ノート:天皇陵

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一覧表にしては[編集]

以下のような一覧表にしてはどうでしょうか?

天皇陵一覧表
天皇名陵墓名比定墓名(墓の形式)比定地
神武畝傍山東北陵山本ミサンザイ(神武田)古墳(円丘)奈良県橿原市大久保町

--以上の署名のないコメントは、219.122.167.220会話投稿記録)さんが 2004年2月10日 (火) 21:35(UTC) に投稿したものです(Rekishiによる付記)。

素朴な疑問[編集]

素朴な疑問なんですが天皇陵が時代によってあちこちにあるのはなぜなんでしょうか? わざわざ場所を移動して陵墓を作ったのでしょうか? それと古墳時代最後あたりの奈良時代の高野陵は前方後円墳で作られていたのでしょうか? 調べたけど素人ではよくわかりません 不思議です078 2005年10月27日 (木) 04:18 (UTC)[返信]

方式?[編集]

くだらん話ですが「上円下方式」と書くと「上円下方」式か「上円下」方式のどっちなのか分かりませんなあ。2006年3月15日 (水) 03:49 (UTC)--以上の署名のないコメントは、211.114.128.194会話投稿記録)さんが 2006年3月15日 (水) 03:49 (UTC) に投稿したものです(Rekishiによる付記)。[返信]

今回の変更について[編集]

以下の段落を削除しました。

>但し以上の解釈は現在特定の「天皇陵」として治定されている事例を基にした推測である。例えば現在の伝・応神、伝・仁徳天皇陵についても異論がある以上、時代の変遷によって陵が巨大なものから小型化したり八角になったと断定するには無理がある。言うまでもなく、葬法は極めて保守的な文化であり、前例に従う事を伝統とし、それ以外のものに変更する事を避けて来た。ただ仏教の影響によって一部の変更はあった。

この段落は

>天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳であった(~敏達天皇)。7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳へと変化し(用明天皇~推古天皇)、大化の改新を経て律令制の導入期になると、大王陵・天皇陵には八角墳が採用されるようになる(舒明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇)。

という前段落に対して否定的な内容となっていますが、考古学的見解・文献史学的見解を踏まえた現在主流の考えであることを御承知ください。1)応神陵・仁徳陵の被葬者がだれであろうと当時の「大王」の墓には変わりありません。2)大王墓とされる前方後円墳の規模が小さくなる時期では、他の前方後円墳の規模も小さくなり、相対的な優位性は揺らぎません。3)「巨大」という形容詞は、大王墓・天皇陵の歴史の中での位置づけであり、いわゆる「巨大古墳」をのみを指すものではありません。4)敏達の陵が前方後円墳を用いた最後の陵であるかについては、学界で敏達陵想定地の共通認識が得られていないために確度は落ちますが、父親の欽明は現陵説であろうと五条野丸山古墳説であろうと前方後円墳であること、『書紀』によると敏達自身は自前の陵ではなく母親(欽明妃)の陵に追葬されていること、などから敏達陵が前方後円墳である可能性は高いものと考えられています。5)方墳の例としてあげた用明陵、推古陵、および八角墳の例としてあげた舒明陵、天智陵、天武・持統合葬陵は、いずれも現陵の比定に異論のないものです。6)よく内容を検討すれば、墳形が大きく変化する時期には政治体制に大きな変革があり、前例を打ち破るにふさわしい時期であることが理解できるはずです。202.221.5.234 2006年2月16日 (木) 11:36 (UTC)[返信]

上記コメントをのこしたIPユーザーIP:202.221.5.234会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisは、DNS Stuffの検索結果にもあるとおり、宮内庁のネットワークからアクセスしています。Wikipedia Scanner、外部サイトの情報として、ITmediaニュース記事を参照。--116.0.182.205 2007年9月9日 (日) 06:14 (UTC)[返信]
ウィキペディアのルールに基づくならば、上記コメントは正当なものです。念のため。--ゆきち 2007年9月10日 (月) 12:18 (UTC)[返信]


宮内庁が恐れているとの文面を削除します。明確な出典無くば、最近の騒ぎに乗じた単純書き込みと判断され得ます。識者の方々がおりましたら、Wikipedia:検証可能性に基づき加筆をお願いいたします。 なお、上記の202.221.5.234さんの書き込みはWikiepdiaにおいては賞賛すべき内容と思います。--Los688 2007年9月10日 (月) 14:32 (UTC)[返信]

記述の除去について[編集]

記述の除去が繰り返されているため、全保護しました。該当部分は出典などが無く、除去した状態でも良いと思いますが、記述にある問題点などが明らかになれば、以後の加筆や出典の提示などの参考になるでしょう。除去している側は、除去の説明を、また、執筆者のみなさんは、信頼できる記事にするための加筆・修正にご協力下さい。--Ks aka 98 2007年9月10日 (月) 19:28 (UTC)[返信]


Wases 「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 という文章は 「事実」でありません。 「歴史的事実」でもありません。 「日本国内の公共のメディアで認識されている事柄・見方」でもありません。 「投稿者個人の推測or見方」に過ぎません。 このような「個人的な文章」は削除すべきです。

「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 という部分だけの削除が出来なかったので 「明治時代の修陵」の項目すべてを削除しました。

「明治時代の修陵」の項目を戻すにしても 「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 の部分は削除するべきです。

もし「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 に関して「日本国内の公共のメディア」や「きちんと自分の名前を公表している専門家」がいるのであれば その情報源(ソース)も一緒に記載すべきです。 でなければ個人的な文章にしか過ぎません。

「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 だけ削除してそれ以外は元に戻すのが望ましいと思います。

>『ウィキペディア』は「中立的な観点で書く」等のウィキペディアの基本方針 「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」 は中立的な観点の文章ではありません。ウィキペディアの基本方針に反しています。

ご指摘の部分は、2007-09-10T14:28:07 Los688の編集で既に除去されています。Wasesさん(およびFairuseさん)の除去は、宮内庁が云々の文が除去された「明治時代の修陵」の部分です。今一度、本文をご確認下さい。ひとまずWasesさんにおかれましては、それで問題はないということでよろしいでしょうか。--Ks aka 98 2007年9月10日 (月) 20:00 (UTC)[返信]

はい、削除されているのであれば問題ありません。ただ私が見た際には記載がされておりました。 その部分をコピペしたのですから。 では解除お願いします。


>>これは調査結果によっては天皇崇拝者のあいだで信じられている天皇家が万世一系であるという説を根本的に覆し得るからという見解もあり

この部分もどうなんでしょうか。 それに「天皇崇拝者」という言葉は、多分に偏見に満ちたものですのでこのような誰もが利用する場所での使用はふさわしくないと思われます。 「中立的な観点で書く」等のウィキペディアの基本方針にも反していると思われます。


それに発掘調査をしないのは「宗教的理由」ではないのでしょうか。

伝承とはいえ、一応誰かの親、祖先の墓だと言われているものを積極的に掘り返えすことを推奨しているかのような記述であるのは問題ではないでしょうか。 そういう意見があれば誰の家の墓でも暴いていいという国ではないものだと思うのですが。 --留年刑事 2007年9月11日 (火) 09:27 (UTC)[返信]

この節での対話は、十分な説明がないまま除去がされたこと、それに伴い編集合戦が発生したため、編集保護という対処をとったことに派生するものです。除去に関係していた二つのアカウントのうち、一方から説明があり、問題となる記述が既に含まれていないことをご理解頂けたと考えています。留年刑事さんのご意見も含め、記事の内容には、ぼくは関与しません。もう一つのアカウントのほうは、まもなくブロックが解除されるでしょうから、そちらにも保護の理由がご理解頂ければ、保護を解除します。適切な記述になるよう本文を編集し、異論が出た場合は、より適切な記述となるよう、ノートで対話をお願いします。--Ks aka 98 2007年9月11日 (火) 10:24 (UTC)[返信]

宮内庁職員がWiki編集[編集]

2007年9月11日の読売朝刊13版37面の記事要約:勤務時間外に「天皇陵」や「大宰府」の記事編集を行った。2005-06年に数十回。天皇陵では陵墓が研究者の立ち入りの制限している事を巡り、「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」を削除し「陵墓は現在も皇室による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って調査することが出来ない」と書き換えた。職員は口頭厳重注意され、職場からWikiへの編集不可能の変更措置をした。10日の定例会見から。--125.192.171.108 2007年9月11日 (火) 05:36 (UTC)[返信]

2006-04-03T12:08:35の版は、信頼できる情報源で検証できない風評(都市伝説?)を除去しただけで、問題は無いと思います。要約欄にも「都市伝説の類なのでとりあえず消去しておきました。」と編集内容を明記しています。むしろ、それを加筆した利用者:Teruz氏(2006-03-15T00:05:43)のほうが、ウィキペディアに出典のハッキリしないイイカゲンな情報を加筆したという意味で問題でしょう。--miya 2007年9月11日 (火) 06:38 (UTC)[返信]
WikiとWikipediaは違いますが、Wikipediaに関して言えば誰が編集しても良いです。まぁ、勤務時間中に職場のパソコンを使って編集するのは、内規に違反するかもしれませんが、Wikipediaのルール上は特に問題視される行為ではありません。Los688さんやMiyaさんが言うように、「~という見方もある」のような言葉を濁しまくった非中立的な記述を消すのは別に問題ないですね。文句をつけたがる人は検証可能性などウィキペディア編集の基本方針をもう一度確認してください。もちろん天皇陵に対する宮内庁の態度を疑問視する専門家がいるのは事実ですから、そのことを百科事典的に記述することは問題ないでしょうが、その際はちゃんとした出典を付けるべきです。最後に、宮内庁の方、今後とも編集を歓迎します。ただし、このようにあれこれ言う人がいるので、アカウントを取ってIPアドレスを隠したほうが良いでしょう。--125.173.60.24 2007年9月11日 (火) 08:10 (UTC)[返信]

要出典に寄せて[編集]

『「天皇陵」の項目では、陵墓が研究者の立ち入りを制限していることを巡り、「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」とあった記述を削除し、「陵墓は現在も皇室による祭祀(さいし)が行われており、研究者などが自由に立ち入って調査することができない」と書き換えていた。』[1]

上記の該当部分について、指摘します。

>天皇陵に対する宮内庁の態度を疑問視する専門家がいるのは事実ですから、

>そのことを百科事典的に記述することは問題ないでしょう

その通り記述して構わないのではありませんか。[2] -Green 2007年9月11日 (火) 10:46 (UTC)[返信]

  1. ^ http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070910it12.htm
  2. ^ http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tenoryo/tenoryo.html

要出典箇所について[編集]

  • 宮内庁職員がもみ消しにかかるほど心当たりがあるのだろうか(火の無い所に煙は立たない?)と思いますが、一応該当箇所である「陵墓が研究者の立ち入りを制限していることを巡り、『天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないか』という見方もある」の見方をしているのは作家井沢元彦さんで、『逆説の日本史』1古代黎明編<ISBN 4-09-402001-2>に記述があります。ただし、井沢さん自体本文中で「事情通の噂であるんだけど、敢えて紹介します」という旨の断りの上で述べていることを記しておきます(宮内庁、これを読んで舌なめずりするのかな?)。
  • 井沢さん曰く、「ココが誰それ天皇陵だと確定しているのは10未満だ」「天皇陵の比定は明治時代に国が強引に決めたもの」「宮内庁は発掘調査どころか考古学者の立ち入り調査も一切認めていない、エジプトピラミッドと比較すれば明らか」だとか。

以上出典をご報告致します。 --べっ甘七みつ・たけタカひろ 2007年9月15日 (土) 13:05 (UTC)[返信]

    • ウィキペディアのダブルスタンダードは前から指摘しているんだけど、ある芸能人の出身学校については(たとえば、アホなキャラのようでいて実はきちんと通って大学卒業などという肯定的な内容でも)「自身の公式ウェブページに記載されていない」などの理由を根拠として堂々と削除する人がいます。
    • この項については公式は宮内庁発表であり、明治時代に選定した時の誤りで1、2件間違った例が存在したとしても(明らかな嘘が発覚したなどの場合でなければ)ちょっとした風評など入り込む余地は無いはずなんですが、どうして対象によって扱いが違うのでしょうか?(私個人的には、天皇陵割り当てなんか適当に見繕いだろうとは思ってますけどね・・・、神武天皇なんか居ないだろうし、笑)
    • そういう根本的なポリシーが、まだまだきちんと議論されて明確になっておらず、それぞれの項で編集合戦やらロックやらと低レベルなこと、この上ない。
    • 認識不足なら申し訳ないですが、そういう基本をきっちり議論している項があるなら、私を誘導願います。219.108.11.205 2008年5月12日 (月) 01:38 (UTC)[返信]

比定、治定とは?[編集]

古墳や天皇陵の説明で、「○○古墳は○○天皇陵に治定されている」とか「比定されている」とかあるのですが、「治定」や「比定」の意味を教えてください。--KENPEI 2008年7月14日 (月) 01:22 (UTC)[返信]

  • 比定→天皇陵を研究や実地調査に基づき、もっとも妥当であろうと比類推定したもの。研究者によって違いがあり、一つの天皇陵に対して複数の古墳が候補となりうる。
  • 治定→幕府や政府などそのときの治世者が上記の比定などによって公式に指定したもの。中には古墳でないもの、架空の天皇の陵墓もある。

と自分は理解してます。--あひる 2008年7月14日 (月) 11:28 (UTC)[返信]

あひるさん、ありがとうございます。以前から疑問に思っていたのが、すっきりしました。--KENPEI 2008年7月15日 (火) 14:03 (UTC)[返信]

修陵の欄の改訂について(水戸藩による修理願い出の下り)[編集]

「『改訂うつのみやの歴史』P233(宇都宮市編集)」によると、水戸藩は天保期にも陵墓の修補を進言しているようです。「水戸藩徳川斉昭が皇紀二千五百年を記念して山陵修補のことを天保5年(1834年)、同11年(1840年)の2度にわたり進言し運動を試みたが幕府の許可が無くて失敗しており」(宇都宮市『改訂うつのみやの歴史』P233)

「修陵」の欄の水戸藩のくだりについて、このことにも触れた形で記述してはどうでしょうか?なお、宇都宮藩においては、山陵修補の建白書の提出にあたり、この水戸藩による天保期の前例が失敗に終わっていたため、藩の家老は当初、反対したようです。結果的には宇都宮藩は山陵修補事業の幕命を受けることに成功し、この反対した家老が「山陵奉行」として活躍することとなるわけで、宇都宮藩史の中で外すことのできない「山陵修補事業」の前段となるエピソードということもあり、私としては、この項で水戸藩のことに触れるなら天保の進言失敗についても入れて頂きたいところです。長文すみません。検討よろしくお願いします。--Takaconishi会話2013年8月25日 (日) 15:12 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

天皇陵」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月1日 (日) 00:24 (UTC)[返信]