、それを無視できなくなるはずです。
これについては如月の弥さんの論証を見てから答えるべきだと思います。  ダメです。原則の問題です。その答えならば、「確かに機械的に無視するのが間違っていました。」 という意味だと認めてもらわないといけません。
> このことは、非難や主張で書いていると考えず、原則についての別件だとしてください
承知しました。
>ウィキペディアでは、初心者向けに「大胆に編集してください」 とあります。 始めに書き込むときには、いちいちノートで相談してくれ等とは言えません。
そして、他人の書き込みをあまり削除するべきではない、と個人的に思う。 だから削除せずに、私もバランスを考えてその行き過ぎを抑えるような書き込みをすることが多い。
私も基本的にはそうしようと思っています。自分がそれなりの時間をかけて、調べたり考えた上で加筆した文章を簡単に削除されるときの気持ちはよくわかります。
>ところが、その書き込みを禁止して、正体不明(明白に無根拠だと批判されている)の書き込みをとりあえず放置することはルールだとする。 
 これは、あなただけの解釈であり、ルールの当然の範囲ではありません。 
今回のようなケースにおいて、ルールの解釈は難しいところがあると思います。ただ、私の現在の考えでは  難しくて、「個人の現在の考え」でしかないならば、ルールだとすべきではありません。撤回したと受け取りたいところです。 白石論文に対する個人的な指摘を書くことには疑問があります。それから白石氏の見解を載せるべきと思っているわけではありませんが、現在のところ方針上、積極的に削除するだけの理由を見出していない結果、如月の弥さんにとっては不公正だとわれるようなことに結果としてなってしまっているだけであることを御理解下さい。「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあるように、見解の真偽自体で載せるか載せないかは決めないこと自体は明確にされています。そうでないと、様々な観点を記載できませんから・・・
しかし、方針と個人的な信念の間に葛藤が生じる難しい問題ですから、更なる議論を深める必要はあると思います。
>‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。 最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。 片方に無根拠に優先権を与える根拠はありません。 あなたの編集行動も、まず、批判の内容を確認して、掲載の最低限の価値を確認すべきであり、機械的に批判を削除して、「これはルールだ」 というのがウィキペディア編集ではないはずです。
最終的に議論になる可能性が高ければ、まずノートで議論することで、自身の問題点に気づくかもしれませんし、方針上、問題のない形に修正できるかもしれないというメリットはある一方、かえって納得できない反対を受け書きにくくなるというデメリットもあるかもしれません。しかし議論せずに編集合戦になるよりはいいのではと思います。本来は疑問に思う編集をすぐに削除せず、議論を行なれば一番よいとは思いますが、方針上大変問題があるからすぐに削除すべきと思う内容 私が問題とするのは、内容によらず削除することがルールなのかと、いうことなのです。 と、疑問に思う編集だが、削除よりはまず編集の意図を聞こうという内容があると思います。論争のあるトピックではやはり「中立的な観点」を守るということが何より大事だと思っていた中で、いろんな人によってしばしば明らかに「中立的な観点」に反する編集がなされ、記事を守らないとという思いが強かったのだと思います。「如月の弥さんのその時の加筆もやはりその時の私にとっては指摘の事実か否かに関係なく、記事全体の中でウィキペディアの立場で特定の見解に対する批判を書くというのは大変違和感のある記述に思え、「中立的な観点」にとって”問題だ”と感じたのではなかったかと思います。そのときどういう議論をしたのかはよく覚えておりません。 私の記憶では、中立的印象が最重要だ、という意見があったと思います。それは間違いと思うが、許容しておきました。ただ、ルールとして正しく通用したと思われると困ります。あくまで私の妥協によってそうなったにすぎません。 。私は削除するときはノートに書くか、最低要約欄に理由は書きますが、削除された方はそれでも、わかってくれるとは限らないし、気分はよくないですね。如月の弥さんに納得していただけるような説明はできていなかったのかもしれません。その点はお許し下さい。謝られるようなことではありません。人によって思想の違いがあるのは、(中立という思想) わかっています。説明の問題でもないし、後になってルールとして通用しているような書かれ方もまた生じうることです。 ただ私は訂正せねばならないだけです。  --モトカル 2007年6月22日 (金) 12:12 (UTC)[返信]

 混乱しているように見えます。
 失礼な方法の気もしますが、らちが開かないので、あなたの文に青文字で割り込みで挿入しました。
 内容は、以下の方が詳しいのですが、それでは、流れがつかめないかと思って。
 くどくて、かえって混乱するかとも思いますが、どうも通じそうな書き方がわからず、これでだめなら、次からはぐっと簡略にします。

  ―――要点――――
<もともとの会話の目的。原則>
 もともと6月13日の書き込みで、
『今週語られた「基準の立て方」そのものがまず問題です。
そういう言葉がノートに書かれると、他の編集者・希望者が、「これが方針として通用している」などと、思ってしまいます。 モトカル氏には予想外のはずですが、ウィキペデイア全体で悪用が可能です。』
 と書いています。 今までにもずっと、「機械的に」 ということを書いているはず。 
 問題にしている原則論は、あなたが、 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 ということでもあります。 
 
 以前に、主張し続けないと返事をもらっていますがどうも判然としません。
 だから、私の下線を付けた「原則の形」 への回答の形で返して欲しいと求めているのですが。 
  <今回の要点>
 今回のことについては、また、奇妙です。
 独自研究の禁止だということだったはずですが、今回は中立の問題だとなっています。 だとしたら、内容を確認してから判断するべきことのはず。 内容確認抜きに、一方を掲載し一方を削除しておいて、それをルールだと主張して、内容の議論抜きのまま、それが中立だ、と結論すること はできるのでしょうか? それとも、内容の確認と議論は必要だと認めたことになるのでしょうか?

    以上が今回の要点。 以下、だいたい後から、原則論の視点から詳述していきます。
 
   ―――詳述―――― 
<なぜ、無条件で載せるのか>
 白石の掲載資格についても、求めた原則文への形の答えになっていなくて、結局は不明です。
 『これについては如月の弥さんの論証を見てから答えるべきだと思います。』  ←だめです。 「そのように読めるかどうかでなく、そのように読めるかどうかをまず考えて判断する、という姿勢が必要だ」  と原則の確認を問うているのです。
 
  <独自研究>
 >『、「中立的な観点」の方針には情報の客観性について述べているところがあります』
 よく文意を理解しているとはとても思えません。 中立的だと思うことと、客観的だと思うこととは別のアプローチである、ということが書かれてあるわけで、中立の姿勢=客観の姿勢、ではないということ。 別々に独立して扱うことがかえって客観の道である、ということで、中立的印象操作のために、論理的な証明を機械的に排除しろ、ということではありません。
 
 >『、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査を”しない”よう強く求められます。」、「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」』
 萎縮した人の言い訳パターンを信じ込んでるかのようです。 一般に、新聞記事の中身が真実かどうかを自分で実地調査をしてウィキ記事にするのは、正しいことのようですが、これでは他の者が確認できません。 それを禁じているわけです。 しかも実際、その直前にはそのことが書かれているでしょう。 『記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記すべきです。  この文脈における「検証可能性」とは、』 とあり、私の解釈通りです。「この文脈における」 とあるので、それ以外の意味は発生しません
 つまり、白石の事例のように、公開されている資料に基づいていて、その資料に確実に反していると言う指摘は、これとは全く違います。 
 私に言わせれば、難しい文なのではなく、難しく歪めたがる連中の活動で感覚を狂わされているだけだと思います。

 >『それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、他の方針を含め総合的に判断すべきと思います。』
 総合的では判断が属人的になります。 中立については、内容を含んで考える必要があります。 私の主張は、‘それは議論でやればいいことで、議論に入る以前の行動として、排除され、かつ後でも形式的に排除を決定されるいわれはない’、という原則を語っているのです。
 
   <三方針。とくに中立>
 あなたの文章は、こうですね。
 『(a)一見そのように読めるように思いますが、・・・述べているのだと思います。 ・・とされています。ですから、例え「独自研究ではない」ということになっても、それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、・・・総合的に判断すべきと思います。
 (b)そして、「中立的観点」の方針・・・を考えれば、・・・論証はそれが事実であるか否かに関わらず、ウィキペディアの方針からはふさわしくないのではと思います。
 (c)・・・特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら、実質的には「両論併記(各論併記)」にならないことはわかっていただけると思います。 』
 
   (a-1)‘機械的に’削除せずに、総合的に判断するための内容の‘議論’の手続きが必要だと、私の方が書いていたのです。 『一見そのように読めるように思いますが・・・総合的に判断すべきと思います』 というのでは、立場が逆のようですよ。 総合的判断するなら、議論抜きに機械的に正当化できませんし。
 (b-1)これは、属人的判断になりそうですね。
 (c-1)『特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら』 ――そういう形での原則論をしてはいないのです。 資料と違うという指摘=「評価」と分類するのは、すり変わってますよ。 
 
   (a-c-1)あなたの文章からは、 「否定的な印象を与えるものは、たとえ明白な致命的事実であっても、中立的‘総合的’印象を作り出すためなら、読者に知らせるべきでない」 という別の基準を作っているように、読めますが、――その基準が正しいと明言できるでしょうか。 
 これは、単に参考までに書いただけで、問題はそれとは別であり、 内容抜きに掲載・削除し、内容抜きにルールとして削除を決定できるか、ということだったのです。 この点で、私への回答になりません。
 
   (a-c-2)さらにまた、答えがないもう一つの原則の半分、<なぜ無条件に載せるのか> が無視されているため(返事になっているとは思えず)、ダブルスタンダードです。 中立というなら、<なぜ無条件に載せるのか> とセットで扱われないといけません。 半分づつに分けていたのは、「独自研究」という問題があったからです。

--如月の弥 2007年6月23日 (土) 14:10 (UTC)[返信]

第四周期[編集]

>あなたの文に青文字で割り込みで挿入しました。・・・・これでだめなら、次からはぐっと簡略に やはりちょっと見づらいですね。

><なぜ、無条件で載せるのか>
>白石の掲載資格についても、求めた原則文への形の答えになっていなくて、結局は不明です。

まず、最初に、お互いの議論の中で気づかずにすれ違っていたことがありました。議論の中で、私は「白石氏の見解を載せるべきと思っているわけではありませんが、現在のところ方針上、積極的に削除するだけの理由を見出していない」と述べましたが、「著名活動をしてない一般のブログ主の見解は、「評判のいい資料」に掲載されていないという理由ウィキペディアには載せられない」という方針に言及していました。しかし、如月の弥さんも、この方針によって、白石論文を載せるべきでないという主張はされなかったため、見過ごしてしまっていましたが、結局、京都大学大学院の教授である永井和氏のサイトに白石秀人氏の論文が載っているのですが、この白石氏自体は著書を出版したり、メデイアに出たり、講演活動をしているとか、特に著名活動をしていると言えるようではなく、単なる大学院生なのか、どういう立場なのかが明確でないと思います。京大教授が自身のサイトに載せていることで、その見解に“お墨付き”を与えているということも言えるでしょうが、あくまで、永井教授の見解ではなく、著名活動をしていない人物の見解であるということから、これを「一般のブログ主の見解」と見ることで、「Wikipedia:検証可能性」にある「個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。」という方針に基き、掲載を見合わせることも一つの選択肢として挙げておきます。もし、このことで異論がなく合意がなされれば、取り合えず実際の問題となっている白石論文自体の扱いの問題は終わると思います。先回の議論に対する解答もある程度書いたのですが、基本的には双方とも同じ議論が繰り返されている面もあり、もし、白石論文を削除することになれば省ける議論もあるので、まず白石論文自体の扱いを決めるのも一つの方法かと思います。その後でこれまでの方針の解釈についての議論は継続してもかまいませんが、保護の解除につながる両論併記や冒頭文の修正などの問題にもできるだけ早く取りかかるのもいいかと思います。もし、進め方に異議がありましたらご意見下さい。--モトカル 2007年6月24日 (日) 08:49 (UTC)[返信]

 そう、そういうように 「考えるのが先で、ルールを機械的に振り回すのは後だということです。」 白石に資格があるということを主張されるのでもいいのですが、そういう答えも無く沈黙で、そのためにそれ以前に当然の前提にしてしまっている形であり、議論を封じると取れるのが問題だということです。
 私は白石のHPアドレスを確認していなかったので、まさか永井和氏のゼミのアドレスを使っているとまでは思わなかったが、まあ、アップロードはこっそりともできます。許可を得ている根拠もない。許可といってもゼミとして好きに使わせているだけかも知れない。(永井氏自身の論文にも、先に結論ありきの論理があるので、批判されなければ放置とも取れますが。) 内容承認があるとは認められません。
 ただ私は、白石の部分は例に過ぎず、原則の形をどう主張されるのか確認しているのです。原則を主張しないのなら、それだけで終了できます。--如月の弥 2007年6月24日 (日) 12:55 (UTC)[返信]
  •  基本をかんたんにまとめ直してみました。
 モトカルさんの文は、今まで、「自分はこう考えた、これを説明している」 という一面が強いようですが、それは問題ではありません。 私は、「どこかで誰かが基準を悪く転用しそうな可能性」 を焦点としています。 
 悪用には二方法考えられ、どちらもよく見ます。
 一つは、 内容抜きに、片方を掲載し片方を削除すると言い張る方法、
 一つは、 議論の前にどういう形で本文を止めておくかについて、「これがルールの基本だ」 として、片方を掲載し片方を削除する形にして、そのあと合意形成を止めてしまうこと。
 (今までの所、前者については言い張らないという返事が確定的していると言えますが、後者が不明瞭です。)
 今までに、下線付きの原則文は、後者を強く考慮して、文を考えています。
 なので、書いてある「原則文の形」 が重要であり、文の形に沿って、直接対応する文型で返事をしてもらって、現在の意志を確認したいということです。 

--如月の弥 2007年6月26日 (火) 04:01 (UTC)[返信]

第五周期[編集]

如月の弥さんは基準(方針)を悪用される可能性を問題にしておられるということですね。
>内容抜きに、片方を掲載し片方を削除すると言い張る方法、(今までの所、前者については言い張らないという返事が確定的していると言えますが・・・)
>問題は、その内容を考えずに機械的に、ということが、支配に当たるということです。自分が禁じたつもりはない、などは無意味です。
>「考えるのが先で、ルールを機械的に振り回すのは後だということです。」 
“内容の議論抜きで”、“機械的に”という言葉は、“他の利用者が書こうとする内容を検討することなしに”ということかと思います。「特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で「意見」を書いたり、「事実の指摘」であっても、特定の見解を示唆する記述をすることは、その指摘が正しいか否かということに関わらず”、「中立的な観点」に反する“と判断したということです。それは“内容を考えない”のではなく、“内容が事実であるか否かに関係なく方針上問題がある”という判断をしたということです。(白石論文についての如月の弥さんの記述に関しては、(正確には覚えていませんが)すべて削除したのではなく、意見表明に当たる部分を削除し、現在のように単なる事実の指摘部分を残したように思います。
><なぜ無条件に載せるのか> が無視されているため(返事になっているとは思えず)、ダブルスタンダードです。 中立というなら、<なぜ無条件に載せるのか> とセットで扱われないといけません。
特定の意見に対して、“ウィキペディアの立場で”「事実の指摘」または「個人的解釈」を書くことは方針上問題になるのでは?という判断が一つ。もう一つは特定の見解について、方針からして当然削除すべきだというような積極的理由は見当たらない(ただ先回、削除すべき理由とみなせる可能性を提示しました)という判断。この二つの判断は直接関連しておらず、別ものです。結果的に如月の弥さんとっては、“片方のみを削除し片方のみを残すのは不公平だ”と感じることになってしまったということです。しかし、「百科事典」にまつまる既成概念からか、意外と認識されていないのではと思うことは「ウィキペディアは何が正しいのか何が間違いなのかを追及するものではないということです。「論争に参加するのではなく、論争を描写する」とあるように、あくまで、人が何を真実と思っているかを忠実に描いてみせるものであって、ある見解を載せるということは、それが真実だというスタンスで載せるのではなく、あくまでいくつかの見解の中の一つとして載せるということです。もし、それを事実だとして載せるとしたら、それが事実でないという意見を検討しないで、載せることは当然不公平と言えるでしょうが、実際はそうではないということをよく御理解下さい。
「特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」というのがウィキペディアのいう「中立」だと思います。そのようなことからすると、“ウィキペディアの立場で”、特定の見解にだけ、その正当性や信憑性を下げる記述を加えることの方がある意味、不公平であり、中立的でないということにはならないでしょうか? 先回述べた古森氏の記事に対する指摘のように、どの見解にも調べれば、客観的な観点からいろんな問題点を指摘できることはあるでしょうから・・・
正にその当時、いろんなテーマについて、慰安婦制度の擁護派、否定派のそれぞれの見解が次々に加筆され、両論(各論)併記という状態の中で、“ウィキペディアの立場で”特定の見解にだけ否定的記述がなされことに対して、私は大きな違和感を覚えました。それは例えて言えば、論争を中立的立場でレポートするべきキャスターが突然、一方の側に有利な発言をしたというような違和感でした。
>根本的に資料と会わないと指摘することを、内容に依らず「評価」だというのは、言葉のすり替えです。
>『資料と違うという指摘=「評価」と分類するのは、すり変わってますよ。 
Wikipedia:中立的な観点」は「ある記事が、意見ではなく“事実”を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合」を「対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持している」という失敗例だと説明しています。つまり、事実であっても特定の立場を示唆することは「中立的な観点」の方針からは失敗だということです。根本的に資料と会わないとの記述が事実の指摘だとしても、結果としてその見解について否定的“評価”をしていることの示唆になるでしょうし、「捏造だ」とか「信憑性がない」というような表現まで加えれば明確に「否定的評価」になるでしょう。
>そのように読めるかどうかをまず考えて判断する、という姿勢が必要だ」と原則の確認を問うているのです
先に述べたように、白石論文についての指摘についてはそう読めたので修正したということです。これから書くという場合には、その記述を正確に示してもらうことは必要だと思います。
>あなたの文章からは、 「否定的な印象を与えるものは、たとえ明白な致命的事実であっても、中立的‘総合的’印象を作り出すためなら、読者に知らせるべきでない」 という別の基準を作っているように、読めますが、――その基準が正しいと明言できるでしょうか。 
そんなに極端に捉えないで下さい。否定的な指摘が公にあるなら書いてよいのですから・・・それに、そもそもウィキペディアは個々の見解について、ウィキペディア自身が解説や注釈することを要請はしていません。むしろ方針において強く要請しているのは、「様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべき」ということです。「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。」とあるように、ウィキペディア自身が述べるのではなく、言わば誰かの口を借りることが本来の姿なのだと思います。
ですから、「中立的‘総合的’印象を作り出すため」ではなく、特定の立場を支持すること、支持するような示唆もしないことが“中立的”であるとされているのだとと思います。そして、「明白な致命的事実を読者に知らせるべきでない」 などと言うつもりはありません。そのような指摘が公にあるなら書くことがフェアであるとされています。白石論文に対する反駁が出典をもって書ければ何ら問題はなかったのですが、それがないために、ウィキペディアの立場で書くというところに「中立的な観点」という方針に対する微妙な問題が出てくるのだと思います。「もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。」ということさえ推奨されていることを思えば、事実の記述ではあったとしても、特定の見解の正当性を否定したり、信憑性を落とす記述を認めてしまうのは問題がないのかということです。私はそれはルール違反だと頑なに主張するつもりだというのではなくて、見解については、事実の指摘であろうともその内容を左右することはウィキペディアの立場では書かないのがやはり望ましいと思います。実際、「中立的な観点」には「ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。」とあり、このような意味とは「実際に物事がどうであるかは関係なく、人々が何を信じているか」という意味の事実です。また、「哲学者がある議論を立てる時には、対立する意見を過小評価して、それを反駁するだけに終始している、という批判を逃れるために、事実上まず対立する意見をフェアに紹介する相対主義というものが「中立的な観点」という方針が完全に一致するとさえ述べています。
>「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 
それから如月の弥さんは「悪用」を心配されておられるようですが、再三述べているように、事実であれば内容に関係なく(「中立的な観点」への影響を考慮することなしに)、特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で指摘してもよいことになったら、それぞれの見解に自分の意図する方向に読者を誘導しようとする記述がなされ、かたちとしては両論(各論)併記されていても、それが有名無実化してしまうことの方がはるかに問題は大きいと思います。なぜなら、特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で「意見」なり、「事実の指摘」を書くことはできないとしたとしても、その見解に対する批判や反駁が公になされていれば、それを載せることは方針により、禁じることはできないはずであり、むしろウィキペディアは実際に存在する反論を載せることがフェアだと推奨しているからです。このことについてどうお考えになるかは未だ示していただいていません。
>そういう言葉がノートに書かれると、他の編集者・希望者が、「これが方針として通用している」などと、思ってしまいます。 モトカル氏には予想外のはずですが、ウィキペデイア全体で悪用が可能です。』と書いています。 
如月の弥さん自身が“議論の余地のない「事実の指摘」なら特定の見解に対し、出典なしに書ける”とノートで書くことも同様に、自分の反対する見解に「事実の指摘」だとして、否定的な示唆になる記述をするという悪用をゆるす可能性もあるのではないでしょうか?私はそれが「論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」という「中立的な観点」の方針を有名無実にしてしまう可能性の方を憂慮しています。
>私の記憶では、中立的印象が最重要だ、という意見があったと思います。それは間違いと思うが、許容しておきました。ただ、ルールとして正しく通用したと思われると困ります。あくまで私の妥協によってそうなったにすぎません
>難しくて、「個人の現在の考え」でしかないならば、ルールだとすべきではありません。撤回したと受け取りたいところです。
>ならば、機械的に削除して正しいということは、撤回とすることのはず。
>説明の問題でもないし、後になってルールとして通用しているような書かれ方もまた生じうることです。 ただ私は訂正せねばならないだけです。
>内容確認抜きに、一方を掲載し一方を削除しておいて、それをルールだと主張して、内容の議論抜きのまま、それが中立だ、と結論すること はできるのでしょうか? それとも、内容の確認と議論は必要だと認めたことになるのでしょうか?
>議論に入る以前の行動として、排除され、かつ後でも形式的に排除を決定されるいわれはない’、という原則を語っているのです。
ウィキペディアにはスポーツや裁判のように最終判断を下す権威者はいないので、何を載せないべきかについて考えが対立したときには、利用者間の合意(妥協)による解決しかありません。実際、これが絶対正しい解釈だということはできない微妙な問題もありますし、私は方針上、疑義があると言い得るだけで、絶対正しい解釈だというつもりはありません。
また、如月の弥さんが「‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。」と言われましたが、反対に、要約欄やノートに理由を書いた上で、‘とりあえず’、議論ぬきに削除(修正)して、異議があるなら最終的に議論する」ということもウィキペディアでは禁じられてはいないということも言えると思います。
>議論の前にどういう形で本文を止めておくかについて、「これがルールの基本だ」 として、片方を掲載し片方を削除する形にして、そのあと合意形成を止めてしまうこと。
どういう編集をするかは方針に沿う限りは自由だと思いますし、(議論による)合意形成を止めるつもりはありません。ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありませんし、異議があれば先でも後でも今回のように率直に議論し合うことが大切だと思います。結局、双方とも方針に対する理解に相違点があるだけであって、“支配する”つもりなどはないので、そういう見方をなさらないで下さい。反対の立場からも同じような見方はできるのですから・・・もちろん、私はそのような見方はしません。どちらも記事をよりよいものにしようと思っていることには違いはないと思います。まして、私と如月の弥さんは慰安婦問題に対して反対の側にいるのではないことはおわかりだと思いますから・・・お互いに力点を置いているところが違うということではないかと思います。
如月の弥さんが以前に編集について、「揺れた経過があとあとの蓄積として残るとも思っている」と語られたのと同様に、方針についても、意見を述べ合うことでお互いの見解の主観的部分、極端な部分などが是正されて行くということも有意義なことだと思います。

--モトカル 2007年7月1日 (日) 02:27 (UTC)[返信]

 モトカルさん。丁寧に見返してもらったようで、その点はありがとうございます。
 しかし、あなたが過去に何をどう判断したのかは、書いてもらってもしかたなく、それに合わせた形の説明は、私への回答になりません。 今、私の提出した原則の文型に合わせた形での回答を求めているのです。
 
 今回あなたが書かれたことは、原則論の言葉ではなく、原則の簡単なことばを語ってすぐに過去の事例の応用に結びつけて、それで反論にしている。まったく、関係ありません。私が、整った議論のために後回しに沈黙していることをごっちゃにして主張に使われても、私には回答にならないし、また、私がそれについて後で書こうと思うことと、ポイントがずれてもいます。
 あなたが書くたびに、要点列挙風に整理したまとまりが無視され、原則が事例とごっちゃにされ、原則の一つ一つが浅くなって議論が前にもどってしまい、全体の組み立てが今までの議論の蓄積を無視してあなたの始めのあいまいな言葉に先祖返りします。
 具体的に何があいまいになったかをここで書くと、またそれが次に、箇条書き的でないあいまいな書き方の元になると思うので、書きません。そのことを書かれても今は返事しません。 
 私の求めている原則の文型に合わせた形でできないのなら、  最低限箇条書き的、あるいは、論点にナンバーを付けるようにしてください。 できたら、私の以下に付けたナンバーの延長がいいですが、あなた自身のナンバーでも、その分け方の形を継続していけるなら何でもかまいません。
 
 さらに念のため。私がこれらを原則として定着せよと主張しているのでなく、「これらの中立に反することをルールだと主張されては困る」 ということで、その 確認 が問題です。 それを逆にとらえていませんか。
 改めて書きます。
(A)「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」
  言い換えると
(A') 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 
  あるいは、
(B-1)(前半) 資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なう
(B-2)(後半) ある意見への批判の書き込みがあるとき、その批判内容によっては、もともとの意見の掲載基準の適用判断に疑いが出るので、その内容を判断せずに機械的に、元の意見の掲載を一時的にしろルールの名で保護することは、編集基準では無いか、中立に反する。

--如月の弥 2007年7月1日 (日) 07:33 (UTC)[返信]

第六周期[編集]

(インデント戻す)

>あなたが過去に何をどう判断したのかは、書いてもらってもしかたなく、・・・

白石論文を掲載するか否かについては、「一般のブログ主の見解」と見ることで掲載しないという判断に代わりましたが、その他の判断は過去の判断だけでなく、現在も基本的な判断は概ね変わっておりません。

>今回あなたが書かれたことは、原則論の言葉ではなく、原則の簡単なことばを語ってすぐに過去の事例の応用に結びつけて、それで反論にしている。

過去の事例だけを説明しているのではなく、方針から解釈できることに沿って説明しています。

>具体的に何があいまいになったかをここで書くと、またそれが次に、箇条書き的でないあいまいな書き方の元になると思うので、書きません。そのことを書かれても今は返事しません。 

如月の弥さん、ご自身の質問に対する納得できる解答を求めるだけでなく、私が悪用されることや「中立的な観点」の方針との兼ね合いで問題視していることについては、応えていただかないと、如月の弥さんの方針に対する理解が明らかにならないので議論が進みません。

>私がこれらを原則として定着せよと主張しているのでなく、「これらの中立に反することをルールだと主張されては困る」 ということで、その 確認 が問題です。 それを逆にとらえていませんか。

私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していないことは再三述べているのに、如月の弥さんが「ルールだと主張されては困る」との懸念を示されるので、それならば如月の弥さん自身の解釈も同じように「ルールである」と捉えられることになる可能性はあるということを述べたままです。これでお互いに自身の解釈を絶対視しないということが明確になりました。

>(A)「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」

何度も述べているように、'ウィキペディアは個別の見解自体に根拠があるとかないとかという客観性は求めておらず、何が客観的な事実かの判断は難しいが、「人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができる」として、「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」ということを要請しているのだと思います。

(A') 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 

これについても、ちゃんと述べています。白石論文についてウィキペディアの立場で説明した内容が事実か否かに関わらず、その見解の正当性、信憑性を左右しているため、「中立的な観点」に基く記述を損なうと判断したということです。原則論としては、議論の前に内容をまず検討するべきでしょう。方針上、削除または修正するべきか明確でないときはノート問題提起すべきでしょうし、明らかに方針に反すると判断すれば理由は要約欄かノートに示し、先に削除または修正することもあるでしょう。ですから、原則論としては先に議論するか否かは別に、内容は当然検討すべきと思います。

>(B-1)(前半) 資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なう

ウィキペディアの編集は先に議論しなければならないということは決められていないのは当然です。その編集に異議があれば、議論をすればいいことは既に述べています。ただ、「事実の指摘」と本人は思ってもそうではないことは、「加藤談話」は政府が嘘を認めたことだという記述を問題だとした例を見てもわかるように、しっかりした検討が必要です。しかし、議論の余地のない事実の指摘であるから「独自研究」には当たらないとしても、「事実であっても特定の立場を示唆することは「中立的な観点」の方針上失敗である」とされていることは先回も述べました。私はこのことが悪用、または両論(各論)併記していても「中立的な観点」に立たない記事になることを懸念しています。

>(B-2)(後半) ある意見への批判の書き込みがあるとき、その批判内容によっては、もともとの意見の掲載基準の適用判断に疑いが出るので、その内容を判断せずに機械的に、元の意見の掲載を一時的にしろルールの名で保護することは、編集基準では無いか、中立に反する。

その見解の内容に対する批判は掲載基準に直接関係ないと思うことは再三述べています。「Wikipedia:検証可能性」にも「記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」と明確に書かれています。ある見解を載せるということは、それが真実だというスタンスで載せるのではなく、あくまでいくつかの見解の中の一つとして載せるのですから・・・ですから、ある意見への批判というものが内容ではなく、「検証可能でない」というなら検討する必要があります。ですから、白石論文については内容はさておき、「検証可能性」の方針で適切な情報源としては認められないとされている「個人のウェブサイトやブログ」に当たると判断して掲載を見合わせたらと提案しました。これらすべて再三お答えしているものばかりです。

ウィキペディアの方針について私は以下のように解釈しますが、以下の二つの解釈について如月の弥さんのお考えを明確にしていただきたいと思います。その解答がなされないと議論が双方向にならず、堂々めぐりになってしまうのでよろしくお願いします。

(A)ある見解に対する掲載基準は「検証可能かどうか」であって、その見解に根拠があるかないかは関係ない

(B)事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないが「中立的な観点」に反する記述というものがあり得る。 --モトカル 2007年7月1日 (日) 09:45 (UTC)[返信]


 事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけですが、それは今回の書き込みでは捨て置きます。他の混乱だと思うことも切り捨てて、以下のことだけにしたいと思います。
『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していないことは再三述べているのに、如月の弥さんが「ルールだと主張されては困る」との懸念を示されるので、それならば如月の弥さん自身の解釈も同じように「ルールである」と捉えられることになる可能性はあるということを述べたままです。これでお互いに自身の解釈を絶対視しないということが明確になりました。』
 『(X2)ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありません』 
 それだけで、よかったのです。
 『そういう見方をなさらないで下さい』といわれるようなことを書くのは、あれこれ書き続けることが、悪用しがちな者にとって結局そうなってしまうという警告を強く書かざるを得ない気持ちからです。
 私の質問のポイントに対応するこれらの部分(X1)(X2)をさておいて、別のあなたの主張を太字にして表現されていました。 似たようなことなど、矛盾のように見える人も多いでしょう。 これで了解したら、私はその目立たない部分で了解しても、それは小さいことに過ぎず、第三者にはあなたの主張の原則が通ったと思わせかねない。 あなたの書き方が、混迷といぶかしさに見える一因です。 (意図的だと思ってないですが、私には同じです)
 したがって、(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
 この直前のあなたの書き込みの末尾の下線部(A)(B)などは、すぐに終了はしないだろうし、真実ということばや根拠ということばについて、この流れの中ではあなたとまともに語れないようです。 具体事例の場で語るか、  節と流れを改める方がいいでしょう。でないとあなたは、それを編集議論以前の行動ルールとして主張している、と形上見えます。
 最後にこの確認をします。「上述(X1)(X2)以外のあなたの文は認めずに、基本段階(――編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない――)は互いに納得したとして終了とします。」 いかがでしょう。

--如月の弥 2007年7月1日 (日) 11:57 (UTC)[返信]

第七周期[編集]

>事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけですが・・・
実際に問題になったのですから当然、白石論文の件にも言及していますが、大半は、方針(原則)をどう解釈するかということについて書いおり、太字の部分は正にそれです。
>似たようなことなど、矛盾のように見える人も多いでしょう。 これで了解したら、私はその目立たない部分で了解しても、それは小さいことに過ぎず、第三者にはあなたの主張の原則が通ったと思わせかねない。 
“似たようなことなど”とは何を意味しておられるのかよくわかりません。
>この直前のあなたの書き込みの末尾の下線部(A)(B)などは、すぐに終了はしないだろうし、真実ということばや根拠ということばについて、この流れの中ではあなたとまともに語れないようです。
“すぐに終了はしない”とは「すぐに結論が出ない」という意味でしょうか?「中立的な観点」や「検証可能性」の方針からウィキペディアが真実ということばや根拠という言葉をどう捉えているかはかなりわかると思うのですが・・・
>具体事例の場で語るか、  節と流れを改める方がいいでしょう。
如月の弥さん自身が最初に「事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけ」と異議を唱えたはずなのに、ここではどうして「具体事例の場で語る」ことを求められるのでしょうか?
>でないとあなたは、それを編集議論以前の行動ルールとして主張している、と形上見えます。
「行動ルール」という言葉で何を意味しておられるのかちょっと明確でないですね。「行動」とか「議論」というより、方針をどう解釈するのかが重要だと思います。
>あなたの書き方が、混迷といぶかしさに見える一因です。 (意図的だと思ってないですが、私には同じです) したがって、(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
そもそもこの節は方針に対する解釈をお互いに再確認するという目的で始めました。ですから白石論文の事例のような編集上の問題について、方針に対する私自身の解釈から再三述べてきました。それは以下のことです。
1、ある見解を掲載する基準について
2、トピックについての見解として掲載されたものについて、ウィキペディアの立場で解釈や説明することについて
3、独自研究の解釈について
4、ある見解について事実の指摘をすることと「中立的な観点」との関係
如月の弥さんは御自身の質問に対して、納得のいく私の解答を求めて何度も同じ質問を繰り返されましたが、私が示した方針の解釈や問題点や懸念についてはほとんど言及されませんでした。
>(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
>最後にこの確認をします。「上述(X1)(X2)以外のあなたの文は認めずに、基本段階(――編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない――)は互いに納得したとして終了とします。」 いかがでしょう。
このように結局、言質を取りたかった私の解答のみをよしとして、今回の議論の焦点であったはずの上記の問題点について御自身の解釈を明らかにされないままですし、更にまた御自身の求める、“ルールの解釈を議論に優先しないことの約束を取りつける”ことで議論を終了しようとされています。これは大変残念なことです。
(X1)(X2)以外の私の文を何故認めないかを方針に基いて述べないのでは議論になりません。御自身の要求だけして、こちらが示した見解については賛否を明らかにされないのはやはり生産的でないと思います。
“編集方針のうわさ的な解釈”とは編集方針の個人的な、独自の解釈というような意味でしょうか?何を如月の弥さんがうわさ的な解釈とされているのかをはっきりさせるためにも、私の示した解釈について如月の弥さんが意見を述べられることが必要であったのではないでしょうか?それが明確でないまま、合意しても実効性はないと思います。
具体的な事例においては方針上、どう判断するかが難しいものもあるでしょうし、明らかに方針上、問題があり、早急に削除・修正をする必要を感じれば、先にそれを行ない、議論はそれからというケースもあるでしょう。私は議論を先にすべきとも、後にすべきとも、これまで一度も主張していませんし、方針から考えても、議論を先にすべきということをルールとすることも問題があると思います。それはケースバイケースで考えるべきことだと思います。そのようなローカル・ルールを作るより、やはり、方針に対する解釈をお互いに明らかにし、合意できる点、できない点をはっきりさせることの方が重要だと思います。しかし、これ以上求めても、如月の弥さん自身の解釈を明らかにされないかもしれませんし、互いの解釈をしっかり示し合わないならこれ以上議論する意味がありません。
それよりも、以後は、保護に至る原因となった冒頭文をめぐる問題に移り、保護解除に向けての建設的な議論に移った方がよいと思います。

--モトカル 2007年7月4日 (水) 14:25 (UTC)[返信]

白石文献の類の文献の取扱いの原則は、当然その後の議論にも掛かってきますので、最初にキッチリ摺り合わせした方が良いです。あとから議論がぶり返されるのを防ぐためにも。Ip218-44-81-60 2007年7月4日 (水) 15:36 (UTC)[返信]
Ip218-44-81-60 さんは“218.44.81.6”や“60.36.126.40”のIPで投稿されていた方ですね?白石論文自体は「検証可能性」の方針から削除することはできるということで、とりあえず解決する方法はみつかりましたし、それに類する件は保護に至る直接の理由ではなく、冒頭の記述がノートでの議論を無視して書き変えられたことが本来の問題でした。ですから優先すべき冒頭の記述や両論併記について新たに節を設けます。--モトカル 2007年7月5日 (木) 12:28 (UTC)[返信]
それは、現在の議論のもう1人の当事者である如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。拙速な対応は後々混乱しか招きかねません。再度申し上げます。この議論、続きは如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。Ip218-44-81-60 2007年7月5日 (木) 12:57 (UTC)[返信]

 念のために書くと、7月1日に私は4回書いています。モトカルさんのことだから、始めの文だけで最後の仕上げの形のは見てないという可能性がありますが、誤解は無いでしょうね?。 始めのversionは、「まだ、だめか!」という気持ちが強いときのもので、原則論を終了して具体論へ移行する(間にゆっくり休むかも)気分が強かったのですが、最後のver.4は、原則論の後半を続けるという方向で書いています。

 私は、「原則」を問題視していると書いています。まず原則が先だと書いています。 それが、できないというならそのように返事してほしい、とも書いています。 私の言うように原則を中心にするといいながら、実際は過去にどう思ったということと混同する書き方が続き、 今回私が、元々の問題だった最低限のことを確認したいというと、こんどはいやだという。
 あなたは、‘終了すると書くのが信用できない’という怒りのように見えますが、事実は私は区切りの確認を強調的に表現しているだけです。 ただ、今までのあなたの書き方に対抗して、いったん結びとして、簡潔に強く強調したいと思ったわけです。
 あなたが『言質を取りたかった私の解答のみをよしとして』 というのは、もとからそういうイメージを底においていて、私の書く、「悪用されないための原則の重視」 という「姿勢」を理解できなかったのではないかという気になりますが。
 ここで私が「私は、別の形で継続するつもりだ」と書いても、「『言質』はいやだ」、とされるのでしょうか。
 ウィキペディアは誰のものでもないのだから、誰が誰の言質を取ったなど無意味なことです。 論理的にしっかり把握できるなら、言質など恐れるものではないはずですが。 

 (X1)(X2)以外の解説文は、原則の文の形をしていないから、原則の段階でなく、あとの段階でとりあげればいいことだということです。
 (A)(B)がすぐに終わらないというのは、今までのあなたの書き方が、今回にも共通しているから、早く終わっても、2,3回やりとりが続くかも知れない。私の目的は、(白石を書き直すことに熱心でないと始めから書いているように) 始めから、最低限の確認です。それをログの印象として薄めさせることは避けたいのは当然です。 今回最低限のことをきっちり確認して、節を改めて、引き続けばいいことだからです。

 

 あなたが、最低限の確認を認めたはずながら、『言質』 として今後も嫌がるならその方が奇妙です。
 わたしは、きちんと混乱せずに続けていく方法を始めから提案していて、その形は変わっていません。あなたの方が、書いている中身が変わっています。検証可能性だった理由が中立のセンス問題になり、原則論という舞台に賛成しつつも事例と混同する。 詳しい議論を始めると、かなりきつい指摘も出そうで、混迷しそうに思えます。 全部ひとまとめにしようとすると、いつまで経っても何一つ蓄積が固まらないでしょう。 全体をゆっくり確認しながら進めたいのです。 
  
 218-44さんも、『当然その後の議論にも掛かってきますので、最初にキッチリ摺り合わせした方が良いです』 というのは、今までの私の原則論は理解しなかったのか、それとも、「もうやめた方がいい」と方針転換を提案されているのかどちらなのでしょう。
--如月の弥 2007年7月5日 (木) 15:14 (UTC)[返信]

 いや私は原則で両者が合意できる点で合意できればいいとおもいますし、それが難しいのであれば全部すっ飛ばして『(X1)(X2)』でもいいのではないでしょうか? でもモトカルさんがまだ続けるつもりがあるなら続けたらどうでしょう? モトカルさんが続けるつもりはないのなら『(X1)(X2)』とすればいいだけで、続けるつもりはあるのに強引に先に進むようでしたら話がまたぶり返し、後々の議論に引きずるのだけは勘弁して欲しいだけです。Ip218-44-81-60 2007年7月5日 (木) 16:50 (UTC)[返信]

第八周期[編集]

>始めの文だけで最後の仕上げの形のは見てないという可能性がありますが、誤解は無いでしょうね?。 
如月の弥さんの現在のコメントをちゃんと読んでおります。
>私は、「原則」を問題視していると書いています。まず原則が先だと書いています。 
如月の弥さんの仰る「原則」はウィキペディアの公式方針ではなく、編集者の間でのローカルルール的な取り決めのことをおっしゃってるのでしょう。以前に如月の弥さんは「問題にしている原則論は、あなたが、 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 ということでもあります。」と述べられていますから・・・
>あなたは、‘終了すると書くのが信用できない’という怒りのように見えますが、事実は私は区切りの確認を強調的に表現しているだけです。 
信用できないというのではなく、ウィキペディアの方針に対する解釈をお互いに再確認するという目的で始めた議論なのに、わたしの示した解釈に対し、如月の弥さん自身は見解をほとんど示すことなく、理由も語らないまま、「(X1)(X2)以外のあなたの文は認めない」とするなど、きちんと議論することを避けられたことを遺憾に思うということです。

 

>あなたが『言質を取りたかった私の解答のみをよしとして』 というのは、もとからそういうイメージを底においていて、私の書く、「悪用されないための原則の重視」 という「姿勢」を理解できなかったのではないかという気になりますが。
如月の弥さんが方針を悪用されることを懸念されていることはわかっています。しかし、ウィキペディアの生命線である「中立的な観点」で記述するという方針を台無しにするより大きな悪用の可能性があると私が述べたことに対してはスルーされました。そのほかにも、「ある見解を掲載する基準にその真偽は関係ない」ことや「ある見解についての説明が事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないが「中立的な観点」の方針に問題となることがある」という白石論文の件での問題点の核心について方針に基いて述べましたが、これに対しても見解を示されませんでした。
>私の言うように原則を中心にするといいながら、実際は過去にどう思ったということと混同する書き方が続き、 今回私が、元々の問題だった最低限のことを確認したいというと、こんどはいやだという。
>ここで私が「私は、別の形で継続するつもりだ」と書いても、「『言質』はいやだ」、とされるのでしょうか。
別の形で継続するのでもかまいませんが、なぜ別の形でするのか意図がよくわかりません。
>ウィキペディアは誰のものでもないのだから、誰が誰の言質を取ったなど無意味なことです。 論理的にしっかり把握できるなら、言質など恐れるものではないはずですが。
> あなたが、最低限の確認を認めたはずながら、『言質』 として今後も嫌がるならその方が奇妙です。 
再三述べているように、如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに、如月の弥さんにとっては“モトカルが機械的に行動している”と見えたということですから、これ自体の約束を求めることは本当は意味がありません。それより、意見の相違点をはっきりさせるために、何が機械的な編集なのか、どう方針を解釈するのかをお互いに確認することが何より大事だったのです。
それに、「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということを最低限の確認にしたいとのことですが、如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません。編集より、議論を優先すべきということかと思いますが、ウィキペディアにおける議論というものは当然ウィキペディアの方針に基いて行なうべきものです。ですから、私がウィキペディアの方針に対する解釈をお互いに再確認する場を設けたにもかかわらず、結局、議論の核心となる部分についての見解を明らかに及されて来なかったのですから、この確認における“議論を優先すべき”ということも、一体何を議論するのか?というのが率直な気持ちです。個別に議論する前に、方針に対する解釈を確認しておくのが物事の順序だと思います。それをあいまいにしたままで、議論することを求めるのには無理があると思います。
そして、再三述べているように、明らかに方針上、問題があり、早急に削除・修正をする必要を感じれば、先にそれを行うのが当然であるし、判断が微妙なものはまず議論するのが当然でしょう。ですから、一律に、“議論をしないで、修正・削除してはならない”とする取り決めであるとすれば、それはかえって、如月の弥さんが批判されていた“ルールによる支配”ということにもなりかねず、それはそれでウィキペディアの方針からも問題になると思います。今回の保護中の事態を見てもわかるように、核心に関わる質問には一切答えず、抽象的な批判に終始し、意図的か否かは別にしても、議論をいつまでも長引かせるような人も実際にいるのですから、合意を得られないからといっていつまでもそのような人の問題ある編集を放置することはできません。ルールの悪用を懸念される如月の弥さんにはこのことを是非考えていただきたいと思います。
如月の弥さんがこのノート(ノート:慰安婦/Archive03)において、「自分の編集が反対されたらノートで議論し、ノートで反対意見がある限り同じ編集は行わない 」というローカルルールに対して、「他人の文をかってに削除してから、自分がリバートをされることを防止しようとまずノートに書けと言い出すのは、ルール以前に不公正だ。だから、他人にルールというものを要求するなら、「始めに削除した項目を復元してから」という主張をされています。結局、この問題もこの時からのものではないかと思います。如月の弥さんが偏った記述をする利用者たちと闘って来られたのはよくわかります。それだけに、そのローカルルールが悪用されないかをよく検討して下さい。
ただ、ウィキペディアの公式方針にあるテンプレートのように、「大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。」というようなものなら納得できると思います。ただし、この「大きな変更」の部分を「ノートでの議論による合意を覆す編集をする場合は」とでもすべきですが・・・
そもそも今回の編集合戦はそれなりの議論の結果に基いて書かれた冒頭文を理由の明記も一切なく、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、・・・」などという偏った記述に書き変えられたことに端を発しているのですから・・・


>わたしは、きちんと混乱せずに続けていく方法を始めから提案していて、その形は変わっていません。あなたの方が、書いている中身が変わっています。検証可能性だった理由が中立のセンス問題になり、原則論という舞台に賛成しつつも事例と混同する。 
事例と混同などしていませんよ。事例を引いて方針の解釈を説明しているだけです。「検証可能性」という側面や「中立的な観点」という側面からそれぞれ検討したのです。そして、その中で事実の指摘であるから独自研究に当たらないが、「中立的な観点」から問題になる記述もあることが明確になったのです。
>全部ひとまとめにしようとすると、いつまで経っても何一つ蓄積が固まらないでしょう。 全体をゆっくり確認しながら進めたいのです。 
でしたら、方針の解釈について明確にしていただく必要があります。ただし、保護の解除は編集合戦を終わらせるためのものです。そもそも私と如月の弥さんとの間では意見は違っても議論は成立しており、編集合戦になったわけではありません。ですから、この議論を続けるのはやぶさかではありませんが、編集合戦となった冒頭文についての議論をまず優先させるべきと思います。

--モトカル 2007年7月7日 (土) 09:34 (UTC)[返信]


やっとまともに、太字の部分と焦点とが合った気がします。

<確認>
>『「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということを最低限の確認にしたいとのことですが、如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』

 それは、用語表現の問題としてですか? 議論の流れの主張ですか? どちらかでいくか私が決めたらいいのですか?
 一度は、相互確認したとあなた自身が軽い形で書いていたはず。

<方針の再確認>
>『結局、議論の核心となる部分についての見解を明らかに及されて来なかったのですから、この確認における“議論を優先すべき”ということも、一体何を議論するのか?というのが率直な気持ちです。個別に議論する前に、方針に対する解釈を確認しておくのが物事の順序だと思います。それをあいまいにしたままで、議論することを求めるのには無理があると思います

 (『議論を優先』という言葉はどこの部分の言葉でしょうか? 私が使ったとしたら本文の記述の編集のノート議論で、内容を含めて議論することですが。) 

> 『方針の解釈について明確にしていただく必要があります』
 後述の<今までのやり取り>に詳細を書きました。
 あなたは始めの方では白石の件について「独自研究」を持ち出したのだけど、それはその形では終了したはず。私の危惧した部分を了解事項と確認して、互いの姿勢を安定するのは自然です。でないと、「あなたが私の姿勢を信じていないのが原因で、話がまともに伝わらない」と予想される。
 それができたら、次章は、再スタートの形を話し合うことから始めるべきだと思います。

<今までのやり取り>
 では、本音が聞けたので、こちらもはっきり書いた方がいいでしょう。

 今までのやり取りの途中から、あなたの書き方ではまともな議論ができるとは思えなくなったからです。
 独自研究の部分で、あなたは独自研究の最後の結末を濁した感じで、中立の基準を使ってきました。それも、誰が判断するかは属人的な要素の強いものです。 これでは、「機械的に一方を掲載し一方を削除してから、議論に入るのが正しい」 という根拠になりません。 それに気付かずに主張するとは。
 だいたい、中立の基準をもって語っていたのは私の方で、あなたはあれこれのやり取りの後、「社会的に正しいかどうかは知らないがウィキペディアが考えているだろうからそれに従う」 とだけの態度を結論と答えていましたよ。 そして細かいルールである「独自研究の条項に従えば、中立の視点からはずれてても、考えなくていい」 という立場を書いていたはずでしょう。 
 また、あなたがそれだけ立場を変えるなら、その時私はどういう位置なのか、を考え直すべきでしょう。とくに、事例はサンプルで、原則が中心なのだから。でもあなたは、そういう自覚も何もなさそうに思えました。これでは、ただの混乱だとしか思えません。
 それも全体が混乱しているときにはわりと起きることですが、私は整理に気をつけて書いていたはずです。
 まともに信用できなくなりました。 

 まあ、あなたが立場を変えてもいいです。私の立場が問題で、だから私の立場は、「機械的な態度で、一時的にせよ、不公平な基準に合わせられる筋合いはない」 ということを、明確にすることに集中しました。 
 あなたがどんな中立感覚を持っていても、それはまずとりあえずどうでもいいです。 元々私の危惧して取り上げたことは 「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認ですから。

   その原則の議論についても、「今、主張しているかどうか」 ということが読めませんでした。 『事例を引いて方針の解釈を説明しているだけです』 というが、「過去にどう思った」というような文は回答になりません。 やり取りの中で考え出した解釈とも関係なく、始めから問題にしている 「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」 として聞いています。
 「どう違うかわからない」 というならともかく、「答えている」 という返事では、前述のことがあるだけに絶望します。

 まあ、成り行きの勢いと量の多さと感覚的な思考のせいだと思いますが、これではいちいち 「考えるとはこのように整理するのだ」 ということを初歩から指導しないといけないと思えて (私もそんなプロではないし)、しかも、毎回のやり取りの往復毎にそれがまた混乱し、それを後で見直してもまとまってつながって見えないだろうから、最終的に整理するときにさらに混乱するのだと思うと、労力を使わされすぎる、と予想しました。
 だから、雛型に沿って整えることを重視し、今回のように最低限の確認を積み上げたいと思ったのです。

 他のことについていちいち答えると分量からして混乱の元だと思うので、まとめるべきときに再提出されるなら答えることにします。

<補足>
 ただ、少しだけ書くと、私がローカルルールを提出しているのではなく、ルールの解釈を絶対の根拠無しに、また社会的良識無しに、振り回されては困る、ということであり、「確実にそれを禁止する」 なんてルールができるはずもないです。 ルールのような形で書いてもね。ローカルルールとして気にするのは、別のルールを振り回したい人でしょう。 
 また、かんたんな一例としては、 あなたが独自研究の解釈を間違っていたのは、もともとは「噂」以上の根拠を持っていないものを「確立した解釈」として信じていたわけでしょう。 また、それを頑固に信じ込んで、結論から条文解釈を出してきていました。そんなふうに、「これは独自研究だ」 という頭でいて、内容議論をして考える姿勢がないのは、「機械的」 に当たります。 白石には掲載資格がないということは、再三、「内容」として書いていたのに、それを読めずに、あとで自分から気がついたようにして気がつくというのは、それまでが「機械的」 だったと思いますよ。
--如月の弥 2007年7月7日 (土) 18:22 (UTC)[返信]

>>如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』
>それは、用語表現の問題としてですか? 議論の流れの主張ですか? どちらかでいくか私が決めたらいいのですか?
「編集方針のうわさ的な解釈」などという定義の曖昧な独自の表現であるということに加え、トピックについての見解を載せる規準や“事実の指摘で「独自研究」には当たらなくても、「中立的な観点」に反する記述もある”というこれまでの方針の解釈における争点になってきた核心部分について、如月の弥さん御自身が見解を明確にされなかったという議論の流れの両方からの理由です。
>(『議論を優先』という言葉はどこの部分の言葉でしょうか? 私が使ったとしたら本文の記述の編集のノート議論で、内容を含めて議論することですが。) 
「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということの確認したいという文章から読み取れることです。
>私の危惧した部分を了解事項と確認して、互いの姿勢を安定するのは自然です。でないと、「あなたが私の姿勢を信じていないのが原因で、話がまともに伝わらない」と予想される。
それならば、私が方針の解釈として示した見解や方針の悪用を危惧した部分についても、如月の弥さん自身の見解も明らかにすべきではないですか?如月の弥さんは御自身の確認したいことばかり、求めて私が求めていることに関しては見解の表明を避けておられるようにしか見えません
>それができたら、次章は、再スタートの形を話し合うことから始めるべきだと思います。
如月の弥さんが御自身の見解を明らかにされれば、そうできるでしょう。
>独自研究の部分で、あなたは独自研究の最後の結末を濁した感じで、中立の基準を使ってきました。
それも、誰が判断するかは属人的な要素の強いものです。 これでは、「機械的に一方を掲載し一方を削除してから、議論に入るのが正しい」 という根拠になりません。 
「独自研究」の方針については確かに少し理解が不十分であったところもあります。単なる事実の指摘であれば「独自研究」に当たらないと言えると思います。しかし、事実の指摘と本人が思っても、主観や誤謬が入り込む可能性があること、事実の指摘であるため「独自研究」に当たらないとしても、「中立的な観点」に反する記述もあるということは実に重要な点だと思います。
>だいたい、中立の基準をもって語っていたのは私の方で、あなたはあれこれのやり取りの後、「社会的に正しいかどうかは知らないがウィキペディアが考えているだろうからそれに従う」 とだけの態度を結論と答えていましたよ。 
如月の弥さんのここで使われる“中立の基準”はウィキペディアの「中立的な観点」の方針でいう中立的とは違います。如月の弥さんはある見解についての指摘を掲載する基準とある見解を残すという基準についての公平性を問題にして来られたように思います。ウィキペディアにはそのような中立性については語られていないと思います。「中立的な観点」の方針でいう“中立的である「特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりしない」ということです。どうも如月の弥さんは個別の記述の客観性を重視して、「中立的な観点で記述する」という記事全体的な観点をあまり考慮しておられないように思います。再三述べているように、「中立的な観点」に外れるものとして「ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。」と述べていることからわかるように、ウィキペディアは個別の記述の客観性よりも、「中立的な観点で記述する」ことを最重要に置いていると思います。
>細かいルールである「独自研究の条項に従えば、中立の視点からはずれてても、考えなくていい」 という立場を書いていたはずでしょう。 
「論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。ということだと推測できます。」と述べておられました。
しかし、「『独自研究は載せない』の方針はこれらの方針はほかの二つ(『中立的な観点』、『検証可能性』)と切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。」とされており、「ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合」は「中立的な観点」に立っていないとされています。「中立の視点からはずれてても、考えなくていい」などというのは方針に対する大きな誤解で、これこそ、如月の弥さんの言う「編集方針のうわさ的な解釈」でしょう?三大方針の一つにでも反していれば載せられないのは当然ではないですか?
>あなたがそれだけ立場を変えるなら、その時私はどういう位置なのか、を考え直すべきでしょう。
個人的解釈をふくまず、単なる事実の指摘に止まれば「独自研究」には当たらないこと、白石論文について、「個人のブログ」に類するものと見なせるという点については考えを変えましたが、掲載の基準や「中立的な観点」の方針に対する解釈、編集と議論の関係など、基本的な立場は変わっていません。
>事例はサンプルで、原則が中心なのだから。でもあなたは、そういう自覚も何もなさそうに思えました。これでは、ただの混乱だとしか思えません。
抽象的な議論でなく、具体的な事例で考えてこそ、方針を実際にどう適用すべきかがわかるものでしょう。
>私の立場は、「機械的な態度で、一時的にせよ、不公平な基準に合わせられる筋合いはない」 ということを、明確にすることに集中しました。 
如月の弥さんと私のすれ違いは如月の弥さんが不公平な基準という観点で見ておられるからだと思います。方針の解釈の“結果として”如月の弥さんが不公平と感じたのですから、方針の解釈に対して異議を唱えるべきなのです。そこを見間違うと議論になりません。


>他のことについていちいち答えると分量からして混乱の元だと思うので、まとめるべきときに再提出されるなら答えることにします。
>あなたがどんな中立感覚を持っていても、それはまずとりあえずどうでもいいです。 
その考えはおかしいでしょう。編集における対立を解決するために、方針の解釈をすり合わせるということをやってきたのですから、相手の方針に対する解釈に異議があれば、方針を根拠にそれを示すべきです。
解答によって、相手の見解がより明らかになり、その上でそれに同意できる部分、同意できない部分というのを更に明らかにしてゆくというのが議論の進め方というものではないですか?そうしないで、議論を避けるなら、議論は少しも深まりませんし、結局は、相手の見解に方針を根拠に反論できないから、解答を避けていると見なされてもしかたありません。
>元々私の危惧して取り上げたことは 「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認ですから。
>「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」 として聞いています
ある見解についてウィキペディアの立場で論証するということであれば、まず「独自研究は載せない」の方針から、個人的解釈を含むものか事実の指摘であるのかを検討すべきでしょう。しかし、事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないとしても、「中立的な観点」による記述を損なうようであれば、そのような指摘をすることは問題になると思います。これが現在の立場です。
>私がローカルルールを提出しているのではなく、ルールの解釈を絶対の根拠無しに、また社会的良識無しに、振り回されては困る、ということであり、「確実にそれを禁止する」 なんてルールができるはずもないです。
“社会的良識”に外れたことなどを主張したりはしていませんので、そういう言い方をなさらないで下さい。「確実にそれを禁止する」などは言っておりませんし、ルールを振り回しているつもりもありません。先にも述べたように、そのような見方が誤解のもとなのです。すべては方針の解釈の違いから来ているので、如月の弥さん自身も方針はこのように解釈すべきと御自身の見解を明らかにされればいいだけであって、そのような感情的な見方は生産的な議論を生みません。
>あなたが独自研究の解釈を間違っていたのは、もともとは「噂」以上の根拠を持っていないものを「確立した解釈」として信じていたわけでしょう。 また、それを頑固に信じ込んで、結論から条文解釈を出してきて「これは独自研究だ」 という頭でいて、内容議論をして考える姿勢がないのは、「機械的」 に当たります。
内容を考えなかったのではなく、方針の読み方(解釈)の問題です。 如月の弥さんも「中立の視点からはずれてても、考えなくていい」など本気で信じておられるなら、これも同じことでしょう?
>白石には掲載資格がないということは、再三、「内容」として書いていたのに、それを読めずに、あとで自分から気がついたようにして気がつくというのは、それまでが「機械的」 だったと思いますよ。
如月の弥さんは白石論文について、「致命的に根拠に欠ける」、「デマと確認できる」などという理由から掲載資格がないとされていたでしょう。私は出典の種類という観点から「個人のブログ」と見なせるとしただけで、如月の弥さんの仰るようような、”その見解に根拠がない”という理由では掲載資格がないとはできないと今でも考えています。
>いちいち 「考えるとはこのように整理するのだ」 ということを初歩から指導しないといけないと思えて  だから、雛型に沿って整えることを重視し、今回のように最低限の確認を積み上げたいと思ったのです。
如月の弥さんも一方的に相手の意思を確認するだけでなく、以下の私の方針の解釈に対する見解を是非、明らかにして下さい。それなし、議論しても堂々めぐりにしかなりませんので・・・
m1、あるトピックについての見解(主張)に対して、根拠がないという理由では掲載資格がないとはできない
m2、事実を指摘しながらもそこに個人的な解釈を加えれば、「独自研究」に当たる
m3、事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないとしても、「中立的な観点」による記述を損なうような記述はするべきでない
m4、あるトピックについての見解(主張)に対して、事実の指摘であれば無条件に書いてよいとすることは、その見解の妥当性や信憑性を自分の好むように上げたり、下げたりする示唆になる悪用的記述に正当性を与えてしまう可能性がある。

--モトカル 2007年7月8日 (日) 05:25 (UTC)[返信]

 区切り [編集]

 始めに。
 m1~4があなたの本心の「継続できる基本」だとは今回だけではあてにならない。今までのやり取りについての私の不満にまったく答えていないし理解力もない。ただ今までと同じパターンでずれているだけだ。 その混乱を解消しないと、あなたの書く基本が基本として信用できず、したがって手順としてあてにならない。

 あなたの書き方を読んだ結論。
 あなたの書いたことにいちいちまともに返事をすると、一つ一つのことについて、やっぱり、二回以上も往復してからあなたの錯覚と迷いを除いてから話の焦点が合い、次の段階で再びずれを戻して、・・と続いていくしかない。
 あなたがどういう風に混乱しているかを書くと、そんなつもりではないと返すが、もともとその脈絡がずれていることは考えないでその文を終える。 それで反論が終わった気になって、あなたは回を置いて確認せずに、継ぎ目無くそれを自分の主張としている。 答えたふりをしてこちらを切り捨てているのと同じだ。 
 全体として、何が立場の中心かも、借り物を使って流れていくだけでしかないので明確にはならない。 
 それを多項目に渡っていちいち指摘し直すように書いていたらきりがない。
 了解点から再出発するのではなく、自分が先走って総合的結論をいつも主張する。 そして、途中確認を明確にしたがらない。 私の書き込み意図が通じずにずれている部分は別としても、他にも、「一歩も引きたくない」 あるいは「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 という硬直したことばを繰り返しているだけだ。
 始めから結論を決めているか、結論を戦わせる方法しか知らないようだ。 あるいは、理解によって妥協して結論するのでなく、結論の妥協によって理解するしか知らない。 今なぜこういう話をしているのかについての基本を相互確認する思考方法がない。
 あなたと確認の会話しても時間の無駄。最小限の確認以降、もう少し語れるかと思ったが、ほぼ無意味。 あとは、原則については、どうせまた中立の後は、別の何かに変化するだろうから、最終的には年月をかけて書いていくしかない。毎回ずれまくることを蜘蛛の巣を辿るように一つ一つ解きながら進むから。

 あとは、新章ですることにします。
 だから、この小節でいったん打ち切りを宣言する。
 以下は、確認しあったはずのこと。

『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していない。
『(X2)ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありません』 
 

 それ以外の宿題については、以下へ
--以上の署名のないコメントは、如月の弥会話投稿記録)さんが 2007年7月8日 (日) 16:33 (UTC) に投稿したものです(モトカルによる付記)。[返信]

>「一歩も引きたくない」 あるいは「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 という硬直したことばを繰り返しているだけだ。
そのような発言はしていません。他人の発言を恣意的に変えて表現しないで下さい。私の発言はノートに残っているのですから、ご自身の信頼を失うだけです。私たちは別にケンカしているわけでもなく、相手を打ち負かすことを目的としているわけでもなく、記事の改善のために、共同執筆者として会議するのだという最初に述べた前提をどうか忘れないで下さい。
「一歩も引きたくない」とか「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 などという発言も、そのような趣旨の発言もしていません。実際の発言は以下です。
    • 言質を取りたかった私の解答のみをよしとして、今回の議論の焦点であったはずの上記の問題点について御自身の解釈を明らかにされないままですし、更にまた御自身の求める、“ルールの解釈を議論に優先しないことの約束を取りつける”ことで議論を終了しようとされています。これは大変残念なことです。
    • 如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに、如月の弥さんにとっては“モトカルが機械的に行動している”と見えたということですから、これ自体の約束を求めることは本当は意味がありません。
    • 如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません。
結局、互いの見解を確認し合い、疑問点や誤解を解き、同意できる点、できない点をはっきりさせるというきちんとした議論の手順を踏まないまま、方針に対する自身の見解さえ明らかにしない相手の出した確認事項に同意することは意味がないし、そんな安易なことはできないということです。国会で言えば、十分審議を尽さず、法案の意義や問題点などがまだ確認できていない中で、法案の賛否を求められているようなものです。まして、「編集方針のうわさ的な解釈」などという編集方針の正しい解釈が明確にされていなければ言えない言葉を含んでいるのですから・・・
>m1~4があなたの本心の「継続できる基本」だとは今回だけではあてにならない。
わたしが如月の弥さんの発言に対する理解力もないと批判されますが、如月の弥さんも私の発言意図を理解しておられないと言えます。m1~4は私が「継続できる基本」だと述べているのではなく、これまで争点になってきた問題についての現時点での私の解釈をまとめたものであって、これに対して如月の弥さん自身の見解を聞いているのです。如月の弥さんが方針に基いて異議を語り、それが納得できるものであれば、解釈を修正する余地は含んでいるのであって、私が何が何でも継続しなければならないものではありません。この節自体がそのように方針に対する解釈を再確認し、すり合わせるために議論する目的であること、自分の解釈が絶対正しいと言う前提ではないことは最初から述べているのに、それを未だに理解して頂いてないようですね。
>了解点から再出発するのではなく、自分が先走って総合的結論をいつも主張する。 
総合的結論ではなく、最初から書いているように、現時点での方針の解釈を述べているので、それに異議があれば、自分は方針をこう解釈するということを述べればいいだけなのに、いつもそこを避けておられるようにしか見えません。
>そして、途中確認を明確にしたがらない。 
そんなことはありません。如月の弥さんの望む答えではないことは別にして今まで質問には答えて来ていますし、むしろこちらからの途中確認にほとんど答えてこなかったのが如月の弥さんの方ではないですか?自分のしたい確認だけを求めてて、相手の確認には答えないのは正に不公平ということにならないでしょうか?それが多くの行き違いの原因の一つだと思います。--モトカル 2007年7月8日 (日) 10:22 (UTC)[返信]


 次章に続けずにここに書いたということで、とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。
>『如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに』
 被害妄想だ。私が迫った結果の成果だなどとは匂いほども書いていない。:: あなたは、『そのようなつもりなどなく行動してきている』と書きつつ、確認を阻止しようとする。 それも、(X1)(X2)の文にはない言葉を使って、『独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』 と理由づける。
 せっかく次章まで準備して、反論を継続したければ、書き込んで要求すればいい形を準備したのに、これだけ単純なことさえも、認めない。
 あなたは、最終的に勝つか負けるかしない限り、合意を積み上げる頭を持たない人だということはよくわかった。
 念のために書くけど、次章を準備しているのだから、そこに提案内容として不満を書き続けることは続ければいい。 しかし、それに気付かなかったのではなく、「とにかく、何かの合意を出すことが、最終決着まではいやだ」 ということだろう。
 次章で答えてもいいが、しかし、流された形に付き合うつもりはない。あらためて、継続できる基本を確認し合ってからだ。

--如月の弥 2007年7月8日 (日) 13:29 (UTC)[返信]

>次章に続けずにここに書いたということで、とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。
議論が堂々めぐりになるから私の方針の解釈に対する見解を是非、明らかにして下さいと再三お願いしているのに、このような質問には一貫してスルーされていますね。それなのに、ご自身が確認したいことだけは再三確認を求められています。それに、私は実際、確認を遮ってなどおらず、 (X1)、(X2)については最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのだからこれ自体の約束を求めることは今更意味がないと言っているだけで、認めないなどとは言っていないのですよ。それに「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認、「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」の確認について、現在の立場はこうであると先回きちんと述べていますし、「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」という最低限の確認についても現時点では同意できないことをきちんと理由を述べて如月の弥さんの確認に答えています
それに対して、如月の弥さんの方は私が求めた確認には同意できるとも、できないとも賛否すら述べずに、ことごとく確認をスルーしているではないですか?自分のことは棚に上げて、「とにかく、何かの合意を出すことが、最終決着まではいやだということだろう。」とか「とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。」などというような事実と違う発言をなさるようではまともな議論は現時点では無理だと思いました。私は議論においてはなるべく玉虫色ではなく明確にすべき所はすべきと思うので、それが如月の弥さんにとっては追い詰められているという感じを持たれるところがあったかもしれません。今のまま議論してもよい結果は得られないと思いますので、この論議はしばらく置いて、少しクールダウンするために、ウィキブレイクでも取られるのも一つの選択枝であることをお節介ながら申しあげます。これに対する解答も求めませんし、私もしばらく如月の弥さんの発言に解答を控えようと思います。--モトカル 2007年7月8日 (日) 16:19 (UTC)[返信]


>『追い詰められているという感じを持たれるところがあったかもしれません』
 ほら、そういう図式で見ていますね。

 私は、あなたがルールの名で機械的な態度を正当化しなければいいのであり (独自検証のときのような、内容を読みもしない頑固な態度を、一般に正当化すること)、別にやめても困りません。
 再出発の形で整理し直せるだけだしね。
--如月の弥 2007年7月9日 (月) 10:28 (UTC)[返信]

 第2-1周期 [編集]

 週一ていどにゆっくり書きます。
 まず、基本的論点を確認することが重要です。
--以上の署名のないコメントは、如月の弥会話投稿記録)さんが 2007年7月8日 (日) 16:17 (UTC) に投稿したものです(モトカルによる付記)。[返信]