ノート:庄資昭

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

Hajimari さんへ

記載で気になる部分があります。

1.備中国小田郡(現岡山県倉敷市)との記載ですが、確かに庄氏の活動地域は現在の両者の境界付近でありますので、並記は適当と思いますが、小田郡=倉敷市と言うのは一致はしていないのです。いかがでしょう。

2.系図には庄資政の後に名が記されているが、実父は庄資氏幸山城2代城主)と見られ、資政(資氏の弟)は義父と考えられる。資氏と資政は、共に南朝に属して活躍した武将である。資昭の子息は、庄氏貞庄資定が見られる。系図に「資定 信濃」とある事から、子息の1人は東へ移住したものと見られる。

これの出典の作成時代はいつ頃のものになりますか...。江戸時代の感覚では、後継=養子ですが、それ以前では権力の簒奪や、体裁の変更であったことを意味している場合もあります。 また信濃と言うのは官職名の可能性はないですか?


ところで系図の 資房~ 資氏  資政 資昭 氏貞 このあたりですが

幕府→南朝→北朝へと主を変えてますので、個人的にはそれぞれの支持母体(一門衆)が違っていてもいいのではないかと思っています。いかがでしょう。--8888aa8888 2009年7月24日 (金) 12:50 (UTC)[返信]