ノート:後藤勝基

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父は誰か?[編集]

詳しくは存じ上げないのですが、 美作後藤氏のページでは勝基の父は勝政、祖父が勝国とあります。 ところがこのページには父が勝国、祖父が勝政とあります。 どちらかが間違っているはずですのでここに注記しておきます。 --カラジチ 2010年2月7日 (日) 06:36 (UTC)[返信]

後藤勝基(ごとうかつもと、1537年(天文6年)-1579年(天正7年))は、戦国時代_(日本)美作国の武将。後藤家を全盛期にし、安東、江見、小坂田などの土豪を勢力に新たに入れた。

後藤家は南北朝時代_(日本)から戦国時代_(日本)にかけての2百年間、三星城を居城とした。勝基もその代々守ってきた三星城を父、後藤勝政から譲り受けた。

勝基が当主となって時が経ち、尼子の力が衰えはじめたので同じ美作国の浦上と組んで尼子の支城の林野城攻めるが、反撃をくらって失敗に終わったが、しかし尼子の武将の川副久盛出雲国に引き揚げたので手中に治めることができた。

1565年(永禄8年)、かつて宇喜多直家を撃ち破ったことのある三村家親に攻められるが、宇喜多の援軍もあり、これを退ける。そして、ついに勝基は、1566年(永禄9年)から、死ぬまで東美作を完全に掌握した。

しかし、舅の直家が美作国の侵略を目論んでいたので、関係は険悪になる。そして、1577年(天正5年)、宇喜多直家が主君浦上氏を居城天神山城で滅ぼすと、情勢は一変、勢いに乗った直家は破竹の勢いで、大軍をもって美作国への侵攻を始める。

まずは、勝基が守る三星城の隣の茶白山城を攻め落とす。1579年(天正7年)3月、ついに三星城に攻め寄せてくる、宇喜多方は、延原、花房を大将とする大軍だった。勝基は、よく守ったが宇喜多の調略、火攻めによって、支えきれずに敗走、同年5月に、三星城は陥落、勝基は、大庵寺にて自害、42年の一生を終える。

勝基の墓は三星城址の五輪塔にある。