ノート:往生要集

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参考文献の削除について[編集]

報告
本記事『往生要集』を編集する際に引用・参照した文献と考えられるのは、以下の3冊と考えられます。
1. Ziksyさんの編集2006年12月27日 (水) 01:36時点における版 - 「*花山信勝訳註『往生要集』(岩波文庫青316-1、1942年ISBN 4-00-333161-3」 - 2009年1月19日20:50にIP:61.46.180.74会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisにより、上記書籍のISBNが削除されています[1]
Ziksyさんのさんは、花山信勝訳註『往生要集』1942年刊としていますが、ISBN 4-00-333161-3[2]・岩波文庫 青316-1から考えると1992年初版の物を参照したと考えられます。また編集内容からしてISBN 4-00-333162-1[3]・岩波文庫 下巻 青316-2も参照していると考えられるため下記の書籍に修正しました。
  • 石田瑞麿 訳註 『往生要集』上巻、岩波書店〈岩波文庫 青316-1〉、1992年。ISBN ISBN 4-00-333161-3
  • 石田瑞麿 訳註 『往生要集』下巻、岩波書店〈岩波文庫 青316-2〉、1992年。ISBN ISBN 4-00-333162-1
もし、花山信勝訳註『往生要集』1942年刊を用いたのであれば、下記の書籍を用いたと考えられます。刊行年に差異があります。
  • 花山信勝訳註 『往生要集』 岩波書店〈岩波文庫;2992-2996〉、1949年。[4]
2.Resto1578の編集2008年8月19日 (火) 12:08時点における版
  • 黒田覚忍 著 『はじめて学ぶ七高僧 -親鸞聖人と七高僧の教え-』 本願寺出版社、2004年。ISBN 4-89416-268-5
?. 履歴から記事を書く際に引用・参照したとは考えにくい文献
2009年1月19日20:50にIP:61.46.180.74会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisにより数冊の文献が「参考文献」に追加され、2010年7月11日 (日) 04:23にIP:123.222.41.170会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisにより追加されていますが、編集に用いた痕跡が無く、編集する際に引用・参照した文献とは考えれにくいため、ガイドラインWikipedia:レイアウトの指針#参考文献」に基づき削除しました[5]
また、参考文献は「(執筆者が)記事を編集する際に引用・参照した文献」を記入する欄です。「のちにワイド版」等のコメントは不要です。参照ページなどがある場合は、編集する際に用いた文献と改訂版などでは、引用・参照ぺーじに変更がある場合があり、その場合出典の破壊・混乱を招きます。
削除された文献について、復帰させる場合は「どの記述」について「何の参考文献」を用いたか、下記にコメントしてください。--Resto1578 2010年7月13日 (火) 16:42 (UTC)[返信]

山折哲雄の個人的見解と思われる記述を一般論として記述していたことについて[編集]

出典つきの記述が削除されたので、あるいは議論が起こるかもしれないと思い、ここに問題提起をしておきたいと思います。

本項には出典つきで、

源信の構想する念仏には観想対象としての仏と、救済するための仏が併存しており、その矛盾的な対立は解消できていない。

とする記述がありましたが、そもそもこれは、観想念仏と阿弥陀仏の唯心的解釈(阿弥陀仏は心の中の存在にすぎない)は不可分であるはずだという誤解に基づいた記述のように思えます。彼の著作は一般書的で、「山折哲雄は…と考えている。」という限定なしに、さも仏教学で通説であるかのように記述するのは不適切ではないでしょうか。--Ryo 625会話2018年8月28日 (火) 15:34 (UTC)[返信]