ノート:宮本武蔵

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遺産と継続性[編集]

宮本武蔵の精神的遺産は結局無しというところで、何を描きたいのかが不明です。エッセイを書く場ではありません。 柳生利厳の発言の真偽はしりませんがその項に記載してください。

激変[編集]

その時代全般の話であって、武蔵には直接関係ありません

千原貞心先生云々。グルエーズ云々[編集]

千原貞心氏が宮本武蔵と同一人物でない限り、千原氏の項目を作成し記載してください宮本武蔵に書く内容ではありません。 また美作生誕は物語の中の創作です。五輪書に「播磨」と明示されています。 その博物館自体とグルエーズの提携は、宮本武蔵自身の行ったものではありません。博物館の項に記載する必要があります。 --Do ob会話2021年2月16日 (火) 11:34 (UTC)[返信]

島田美術館蔵は著作権切れ[編集]

法的には、島田美術館[1][2]は著作権切れだと思うんですが、やっぱり了解を取った方がいいですよね…--以上の署名の無いコメントは、203.211.191.145会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年6月2日 (金) 15:58‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]

やはり許可は取れなっかったんでしょうか?トップ絵は歌川国芳画よりも島田美術館蔵の宮本武蔵肖像・晩年を張った方が良いと思うのですが。その他の言語の項目では日本版にならい、歌川国芳画が張られています。近年海外でもわずかながらですが宮本武蔵に注目が高まっています。島田美術館が「収集品を国民共有の財産として末永く保存し、また広く一般に公開して郷土の歴史と伝統を語り継ぐようにしたい」と言われるならば是非公開してほしかったのですが。後世に描かれた派手で商業的な浮世絵ではなく、日本人のみならず海外の人にもより当時の武蔵を見てほしいと思います。--以上の署名の無いコメントは、220.19.128.140会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2007年8月16日 (木) 12:56‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

剣聖の称号ついて[編集]

剣聖という称号に明確な規定はありませんが、大体は流派の創始者を指す様です。 上泉信綱、伊東一刀斎、塚原卜伝、柳生石舟斎なども剣聖と呼ばれておりますので、武蔵のみの称号というのは誤りです。近年の映画には剣聖千葉周作なんてのもありました。 ですのでとりあえず、剣聖=宮本武蔵という記述は消しておきます。 剣聖と呼ばれる人物の一人ではありますが。 一般例として、以下の書籍を示しておきます。 http://www.shinchosha.co.jp/book/115695/

--210.164.18.180 2007年9月6日 (木) 13:51 (UTC)[返信]

関連作品について[編集]

YAIBAクロノアイズが関連作品としてあがっていますが、これらは宮本武蔵をテーマにした作品とは言いかねるので削っておきます。武蔵が出てくる作品を全て挙げるなら、独立した項目が作れる程度のボリュームになるでしょう。--219.113.66.148 2006年6月17日 (土) 20:08 (UTC)[返信]

決闘伝説に関する諸説[編集]

「沼田家記」の内容に一致する伝承を次から次に付け加えると、一方的な記述にならないでしょうか? 平等を帰すために「兵法大祖武州玄信公伝来」、「武公伝」の記述なり、反証なりを加えると煩雑で詳しすぎる記述になり百科事典の内容にふさわしくない気がしますが。 --二天末流 2007年3月14日 (水) 03:46 (UTC)[返信]

「沼田家記」系は世間的にどうしてもマイナーな異説にすぎませんから、個人的に説得力が必要だと感じて詳細に書きすぎてしまいます。申し訳ありません。

ただ沼田家の公式文書である沼田家記と、信頼性の低い下関民間伝承とは源流が別と考えられるので、それぞれ別に書かせていただきました。 ただし本朝武芸小伝と西遊雑記は同じ下関伝承をベースにしている可能性があるため、本朝武芸小伝の詳細記述は控えました。 (…沼田家記自体が、沼田延元の記録ではなく、下関民間伝承をベースにしでっちあげ編集した文書である可能性は否定できませんが)

多くの方が知っているメジャーな小倉碑文系の「武公伝」「武州傳来記」「兵法先師伝記」「二天記」などについても実は多少、小倉碑文の紹介の後に追加する文章を書いていたのですが、調べてみますとこれらの文書は二天流の歴代の伝承者が記述している為、そもそもが小倉碑文をベースとしているそうで、内容として重複的に感じ、考えた末破棄してしまいました。(今回少し書きましたが)

確かにご指摘の通り百科事典としては煩雑になりすぎているきらいがあり、このあたりの記述をまとめて「巌流島」の項目に分離して引っ越してしまうというのも一つの手だとは思います。 --Do_ob 2007年3月14日 (水) 16:05 (UTC)[返信]

吉岡家の項。すばらしいです。 自分も甘いのわかってたので図書館で調べてたんすが、さすがです。 --Do_ob 2007年3月17日 (土) 16:04 (UTC)[返信]

史実性について小倉碑文>>吉岡伝・小倉碑文>>本朝武芸小伝とする理由が全く不明、 対戦内容に関しては小倉碑文や武蔵弟子文書のほうがよほど荒唐無稽でありえない物語的な要素が大きい、 武蔵の肩書きに関するデータが誤りというが小倉碑文も吉岡側人物の記録はいいかげん、 顕彰的要素の少ない第三者の視点から書かれた吉岡伝の武蔵戦や本朝武芸小伝の武蔵吉岡戦の記録に史料価値がないのであれば吉川家記述に他史料など存在せず碑文記述弟子記述など只の無根拠な身内顕彰自流宣伝創作物語に堕する。

『小倉碑文』が正しいと記述している訳ではありません。最も古く、内容的に詳しいから紹介している訳です。当然私は、その史料価値に疑問を投げかけた記述をしたつもりです。 『本朝武芸小伝』の記述は、当時の武芸者にかんする伝聞として貴重なものであり、『武公伝』は武蔵の弟子達に伝えられた伝聞として真偽は別にして貴重なもので、記述するに値すると思います。 しかし、『吉岡伝』は、明らかに創作された文芸作品としての価値しかないものだと考えております。とても第三者的なものではなく、史的平等性のために対比する資料ではないと思います。第三者的な伝聞は『本朝武芸小伝』で十分だと思いますが? それと、表は記述が長くなりすぎだと思い割愛しました。--二天末流 2007年4月11日 (水) 15:33 (UTC)[返信]


>内容的に詳しい

内容は詳しくない。抄録でしかない。

>『吉岡伝』は、明らかに創作された文芸作品としての価値しかないものだと考えて

それは単に根拠のない主観で客観的理由がない。


小倉碑文の原文は小倉碑文で見ればよいので、漢文記述を省略しました。

南方録偽書事件の詳細は南方録で見ればよいので、記述を一部省略しました。

「~と考える研究者もある」「~と考える研究者も多い」の表現の区別がどのようになされているのか、なにを以って多い・少ないとしているのか(統計?)不明なので、これらの表現を全て「~と考える意見もある。」に統一しました。

表を短くして再記しました。諸説の差が一目瞭然でわかりやすいと思われます。


最近の編集、大変だったと思います。

『武公伝』の巌流島説話の内容を加えたいと思います。『武公伝』は無批判に伝聞を記した史料で、『本朝武芸小伝』、『播磨鑑』等と同様に記述当時の武蔵に関する雑多な伝聞を知る上で貴重だからと考えます。決して二天一流の門弟の身内礼賛だけの、書き手の意思が強く反映された『新免武蔵玄信二天居士碑』、『兵法大祖武州玄信公伝来』、『二天記』のようなものでは無く、ましてや『吉岡伝』のような荒唐無稽の作品ではないと思うからです。 私自身は、村屋勘八郎伝の話は全くの創作作品と断じていますが、その内容批判を一々記述すれば助長になると思います。村屋勘八郎伝の話がいかに怪しいかだけを記述すれば十分だと思いますがどうでしょうか?

また、そのように内容が疑わしいものを記す必要があるかと疑問に思われるかもしれませんが、世間に知られている巌流島の話のソースを示すことで、それが、いかにいい加減な伝聞からの記載かを明らかにしたいと思ったからです。

最近、私の記述を武蔵顕彰の一方的内容かのように批判されていますが、私がこれまでここに書き加えてきたことは単純な誤りや文章的修辞的不備はあったとしても、史実を無視して武蔵を英雄視することを意図した記述では無いと信じています。

今回の編集に批判、反発があれば、ノートに批判をお願いしたいと思います。できれば私自身の手で改めていきたいと思っています。よろしくお願いします。--二天末流 2007年4月13日 (金) 17:33 (UTC)[返信]


>ノートに批判をお願いしたいと思います。

了解しました。武公伝は確かに本朝武芸小伝などと性質が似ており、伝承を筆者の真偽判定なしにまとめたものですね。

当時どれほどの年齢で商人の地位を確立できたかは不明ですが、村屋勘八郎が仮に巌流島対決当時20歳だったとして、豊田正剛との対話時に120歳という現代のギネス級年齢は400年前にありえたのかという1点だけを見ても大変に怪しいでしょう。

また人の記憶というものは曖昧なものです。 個人的な話で恐縮ですが、私の祖父などの昔話も、年を重ねる度に様々な記憶の混同や合理化、主観、希望的観測が入り混じり、幼い頃に聞いた話とは食い違っています(つっこみませんが) しかし我々はその曖昧なものに頼るしかありません。

「武公伝」の真偽判定は読者に委ねるスタンスだと考えます。

筆者の豊田正脩自身が読者の真偽判定に必要であると考えたから逸話の周辺情報を記録したのでしょう。そうでなければわざわざ、何処の誰がいつ頃誰に語った話であるかなどという情報は記録する必要がありません。

ニ天記はその意図を汲まず小説化してしまいました。つまるところ吉川小説は、小説の小説化ですね。そこに現代の宮本武蔵認識の問題点があります。そういった意味で

>いかにいい加減な伝聞からの記載かを明らかにしたいと思ったからです。

これは重要です。

★私も"客観的で明確な判断材料が完全にそろっていない場合"断言してはならないと考えます。 (…主観が許される論文であれば断言も必要かもしれませんが)

多くの周辺情報や判断ソースを提示して真偽判定は読者に委ねるというスタンスは、辞典の記事でもあるべき姿だと考えます。

--210.164.18.162 2007年4月16日 (月) 22:09 (UTC)[返信]

「巌流島」に関して[編集]

映画やTV時代劇で佐々木小次郎を演じた俳優の項目が「佐々木小次郎」にないので、この項目に参考として載せてください。--以上の署名の無いコメントは、211.121.54.35会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2008年5月24日 (土) 11:09‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

そういうのは「佐々木小次郎」の項にでも書けばよいと考えます。いったい何の参考になるというのですか?--210.193.102.92 2008年8月10日 (日) 07:07 (UTC)荒野の無頼で一匹狼な用心棒のプロ・ガンマン[返信]

「藏」の字体について[編集]

旧字体の「藏」を「本来の表記」としていますが、この根拠はなんでしょうか? 旧字体が使われるようになったのは明治時代であり、「武蔵」については「旧字体でも新字体でも本来の表記」だと考えます。「旧字体(だけ)が本来の表記」である根拠がなければtemplateを除去したいと思います。--アルビレオ 2010年5月2日 (日) 23:25 (UTC)[返信]

五輪書』(五輪書 地之巻 1写本自序等(小倉碑文播磨説(2)揖東郡宮本村二天記 )からです。もちろん楷書の場合ということです。--Izayohi 2010年5月3日 (月) 00:34 (UTC)--Izayohi 2010年5月3日 (月) 00:35 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。が正しい表記であれば、JIS X0208にある文字なので記事名を「宮本武藏」に変えるべきでしょう。少なくともWikipedia:記事名の付け方からの制約ではないので、今使われているtemplateは不適切です。ただ、旧字体と新字体の区別はすごく微妙な問題であり、広く使われている「宮本武蔵」の記事名はそのままにして、『「蔵」は当時の資料では「藏」を使っている』のような表現を導入部に追加した方が良いかも知れません。どうするかは詳しい方にお任せします。--アルビレオ 2010年5月3日 (月) 09:06 (UTC)[返信]