ノート:岩本徹三

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

生年は「日本海軍航空隊のエース」という本でも1916年となってました。--代言人(!) 2006年3月7日 (火) 07:22 (UTC)[返信]

実在したニュータイプ?[編集]

現在では実在したニュータイプとして伝説となっている。

これは、独自の研究ではないのでしょうか? 架空の概念であるニュータイプに実在も何もないと思いますが。--KoZ 2006年11月21日 (火) 08:08 (UTC)[返信]

ですね。このとこ微妙に過熱気味というか、ファン活動と事典書きを混同してるような雰囲気があるので、皆様どうぞご冷静に。219.97.90.105 2006年11月28日 (火) 04:01 (UTC)[返信]

事実を、記述タグの知識を[編集]

柴田武雄 元海軍大佐(最終階級)は日本海軍戦闘機隊を二流時代から努力して空戦技術、戦闘機性能への設計者への提言、アドバイスなどで一貫として努力し、世界一流に立ち上げられた方で、旋転戦法の提唱者。堀越技師に零戦の翼について仕様でお願いしたことでも有名な方。この方の周囲にはキラ星のような名パイロットが多数存在。日中戦争時代およびラバウル時代の上司。八木 元中佐(最終階級)ではありません。零戦撃墜王 今日の話題社 新装単行本巻末をご覧ください。

本人は海上自衛隊には参加していません。参照が追加されていたので、削除しました。 参照の日本語「いわもとてつそう」、となっていたので「いわもとてつぞう」となおしました。

タグに馴れていない方は修正を控えてください。本文と脚注が大きく入り乱れて崩されていましたので今回だけ手直ししました。

出生[編集]

零戦撃墜王新装版(今日の話題社, ISBN 4-87565-121-8)昭和61年2月25日発行 こちらの巻末、岩本幸子氏の「亡夫岩本徹三の思い出」によれば、 “大正六年樺太の国境近くで生まれました”と明記されています。


生まれたのが大正5年(1916年)6月、について

なくなられたのは昭和30年(1955年)5月20日で38歳。

戦功者を調査した本、『日本陸海軍航空英雄列伝』押尾一彦・野原茂著(光人社, ISBN 4-7698-0992-1)2001年3月16日、には「大正5年6月14日樺太で生まれた」と書いてあります。

ここからは推測ですが、焼け残った海軍の公文書など(各航空隊の行動調書、戦闘詳報、功績現認書、新聞記事、日記、回想録、戦記)からの引用だとおもっています。ところでこの本、生まれた日をどうして知っているのでしょう?

大正5年なら1916年、なくなられたのが38歳、あと1ヶ月で39歳。農林学校卒業が18歳。

  • 大正6年だと1917年、なくなられたのが37歳(6月で38歳)、農林学校卒業17歳になる気がする。

--Su root 2007年2月12日 (月) 04:27 (UTC)[返信]

前出を書いた者です。 奥様が「大正6年生まれ」そう言っているのに、 なんで大正5年生まれ記述なのかなぁと単純な疑問からです。 奥様の記述では、生まれた月日までは明記されていません。

戦時中はまだ“かぞえ”で年齢をかぞえていた場合がありますから、 現代より1歳年上の場合もあるかと思います。

海軍の方ですから、そのあたりの資料には正しいものが明記されているのでしょうが。 なかなかそのような資料に触れる機会が無く。 他力本願で申し訳ありません。

IPで編集しているひとへ[編集]

搭乗員は複戦なら戦闘機偵察員もいます。奥さんの感想を本人の感想にしないでください。あとアカウントをとってください。お話が出来ません。--横見会話2012年4月16日 (月) 10:36 (UTC)[返信]

再三この表記を消去しているのは、岩本元中尉についての記述じゃないからです。岩本家男子への迷信的不安感を書いてるだけだから。敵がかわいそうなのは第三者の感想。大型のイヌも基地のイヌか彼のイヌか不明です(光基地では夜勤の条件としておにぎりの特配が要求された時代です)。とにかく、議論の前提としてアカウントをとってください。--横見会話2012年5月10日 (木) 11:39 (UTC)[返信]