ノート:山本勘助

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

加筆の趣旨[編集]

大幅に加筆しました。生涯の節のベースは甲陽軍鑑です。当り前ですが創作でしょう。フィクションなので年次もそのままにしています。上田原の戦いを天文17年(1548年)に直すとかしないほうがいいです、話の流れがおかしくなり始めます。この節に書くのは甲陽軍鑑と江戸時代の軍記物語その他文学や伝承の類として、近代の小説、例えば井上靖の小説とかは触れない方がいいと思います。

「近年の主な作品の山本勘助」の節を設けて井上靖の小説と来年の大河ドラマに描かれる山本勘助についてやや詳しく書いてますました。こういうものは必要ないと思われる方もございましょうが、これは意図的にやってます。わたしは大河ドラマが好きでして、先日発売のムック本などを読んだ結果、来年の大河ドラマは視聴率はともかく内容的にはかなり行けるかもという感触を持ってます。熱心なファンが出てくるのではないかと。そうなると、ドラマの設定を本文に書く、あまつさえドラマの設定に書き換えてしまう人が出てこないとは限らない。というか、そういう人はいます。何件か目撃してます。たぶん、ご本人に悪気はないのでしょうが、なかなか思い切ったことをしてくれます。そういう方を誘導する意味で、この節をあえて設けました。ドラマを観ただけで、本とか何かで裏取りせずに何かを書き込む場合は、どうかこの節にお願いします。わたしは今のところ全話をDVDに録画して保存する予定ですので、ドラマの内容かどうか確認はできます。まあ、始まって蓋を開けたら「利家とまつ」みたいな作品だったら録画は止めますけど。本文に編集された内容が明らかにドラマの設定なら、こっちの節へ移させて頂きたいと思います。この方が消すだ消さないで編集合戦になるより、マシな処置かと。

大河ドラマ放送終了後の処置ですが、わたしの心配しすぎで、別段のその手の編集もなされない場合は、私のほうで甲陽軍鑑との相違点を中心に手短に書いておきます。逆にいろいろ書かれて長くなれば節の文章を「風林火山 (NHK大河ドラマ)」のあらすじと統合させてはどうかと。その場合は井上靖の小説についての記述も「風林火山 (小説)」と統合させてはどうかと思います。以上、加筆の趣旨でした。--味っ子 2006年12月23日 (土) 04:03 (UTC)[返信]

何故か大河ドラマの内容を実況中継なさっている方がいますが、そちらは必要ありませんから記述は簡単にして下さい。立つのかよ 2007年2月10日 (土) 17:01 (UTC)[返信]
「必要なし」と言われてコメントアウトされましたが、あれを書いたのはわたしです。わたしは「必要ある」と思って書きました。理由は上の加筆の趣旨の文章にもあるとおり、ドラマを観ただけで本文にドラマの設定を書き込む人たちを誘導するためです。そして、現実に先日、本文をドラマの設定に書き換えられてしまいました。私のほうで治して、そのドラマの設定の文章を作品の節に移したのですが、どうにも文章のつながりが悪いので、書き足したら少し長くなりました。書いた文章を生かしてあげますから、多少は書いた方のプライドも傷つかないかと。人間心理として高飛車に消されると怒りますから。こうする方が消すだ消さないだで編集合戦をするよりはマシな方法かと思います(編集合戦になると管理者に介入されて半年、1年は保護ですね)。大河ドラマの放送が終了したら、文章を大河ドラマの方の項目に「あらすじ」として統合しようかと思います。あと、実際(というか江戸時代の軍談)の山本勘助と有名な近年の作品の山本勘助がどうなっているかを比べるのは割合に重要なことかと思います。通常の百科事典と違って紙幅や予算の制限がありませんから。こうしてはどうかと思います。次に本文をドラマの設定に書き換えられたら、コメントアウトされた部分を復旧することにして、作品の節は大河放送中の隔離場と考えてください。その辺の処理は言い出したわたしがやります。--味っ子 2007年2月10日 (土) 20:43 (UTC)[返信]
あの内容ですと大河ドラマの内容を実況中継する人間が出てくると判断出来たので、「必要なし」と記述しました。簡単なあらすじで説明するだけで十分ですし、それに大河ドラマの内容を実況中継したければ、個人のブログなどで行ってもらいたいと思います。そう思ってコメント化しました。大河ドラマは大河ドラマの記事の方で記述し、山本勘助の記事にはあらすじを記述するだけで十分かと思います。上記で述べている、作品比較がしたいのであれば別に項目を作成し記述すれば宜しいと思います。立つのかよ 2007年2月11日 (日) 12:50 (UTC)[返信]
立つのかよ様、わたしはどうせ紙幅に制限がないのだから多少長くても本文を凌駕しなければ構わないと思う口ですね。それと、あながち必要がないとも思いません、ドラマや小説に興味がない方は単に読み飛ばせばいいし、逆に近年の創作物に関心のある方にはかなり重要な情報と考えます。見解の相違ですね。それと、ドラマの設定が別に書いていることによって肝心の冒頭概略部分や生涯の節をドラマの設定に書き換えられることを防ぐ効果があるのではないかと考えました。こちらをドラマの設定に書き換えられる方が近代の作品の説が多少長くなるより被害は甚大です。そこで、消すだ消さないだでもめるよりは穏当な方策と考えます。あと、別に項目(この場合は「甲陽軍鑑の山本勘助と大河ドラマの山本勘助」という項目でしょうか?)をつくるのは日本語版の雰囲気では逆に文句が出てこの項目か、大河ドラマにでも統合しろともめるのが落ちでしょう。とりあえず、立つのかよ様のご処置の通りにしておいて構いません。そして、今後、肝心の冒頭概略や生涯の節をまたドラマの設定に書き換えられたら、いったん、コメントアウト部を復帰させてみたいと思います。ドラマの設定がこちらに吸収されればマシな状態かと。それでも、効果がなければ別の方策を考えてみます。--味っ子 2007年2月11日 (日) 20:26 (UTC)[返信]

架空の人物の出生地に異常にこだわる豊橋市民が、NHKに抗議はおかしい[編集]

山本勘助に詳しい小和田哲男・静岡大教育学部教授(日本史)の話

 残存する文献の質から見て富士宮の信ぴょう性が高いが、賀茂や豊川などの説があるのも確か。生誕地については、研究者の間に富士宮や賀茂のほか、同県豊川市など諸説がある。勘助生誕地を名乗る愛知県豊橋市賀茂小学校区の住民が反発している。

豊橋生誕説の初見は、牛窪密談記という甲陽軍艦以後に書かれた地元住民の資料なんだよな。武田氏とは何の関係もない。

甲陽軍艦は、武田氏の家臣の小幡景憲の著作だから、こっちのほうがまだ信用できる。武田氏は甲州人なんだから、甲州人をまず信用すべきで、豊橋・豊川人(東三河)の言うことを信用すべきではない。--以上の署名のないコメントは、219.125.236.134会話/Whois)さんが 2007年2月8日 (木) 04:44‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]

NHKのHPに回答がありました!![編集]

山本勘助の生誕地には諸説あると聞きましたが、ドラマではどうして「駿河富士宮」を生誕地としているのですか?

 ご質問のように、山本勘助の生誕地については、愛知県豊橋市賀茂、豊川市牛久保、新城市黒田など諸説あります。これは、勘助がどこで生まれたのかが分かる決定的な史料が残っていないからです。それぞれの地で「勘助の生誕地である」と信じられています。    しかしながら、ドラマの中では主人公の生誕地を“未詳”とする訳にはいきません。そこで、専門家の意見などを参考にして検討した結果、現在、「信憑性が高いであろう」と言われている駿河富士宮(今の静岡県富士宮市)を生誕地として設定しました。あくまで、ドラマ上の設定であるということでご理解ください。

↑江戸時代の東三河の国学者などによる捏造ですので、NHKは取り上げる必要はありません。専門家の意見は、正しいですよ。

『牛久保密談記』に「八名郡加茂郷ニテ出生」、『三河国二葉松』に「加茂村照山古城 此所出生」、『三河志』に「加茂出生也という、『三河堤』にいう牛久保出生は誤りなり」とある。また『八名郡誌(大正15年4月)』は、詳しく説明している。

 山本家の本家の家伝(家歴書)に「父貞幸は吉野家の所領のある三河の加茂に落ち着き大橋入道の娘を娶(めと)り3男2女に恵まれ末子源助が勘助になった」と記録されているという。

 『三河国宝飯郡誌』『八名郡誌』『豊川市史』のいずれも賀茂村の出生としている。また「勘助愛用の茶釜一式」が『八名郡誌』にあり、いまは嵩山正宗寺の寺宝となっている。

 賀茂町を出生地とする文献は、他所に勝り、そのうえ勘助愛用の茶釜もあり、説明板文に賀茂出生を理論付け、豊橋市は大声で賀茂なりと叫んでほしい。

↑時代を追うごとに、尾ひれが付いて、話しがややこしくなっている。どんどん、エピソードを追加して詳細になっていくところが、人為的な手が加えられている捏造の証拠。重要なのは、一番最初がどうだったかというところで、甲陽軍艦では三河国牛窪ですので、豊橋市(八名郡賀茂)出生説はまったくもって意味不明です。牛窪密談記の著者の創作の可能性がありますね。--以上の署名のないコメントは、221.119.62.126会話/Whois)さんが 2007年2月21日 (水) 20:59‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]

テレビ朝日の風林火山[編集]

「板垣信方を襲わせた云々」は,2006年の1月に放送された、テレビ朝日の風林火山のドラマの脚本だったと思います。
編集する前に史実とドラマ、または歴史小説等の設定との混同にはお気を付けを。--諏訪太郎頼光 2007年2月4日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

朝日新聞「天声人語」の記述から?[編集]

昭和44年(1969年)北海道釧路市在住の大河ドラマ「天と地と」の視聴者がいた。先祖は米沢藩士であり、信濃国の国人の家系で戦国時代には武田家にも属していた。明治になって屯田兵として北海道へ移住しており、家には先祖伝来の古文書が残されていた。史料的な価値があるものがあるかもしれないと思い、戦国時代のものと思われる一通の書状を探し出して、鑑定に出したところ真物と確認された。その書状には「山本菅助」の名があった。『市川文書』と呼ばれるこの書状の発見によって、実在そのものが疑われていた山本勘助の存在が確認された。
2006年12月23日 (土) 01:37; 味っ子 (ノート | 投稿記録) による版

これは、朝日新聞の朝刊「天声人語」で載った記述とほぼ同じです。--Soregashi 2007年2月28日 (水) 19:47 (UTC)[返信]

Soregashiさん。そんなバカな。これはわたしのオリジナルの文章です。わたしは朝日なんて取ってませんし、うちは読売です。「天声人語」なんて読んでません。いったい何年何月何日号の「天声人語」ですか?ぜひ確認したい。--味っ子 2007年2月28日 (水) 20:35 (UTC)[返信]
すいません、もっと分かりやすく書くべきでした。
朝日新聞の記事では「昭和44年」「北海道在住」「大河ドラマ『天と地と』」「視聴者」「屯田兵」など載っていました。私自身、「市河文書」についてそれまで知らず、記事でその存在を初めて知りました。そしてWikipediaに記述された記事を昨日読んで、そっくりだと思い指摘したのです。
一応、記事を必死に探してみましたが、ほとんどゴミとしてすぐ出していますので見つかりませんでした。確かに市河文書の話が載っていましたが、記事の時期は明確ではありません。味っ子さんが朝日の記事を参考にされたのか、それとも朝日の論説委員がWikipediaを参考にされたのか(先日も朝日の記者の盗用が発覚されましたし)、またはたまたま似た文章になったのかは私には分かりません。もう少し調べてみたいと思います。(朝日の全記事を検索できるデータベースはあるようですが、学校関係者専用のようです)ただ、私は山本勘助の存在を否定しているのではないので勘違いなさらないようお願いします。--Soregashi 2007年3月1日 (木) 16:18 (UTC)[返信]
Soregashiさん。最初の書かれ方だとわたしが朝日の天声人語をまる写ししたように読めます。貴方のノートにも書きましたが、もしそうなら、この項目のわたしの版以降を削除せねばならず、さらにわたしは世間から転載魔のレッテルを貼られて事実上ウィキペディアでは活動できなくなります。それほどわたしがショックを受けて、かつ何年何月何日の天声人語か確認できずにかなり焦ったと思ってください。
ご指摘の「昭和44年」「北海道在住」「大河ドラマ『天と地と』」「視聴者」「屯田兵」についですが、これは全て市川文書発見に関する事実です。山本勘助に関する本に必ず載ってる有名なエピソードです。市川文書について書けば当然出来てます。当然、わたしも書きました。朝日の天声人語が市川文書をネタにすれば書いても不思議ではないです。決して勘違いしないでください、著作権保護の対象は創作性ないし独創性のある文章表現そのもので、事実関係の記述やアイディアは保護の対象になりません。少し考えてみてください。事実関係の記述そのものを著作権保護してしまうとウィキペディアなんてものではないです、あらゆる報道、出版活動が不可能になります。再度言いますが、わたしは天声人語を読んでません。わたしはこの項目を書くにあたって参考文献に挙げた数冊の山本勘助に関する本を読んでいます。天声人語なんかに頼る必要は皆無です。天声人語を書く朝日の論説主幹もそうです。市川文書の発見は当時はかなり有名な話だったそうです。論説主幹は当時から記者をやっていたでしょうから覚えていて当然です。素人の書いたウィキペディアなんか参考にする危険なマネをする必要はないです。--味っ子 2007年3月1日 (木) 21:27 (UTC)[返信]
もう少し、わかりやすく補足します。この場合は問題になるのはわたしの文章と天声人語の文章まったくの同文(コピー&ペーストしたorまる写しした)ないし極めてそれに近いかどうか否かです。「昭和44年」「北海道在住」「大河ドラマ『天と地と』」「視聴者」「屯田兵」といったキーワードが文中にあるかどうかは問題になりえません。なぜなら、これは創作物ですらない単純な事実だからです。--味っ子 2007年3月1日 (木) 21:44 (UTC)[返信]

諏訪頼重滅亡の年について[編集]

初めて投稿します。 本文中に、 「天文13年(1544)晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、翌年これを殺した」 とありますが、晴信が諏訪頼重を滅ぼしたのは天文11年(1542)年6月の間違いではないで しょうか? ウィキペディアの「武田信玄」の本文にも、「諏訪頼重」の本文にも天文11年となっていますし、他のHPなどを見ても、天文11年になっています。……でもそうなると、勘助が晴信に仕えたのは天文12年ですから、諏訪御料人をめとることを晴信に進言することはできないことになりますよね……

2007/03/06 文月太郎

>文月太郎様
ご指摘により、本を調べて誤りを訂正しておきました。読み直したところ『甲陽軍鑑』では諏訪侵攻と諏訪頼重殺害は同年の天文13年(1544)でした。諏訪御料人を側室にしたのが天文14年でした。史実との違いの但し書きも付け加えておきました。生涯の節の冒頭に書きましたが、この項目の山本勘助の生涯は年次や事件の史実との明確な誤りを正さず、すべからく『甲陽軍鑑』をベースとする方針としています。これはわたしの発案ではなく武田史研究者の平山優山梨大学講師や笹本正治信州大学教授の著書のやり方に従っています。『甲陽軍鑑』は年次の誤りが酷く、それもあって史料性がほぼ否定されています。そして山本勘助の具体的な活動はその本にしか出てきません。よって、山本勘助の実在はともかく、具体的な活動はすべてフィクションと考えるべきで、具体的な活動はただの一つも史実は含まれていないというのが歴史学界の見方のようで、研究の対象にすらなっていないようです。勘助の生涯を書くにあたっては『甲陽軍鑑』を離れて史実に合せてはいけません。その行為は「軍師山本勘助」を史実に無理やり組み込みことになり、トンデモの独自の研究になってしまいます。小説やドラマならともかくウィキペディアの項目ではやるべきではないでしょう。知られている山本勘助の生涯は武蔵坊弁慶とか猿飛佐助のそれと同様のものと思うべきかと。--味っ子 2007年3月6日 (火) 13:34 (UTC)[返信]
>味っ子さま
さっそくのご丁寧なレスありがとうございました。確かに山本勘助という存在は謎に包まれていますよね……あるホームページでは、山本勘助というのは金山などの発見や経営のために全国を渡り歩いていた山師たちの象徴的存在だったのではないか。その情報収集力を生かして、信玄に仕えていたのであって、実在の人物かどうかよりもそちらの方が重要だということが書いてありましたが、自分もそうなのではないかなという気がしています。--以上の署名のないコメントは、文月太郎会話投稿記録)さんが 2007年3月6日 (火) 14:22‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。


情報として[編集]

伊那毎日新聞2007年4月29日に「山本勘助の名が記された下知状を公開」との記事があります。伊那毎日新聞サイトの記事・写真検索で山本勘助と検索すると出てきます。下知状の詳しい内容は不明ですが、この報道があったと言うことだけは記載しておいていただけませんか。--以上の署名のないコメントは、220.211.11.7会話/Whois)さんが 2007年8月9日 (木) 07:33‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]

因果関係[編集]

「山本勘助は『甲陽軍鑑』の史料性が低く評価されているために、その知名度に比べて専門の研究書、論考が極めて乏しいのが現状である。」というよりは、他の史料に出てこない山本勘助が大活躍するために、『甲陽軍鑑』が低く評価されているのでは? また、史料のない人物を学問的に研究するのは不可能でありましょう。 --忠太 2007年11月15日 (木) 15:09 (UTC)[返信]

市河文書について[編集]

市河文書の記事を作成したついでに、本記事中の「市川文書(市河文書)」を「市河文書」に変更しました。で気になったのが、本記事中では「市河文書=山本勘助の実在を示す書状」として記述されてます。しかし、実際は市河文書と呼ばれる多くの書物・書簡の中に「山本管助の名前が登場する書簡」が含まれているに過ぎません。ただ記述を直しても、市河文書の記事と重複する記述にしかならないので、削除してかまわないかと思います。この件について意見がある方は、ここにご意見をどうぞ。--カイの迷宮 2008年6月3日 (火) 13:14 (UTC)[返信]

市河文書の評価に関しては、勘助の実在を示す文書と積極的評価を下す研究者(上野氏など)と、あくまで武田家に「山本菅助」なる人物がいたにすぎないと慎重に考える研究者(柴辻氏など)に別れるかと思います。時間をくだされば、私が諸氏の評価を調査してきますが、積極的評価を下す論者もいるくらいの記述は残しておいても良いのではないでしょうか。詳細は文書記事で記すとして。--でここ 2008年6月3日 (火) 13:34 (UTC)[返信]
たぶん問題となるのは、市河文書と言うよりも「山本管助の名前が登場する書簡」についてになるかと思います。書簡の記述から「山本勘助」を説明するのであれば、こちらの記事。書簡の説明であれば「市河文書」に書くべきかと思います。難しい切り分けになるかと思いますが。ちなみにコメントアウトした部分は最初に書いたように、「市河文書=山本勘助の実在を示す書状」という誤った記述だったので、いったん削除したまで。--カイの迷宮 2008年6月3日 (火) 13:59 (UTC)[返信]

「山本菅助」新出文書について[編集]

最近刊行された山梨県立博物館の『研究紀要』第三集を入手いたしました。この中に群馬県安中市の「真下(ましも)家文書」に関する資料紹介の記事があります。真下家文書とは、江戸時代以来薬種業を営む同家に伝わる文書群で、平成20年に安中市ふるさと学習館による調査で発見され、県博による調査が行われたようです。この中には5点の武田関係文書が含まれ、いずれも『戦国遺文』『山梨県史』にも未収録の新出文書で紀要では翻刻もされているのですが、「市河文書」以来となる「山本菅助」宛ての文書や山本氏宛てのもので、注目されるべきものです。論考では文書の真贋は留保し、山本家関係文書が真下家に伝来した経緯について、若干の考察がなされております。

今後、引き続き関連論考が発表される可能性があると思いますし、記事に反映させるにはもうちょっと様子見したほうがいいかなとも思いますが、取りあえず報告いたします。--でここ 2009年4月29日 (水) 05:30 (UTC)[返信]


奉納刀[編集]

刀 銘 備前国住長船与三左衛門慰祐定     同二郎左衛門慰勝光作 天文三年八月吉日     松永右京口之 奉納者 山本勘(介)助  と伝わっていた刀がその昔あったらしい。--Nikau会話2013年2月11日 (月) 01:37 (UTC)[返信]

海音寺潮五郎『天と地と』について[編集]

勘助に関する近現代文学部分を整理していたのですが、海音寺潮五郎氏が『天と地と』の執筆に際して「渡辺世祐の非実在説を支持して」とあります。実は明治期の実証主義歴史学において田中義成博士は『甲陽軍鑑』の史料性を否定しているのですが、実はこの時点ではまだ山本勘助の実在性までは否定されていません。勘助の実在性が否定されたのは戦後の1959年に奥野高廣氏が『武田信玄』を刊行してからはじめて提唱された説なのです。

ですから渡辺世祐博士が勘助の実在性を否定していることはありえず、海音寺潮五郎氏の「断り書き」も田中・渡辺以来の甲陽軍鑑の評価を踏襲するという意味か、あるいは本当に渡辺博士が勘助の実在性を否定していると解釈していたのか、様々な解釈が考えられます。私は同書を所有していないので、一度確認する必要があると思うのですが。--でここ会話2014年12月30日 (火) 15:17 (UTC)[返信]