ノート:喜連川騒動/過去ログ2

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過去ログ化について

これまでの議論は初版投稿者を中心に進んでいましたが、初版投稿者が無期限ブロックになりました。結果的に、これで議論に一区切りがついたと考え、過去ログ化しました。提案中の案件もありましたが、意図的に冷却期間をおくため、いったん過去ログ化しました。議論を再開する場合、必要に応じて過去ログからコピーするか、再提案いただくようにお願いします。(なお、私にとって初めての過去ログ化作業ですので、万一不備があれば、指摘または修正いただくようにお願いします。)--Coleus 2007年5月31日 (木) 23:26 (UTC)

以下、過去ログの要約です:

  1. 当記事に関しては、2006年9月以降、ノートで議論が繰り返されました。
  2. 当記事の初版投稿者は、喜連川騒動に関する独自研究を行っており、喜連川騒動の真相に関する強い意見を持っていました。その意向を反映し、当記事も独自研究とみなされる部分が多く、それを巡って多くの人が当記事に関り、記事修正・リバート・ノートの議論が繰り返されました。
  3. 主要な議題の一つは、旧喜連川町(現さくら市)が発行した町史の信頼性でした。同町史の信頼性を疑う議論がなされ、そのような資料に基づく記事を記載すべきか除去すべきか、また記載する場合にはどのような文面にするかを巡って議論が繰り返されました。さらに、現時点の本文にはこの資料が参照されていますが、資料の内容が歪められている箇所が具体的に指摘されました。この議論は結論が出ていません。
  4. また、別の主要な議題は、それ以外の資料についての議論でした。信頼できる資料の有無が議題となり、議論の過程で追加資料の情報が提供され、記事が加筆されました(具体的には記事中に出典として記載されています)。
  5. 映画「名君剣の舞」「狂へる名君」、小説「つむじ風」などが喜連川騒動をモチーフにしているという意見がありましたが、「モチーフにしている」と証明するソースが無いため、記事には記載されていません。
  6. 他の記事(喜連川尊信)との統合も提案されました。
  7. 保護依頼の取り下げについて提案がありましたので、下にコピーして残しておきます。--Coleus 2007年5月31日 (木) 23:26 (UTC)
お疲れ様です。--Horlicks 2007年6月1日 (金) 02:33 (UTC)
お疲れさまでした。--Doripoke 2007年6月1日 (金) 12:23 (UTC)

保護依頼について

保護依頼が出ていますが、これは要するに、問題の人がムキになって編集を行ったために版を重ねる結果になったことに起因するわけですよね。当人はブロックとなったわけですし、取り下げてもよいのではないかと思います。ソクパペで荒らすということはないんじゃないかと思う。--Lonicera 2007年5月30日 (水) 18:48 (UTC) この発言は過去ログからコピーしました--Coleus 2007年5月31日 (木) 23:26 (UTC)

賛成です。自動失効より、明確な取り下げの方がいいでしょうか?--Doripoke 2007年6月1日 (金) 12:23 (UTC)
明確に取り下げ依頼を出した方がいいと思います。その後、タグをはがして下さい。--Lonicera 2007年6月1日 (金) 14:24 (UTC)
取り下げ、タグ除去終了しました。--Doripoke 2007年6月2日 (土) 04:36 (UTC)

修正案

とりあえず一段落ついたところで、そろそろ全面的な修正を検討してみたいと思っています。

そこで僭越ながら、私のほうでざっくりとした案を考えてみましたので、皆様のご意見をお願いいたします。

以下のような構成がよいのではないかと考えます。

定義文
『喜連川騒動とは、正保4年(1647年)に喜連川藩で起きた、藩主の発狂に端を発した家臣団の派閥争いによる藩政の混乱のことである。』
事件の背景
この項では、喜連川藩に関する情報、各関係者に関する情報などを、信頼できる史料の記述に基づいて解説する。
事件の概要
この項では、信頼できる江戸の史料を引用し、事件のあらすじについて解説する。
事件を元にした伝承
この項では、喜連川町誌などに収録された、この事件に取材した口伝、伝承の類について解説する。スタンスとしては『この事件について、このように事実関係が変化して伝承された』という感じで。
基本的に研究的、分析的、批判的な考察は加えず、伝えられた内容を、「伝えられた」という事実のみ記述する。
脚注、参考文献、関連項目、外部リンク
このへんはほぼ現状のままで。

細かく具体的な内容まで書ければいいのですが、まず一旦、ここまでの議論に参加された方々のご意見を伺うべきと思いましたので、原案の段階で投稿させていただきました。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 03:04 (UTC)

  • 現行記事だと項目3「江戸での文献と記録」がほとんど読むに耐えない状態になっていますが、項目1.2については現行で読み取れる体裁になっていると考えます。ただ、項目2のタイトル'「喜連川町誌」における事件の経緯'はシンプルに'事件の経緯'としたほうが良さそう。--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 06:32 (UTC)
コメントの内容から、おそらくここまでの経緯をよくご覧になっていないように感じましたので、もしそうであれば、お手数ですが、いったん過去ログにも目を通していただけるとありがたいです。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 06:49 (UTC)
  • えと、そういう一方的な「勉強してこい」ではなく、論点を挙げてくださいな(;´Д`)文句言わせないのなら、聞かなきゃいいじゃん・・・--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 07:04 (UTC)あ、いちおうそれなりにヲチしてましたが、議論の内容(主君が本当に発狂していたのかどうか、とか、家老の名誉がどうのこうの)などについては提言を持っているわけではありません。--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 07:07 (UTC)
すみません、書き方が悪くて誤解を招いたようですが、そういう意味ではありません。町誌の記述を「事件の経緯」とする、ということは、町誌の記述内容を歴史的事実と認める立場と思われましたので、それはさすがにこれまでの皆さんの合意内容からは大きく逸脱していると感じたからです。そこに戻って議論することも可能ではありますが、それではいささか、関係者全体にとって非常に徒労感が大きいのではないかと心配するのです。
そのため、その点については「よく経緯を知らないから」という、好意的解釈をしたうえで、過去ログをおすすめした、というわけです。なにとぞご理解ください。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:24 (UTC)

「事件の概要」の部分については、断片的な一次資料が存在するだけですから、「事件」としての記述がどこまでできるか疑問があります。また、ストーリーを纏める作業は、相当注意してやらないと、すぐに「独自の研究」になってしまうと思います。もしこの「事件の概要」がうまく書けないなら、この記事自体の成立が怪しくなります。みなさんがとりあえずやってみるとおっしゃるなら無理に反対はしませんが、個人的には、「騒動」としての記事はあきらめて、喜連川尊信の記事にここの情報を取り込んでしまう方が妥当・簡単ではないかと思います。--Dwy 2007年6月6日 (水) 07:47 (UTC)

「事件の概要」の記述は可能だと思っています。少なくとも老中奉書と寛政譜だけでも大まかな事件の骨格は見えています(もちろん、細かいことはわかりませんが、それは書かないほうがいいと思っています)。
つまり、藩主が発狂したということを隠して押し込めた高派と、それに対立する二階堂派の争いを評定所で裁いた結果、高派が論争に敗れて流罪となり、藩主も隠居させられた、これが「事件の概要」ですので、おもにそれだけの記述で十分と考えます。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:24 (UTC)

喜連川町誌などの記述を基に「事件を元にした伝承」の節を立てるというご提案ですが、私は、問題の「狂える名君」および「喜連川騒動の顛末」は「信頼できる情報源」とは言えないので、それらに基づく記述はすべて除去すべきだという意見です。いずれにしろ、「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」は17世紀に起こった歴史上の事件を直接語ったものであり、その後の口伝・伝承を記述したという形式をとっていませんから、これをもとに「事件を元にした伝承」を語るのは少し無理があると思います。

喜連川町誌を「伝承」と捉えるなら、それは一次資料ということになります。『この事件について、このように事実関係が変化して伝承された』を言うためには、「信頼できる情報源」として別途その旨を裏付ける二次資料が必要ではないでしょうか。また、「『伝えられた』という事実のみ記述する」と言っても、今のところ「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」がどのような情報に基づいて書かれているのか判らないので(ひょっとしたら著者の頭の中で考えたストーリーかもしれない?)、どう伝えられたのかを書くのは難しいと思います。--Dwy 2007年6月6日 (水) 07:25 (UTC)

町誌等については、地元の人が聞き覚えている内容を書かれた、ということがわかっていますので「伝承」としました。
事実関係としてではなく、事実に基づく説話、お話、昔話、として伝わった内容、という解釈です。
「○○市の説話集」とか「○○町の昔話」といった本がありますが、そういうものと同等とみなしたわけです。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:24 (UTC)
そもそも、町史誌が信頼できないとされた理由のひとつは、その記述が何に基づいているか脚注や参考文献で明示されていないということだったと思います。「町誌等については、地元の人が聞き覚えている内容を書かれた、ということがわかっていますので」というのは、何に基づいて言っていらっしゃるのでしょうか?町史誌に、そういう記述があるのでしょうか?
もし本当に町史誌を「○○市の説話集」と同様に扱ってよいということなら、「狂った名君」や「喜連川騒動の顛末」には、おいしいエピソードが満載なのですが、それらを全部「伝承」として取り上げてよいのでしょうか?例えば、「狂った名君」には「忠臣高野修理は狂った主君の平癒を願い、自分の身を犠牲にして神に祈りを捧げようとしたが、切腹直前のところで主君に止められた。高野修理は、そのとき初めて主君の真意を悟り、感激の涙にくれた。」という感動的なエピソードが出ていますが、本当にこれが「地元の人が聞き覚えている話」であると検証可能なら、記事の中で言及しないのはおかしいと思います(エピソードとしておいしすぎます)。--Dwy 2007年6月6日 (水) 09:41 (UTC)
(競合しました。Horlicksさんへのコメントです)とりまとめご苦労さまです。節の作りと順番はそんなものでよいと思います。
  1. 定義部「藩主の発狂に端を発した」について、定義文に書けるほどの裏付けがあるかどうか。「発狂」は確かか、「端を発した」のは確かか。定義部に入れるならば「藩主が狂乱を起こしていたとの記録も残る。」ぐらいの表現にして後ろに添えるぐらいかと。
  2. 「事件の背景」喜連川家の概説、お家騒動は改易ものの不祥事であること、ぐらいを書けば事足りるような気がします。もしも騒動に至るまでの背景が分かれば、それも。後ろの節にでてくる登場人物についての前振りは不要でしょう。
  3. 「事件の概要」という節の名前よりも「同時代の文献より」などのほうが具体的のように思います。感覚的なところですけれど。
  4. 「伝承」の節を入れるかどうかは難しいですね。
いちゃもんをつけるとすれば、これくらいでしょうか。--スのG 2007年6月6日 (水) 07:30 (UTC)
上記のDwyさんへのコメントとほぼ同様です。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:24 (UTC)
すみません、読み直してみて、あまり適切なコメントではないと思い直しましたので、書き直します。
定義部に「発狂」を入れるかどうかですが、定義を読んだだけでこの項目が何について書いてあるか、最低限のことがわかるようにするには、どうすればいいか、と考えた結果ですが、確かに裏づけが難しいので、避けたほうがよいのかも知れません。
「背景」については、私もそのレベルでよいと思います。
「事件の概要」の節名については多少議論が必要でしょうか。
「伝承」については、やはりこの項目(喜連川騒動)に関係する情報として、無視することはできないと思っています。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:31 (UTC)
「喜連川町誌」によると主君(尊信)は発狂していなかった、発狂したふりをしただけだと確定的に記述しており、アク禁を食らった'かの方'は本当に発狂していて、君主を押し込めた家老に落ち度はなかったという説だったと思うのですが・・・--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 08:45 (UTC)
事実関係に関する議論をする段階ではないと思っているのですが、発狂については「江戸幕府老中奉書(慶安元年11月18日付)」を参照してください。また「喜連川町誌」は信頼できる一次資料とは言い難いということでみなさん合意されていると認識しています。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 08:57 (UTC)
「喜連川町誌」が信頼できず、「栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書」(脚注9)が信頼できる、と独自に合意したり結論を下してしまうとWikipedia:独自の研究になってしまいます><--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 09:05 (UTC)


現時点でのまとめです。

  • 藩主は発狂したか、否か。
    • 「狂える名君」(喜連川郷土史)によれば、発狂していない。(藩主が発狂のふりをしていた)
    • 「喜連川騒動の顛末」(喜連川町誌)によれば、発狂していない。(発狂と偽って押し込められていた)
    • 「江戸幕府老中奉書」(喜連川文書)によれば、発狂していた。
    • 「史料稿本」綱文には記述無し。
    • 「徳川実紀」には記述無し。(病気であることは書かれている)
    • 「寛政重修諸家譜」には記述無し。
    • 「かの人」によれば、発狂していた。
  • 一色刑部は何故流されたのか。
    • 「狂える名君」(喜連川郷土史)によれば、お家乗っ取りの謀略のため。
    • 「喜連川騒動の顛末」(喜連川町誌)によれば、お家乗っ取りの謀略のため。
    • 「江戸幕府老中奉書」(喜連川文書)によれば、藩主の発狂を隠していた責任を取って。
    • 「史料稿本」綱文には記述無し。
    • 「徳川実紀」には記述無し。
    • 「寛政重修諸家譜」によれば、争論に敗れた高四郎左衛門某の一党として。
    • 「かの人」によれば、藩主の発狂を隠していた責任を取って。(幕府によってかくまわれ、その後幕臣となったか?)
  • 「喜連川騒動」とは結局何か?
    • 「狂える名君」(喜連川郷土史)によれば、一色家のお家乗っ取り未遂事件。
    • 「喜連川騒動の顛末」(喜連川町誌)によれば、一色家のお家乗っ取り未遂事件。
    • 「江戸幕府老中奉書」(喜連川文書)には記述無し。(藩主の狂乱を隠していたことは書かれている)
    • 「史料稿本」綱文には記述無し。(二階堂・高の争いは書かれている)
    • 「徳川実紀」には記述無し。
    • 「寛政重修諸家譜」には記述無し。(二階堂・高の争いは書かれている)
    • 「かの人」によれば、某一族の末裔による歴史の歪曲であり、騒動自体がでっちあげ。
  • 資料の信頼性について
    • 「郷土史」は町教委の、「町誌」は町の名義でそれぞれ出されていることから、内容はさておき、現時点での信頼性については否定しにくい。
    • 「喜連川文書」他古文書については、信頼性を否定するだけの材料がない。


  • 私見
    • 「郷土史」は個人による執筆であるため、他の資料と比べ、相対的に信頼性が低いと考えられる。
    • 「町誌」は、明治44年に書かれたものの翻刻であり(NDL-OPAC検索結果)、執筆当時「喜連川文書」の原本は足利家の手を離れており、町は所蔵していなかったため、記述に反映されていない可能性がある。2ページ目参照
    • 「喜連川文書」他の古文書の説をとると、騒動自体が存在しないことになる。
    • 今年度中に発行されるという「喜連川町史」には、最新の説が掲載されていると考えられる。

ここは一つ、「喜連川町史第三巻 資料編3 近世」が発行されるのを待って、編集するというのはいかがでしょうか?(なんと無責任な)--Doripoke 2007年6月6日 (水) 10:22 (UTC)2007年6月6日 (水) 10:27 (UTC)一部訂正

ん~、なんか事実関係として何が事実だったか、を特定したがる人が多くて、話がズレてきているように思えます。 もう少しゆっくり落ち着いて見ていただきたいのですが、あくまで「これにはこう書いてある」というのをベースにするだけで、あとはWikipediaの「出典」になり得る「信頼できる一次資料」かどうか、という点に注意して記述するだけ、と単純に考えていたのですが。 「○○が事実である」ということを書こうとすれば、あの方と同じ運命をたどるだけだと思います。 どうも意図を誤解されてしまっているようで、居心地が悪いですね。;--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 12:37 (UTC)

ちなみに上にも書きましたが、私個人の意見としては、「現時点では郷土史、町誌、古文書のいずれも信頼できる資料と認めざるを得ない」です。少なくとも「町がデタラメを垂れ流している」では、「かの人」と同じになってしまいますし、Wikipedia:検証可能性のことを考えると、「その記述が正しいかどうか」の判断をここですべきではないわけです。もっとも、問題は「じゃあどう記事を持ってくのか」という点なのですが。(その逃げとして「喜連川町史が出てから」提案をしたのですが)--Doripoke 2007年6月6日 (水) 13:19 (UTC)
ですから、「○○にはこう書いてあり、△△にはこう書いてある」でいいと思っています。「○○が事実であり、△△は誤り」と書く必要はない、ということです。こういうものも参考にしていただけるとわかりやすいかも知れません。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 13:27 (UTC)
あの、「全部の資料について書く」が私の意見なのですが。

Wikipedia:検証可能性のことを考えると、「その記述が正しいかどうか」の判断をここですべきではないわけです。(2007年6月6日 (水) 13:19 (UTC)編集より)

両論併記だと、(古文書を取り上げるとこの騒動の関連と断言しにくい、一方「喜連川騒動」を定義しているのが現状郷土史・町誌のみ)記事としての体をなさないと考えたため、例の逃げ道を提案したわけです。正誤の判断を付けると書いた覚えはありません。ご確認下さい。誤読させてしまったようなら、ごめんなさい。--Doripoke 2007年6月6日 (水) 13:40 (UTC)一部誤読のおそれがある部分を直しました。2007年6月6日 (水) 13:47 (UTC)
いえ、誤解はしてないと思います。そうではなくて、両方書くというスタンスでありながら、なお「どちらが事実か」に頭を悩ませておられるように見えるからです。
私が言ってるのは「この記述内容は事実である」ということを記事にするのではなく、「この史料にはこういう記述がある」という「事実」を記事にすればよいと思う、ということです。
史料や文献にある記述が存在することは、だれにでも確認できる、検証可能な「事実」なわけです。
前回お示しした参照箇所でも同じように言われているのがわかると思います。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 14:01 (UTC)
「かの人」にも何度か言ったのですが、どっちが真実だろうが別にどうでもいい、と言うのが私の考えで、それは最初の削除依頼の時から変わっていません。ただ、記事として残すのであれば、「喜連川騒動」の定義は町ソースしかない(古文書ソースでは「騒動」と定義されていない=同時代の喜連川藩の出来事は記述しているが、「喜連川騒動」と呼ばれる事件のこととは明記されていない。記事名が「喜連川騒動」では町pov?)わけで、この時点で両論併記は難しいことになる、ということです。正直、誰もこの事件についてはまともに研究していないらしいので。(だからこそ初回削除依頼では「かの人」のトンデモ説がある程度支持されてしまったわけですが)
Horlicksさんのたたき台でも、冒頭の定義文が「喜連川騒動」を「家臣団の派閥争い」と定義しているようですし(古文書pov?上記「まとめ」中の、「『喜連川騒動』とは結局何か?」をご覧下さい)、やっぱり両論併記は難しいですよ。提示された日本史PJの議論を参考にすると、結局「町誌を主論として取り上げ(「騒動」を定義しているのが町ソースだけなので)、同時代の記述(町誌に対する反証ではない)として古文書に触れる」、つまり現状と変わらない形式になってしまうんじゃないかと思いますが。例によって、また誤読させてしまったらごめんなさい。--Doripoke 2007年6月6日 (水) 14:26 (UTC)
念のため書いておくのですけれど、史料にも信頼できるものとそうでないものとがありまして、研究者による史料批判を経た後に、どの史料が信頼できそうかということがやっと判明してくるものです。その上で、ちゃんとした研究者が信頼できる史料をもとに考察を加えて初めて、やっと一つの歴史事象が形をみせてまいります。これまでの議論で提示されてきた史料の信頼性は、我々ウィキペディアンにはわかりません。一義的に我々ができることは、ちゃんとした研究者が書いた論文なり文献に基づいて喜連川騒動について書くことでありまして、史料そのものを本文中で直接取り扱うことは、ウィキペディアの信頼性の面から言ってかなり危険を伴う行為です。
昨年来の議論を通して判明している限りでは、ちゃんとした研究者が喜連川騒動について言及している文献といえば『藩史大事典』しか見当たりません。喜連川騒動に関するまとまった研究(ちゃんとした研究者によるもの)はまだ発表されていないようです。ただ、『藩史大事典』は参考資料として『喜連川町誌』を挙げていたように記憶しています(よく憶えていない(汗)ので、『町誌』も信頼できる二次資料として扱ってもあるいは良いのかも知れません。『喜連川町史』『喜連川郷土史』も『喜連川町誌』も確か執筆者名や参考文献・参考史料が明示されてなかったはずですので(記憶違いならごめんなさい)、歴史研究の立場からは両書とも典拠たり得ない文献として扱われるはずです。
とまれ、ぶっちゃけますと現段階で本項目において叙述してよいのは『藩史大事典』と新しく刊行される『町史』(おそらくちゃんとした研究者の手によるものであろう)に書いてあることだけなのであり、その他喜連川騒動に関連している(と思われる)史料については、その存在を機械的にリストなどの方法で提示するに留めるべきだろうと思うのです。もちろん各史料へのコメントはつけずに。
ということを一応のご参考として申し上げておきます。--shimoxx 2007年6月6日 (水) 14:35 (UTC)
  • 「喜連川騒動」というタイトルでページを立ち上げている時点で、'「狂える名君(喜連川郷土史)」'の史観の紹介、というスタンスになるという次第ですね。このあたりは「南京事件」と「南京大虐殺」に通じるものがあるかもしれません。たとえば'正保4年(1647年)の喜連川藩における騒動'というメタ表記で新項目を立ち上げ、両論を出典をもとに紹介する、という記述方法を採用すれば、比較的中立的で、出典を生かすことのできる記事が出来上がるかもしれませんね(゜∀゜)--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 17:14 (UTC)「1647年に喜連川藩で騒動がおこった」という事実には議論はなく出典の裏づけが取れているわけですよね?('騒動'の年代が違う・・・という'かの方'の主張もあったようですが・・・)--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 17:26 (UTC)
厳密に言うと、「1647年に喜連川藩で騒動がおこったと書いている史料がある」というところまではOKですが、この史料を基に「1647年に喜連川藩で騒動がおこった」と言うには、研究者が史料批判を行った上でそう解釈するのを待たねばならないということでしょう。
Wikipediaの編集者が「その史料は信用できない」と主張するのは、もちろん独自の研究でしょうが、「その史料は信用できる」と主張するのも、厳密に言えば同様に「独自の研究」だと思います。--Dwy 2007年6月6日 (水) 18:15 (UTC)
  • 「1647年に何か起こったよ説」と「何も起こってないよ説」があるとして、出典'「狂える名君(喜連川郷土史)」'にのっとって「何か起こったよ説」は「説」として記述して良いのではないでしょうか?すくなくとも出典'「狂える名君(喜連川郷土史)」'の実在は確認できるようなので。また少なくとも自治体が発行したモノであるので、書籍の実在そのものを否定的にトンデモ扱いする必要は無いのではないか?(内容の厳格性については横に置いておいて)--58.95.142.253 2007年6月6日 (水) 19:32 (UTC)
「狂える名君」[1]「喜連川騒動の顛末」[2]については、「信頼できる情報源」として扱うことはできないだろうと私は思っています。もし仮に「信頼できる情報源」として扱うなら、上にも書いたように高野修理切腹未遂事件や5人の百姓がお殿様のお墨付きを川に捨てた件等も全部書くべきだろうと思います。勝手な取捨選択は正に「独自の調査」でしょう。--Dwy 2007年6月7日 (木) 02:47 (UTC)
個人的にはですね、HorlicksさんやColeusさんのようにバランス感覚をお持ちの方がご執筆されるのであれば、もうそれで良いんじゃないかと思うのですよ。でも実際にはこれまでの議論のように、「検証可能性」なり「独自研究の排除」なり「信頼できる情報源」なりの観点からいろいろと異議が出ているわけですよね(かくいう私も異議アリと言っちゃってるわけですが)。歴史学の方法論に基づいて厳密な信頼性を求めようとすると、『藩史大事典』か今度出るらしい『喜連川町史』に依拠するしかなくなってしまいます。現時点では『藩史大事典』だけしか世に出ていませんから、同書のみに依拠すれば、項目本文には数行程度しか記述できなくなってしまいます。「喜連川騒動の顛末」も「狂える名君」も歴史学の方法論からは信頼できない情報源と扱わざるを得ません。発行元が自治体だろうが何だろうが、信頼できないものは信頼できないとして捨象するのが学問なのです。さらに、これまで数々の史料が提示されてきましたが、史料に直接考察を加えるのはウィキペディアンでなく歴史家の仕事ですから、史料に基づいて項目本文を記述することもあたわなくなります。
このように厳密性を突き詰めていくならば、ほとんど何も書くことはできません。しかし、信頼できる執筆者のバランス感覚に思い切ってお任せし、ある程度のところで妥結するのも一つの選択肢ではないかと思うのです。昨日とは矛盾するようなことを言っちゃってますが、みなさんどーでしょうか?--shimoxx 2007年6月7日 (木) 15:57 (UTC)
完全にお任せされてしまうと、それはそれで荷が重い面もありますが、おおむねみなさんが「まあ、こんな感じならいいんではないか(さほど大きな問題はないのでは)」というレベルの試案ができれば、そこから先はみなさんで随時、必要に応じて手を加えていただく、というのがいいのかも知れません。できるだけみなさんのご意見を伺い、できるだけ取り入れられれば、と思っています。
当面は、独自研究タグなどがはずれるレベルになれば、というのが私の個人的な願いです。--Horlicks -note 2007年6月11日 (月) 04:53 (UTC)

修正案の試作

とりあえずみなさんのご意見も反映しつつ、上記案を下敷きにして試案を書いてみました。

利用者:Horlicks/喜連川騒動

困ったのは「近代以降にまとめられた文献」の部分で、どこからどこまでが喜連川町誌の記述で、どこからが他の史料などにより補完された部分か、区別がつかなかったことです。 そのため、現状の記述を丸ごとそのままにしています。ここはまだ検討の余地がかなりあると思っています。 あくまでテストでしかありませんので、お気楽に査読いただけるとありがたいです。 こんな方向性を考えています、というサンプル(百聞は一見にしかず、ということで)と思っていただければ。--Horlicks -note 2007年6月6日 (水) 13:22 (UTC)

節を分けました。--Horlicks -note 2007年6月11日 (月) 04:53 (UTC)
私はHorlicksさんの案に賛成です。他に信頼できる資料が見つかるまでは、旧喜連川町史の記述も、出典を明記して記載しておけばよいと思います。本文と旧喜連川町史の内容とをもう一度照合できればベストですね。
ところで、私の正直な気持ちを言えば、これ以上このマイナー項目に力を入れなくても良いのではないか、と思っています。まずはHorlicksさんの案に置き換えて、その後は新しい資料が見つかったり、出版されたりしたときに見直しすれば良いのではないでしょうか?とりあえず私は、別項目の執筆に移りたいと思います。皆さん、いろいろお疲れさまでした。--Coleus 2007年6月11日 (月) 23:59 (UTC)
私の意見は、前から言っているように、(1)この記事の内容のうち検証可能なものは喜連川尊信に移し、この記事自体は削除すべき、(2)どうしてもこの記事を残すのであれば、少なくとも旧喜連川町関係の資料に基づく記述は除去すべき、というものです。とはいえ、私の意見は多くの人の考えの中での1票にすぎませんし、もともと「口は出すけど手は出さない」という自分勝手なスタンスですから、違う意見の方が多数意見に基づく編集をされても、(私と同意見の人が出てきて新たな議論を始めたりしない限り)これ以上の異議は述べません。--Dwy 2007年6月12日 (火) 04:38 (UTC)
ほとぼりがさめたと言い難いところもありますので、「近代以降にまとめられた文献」の節以外の部分をまずリリースし、タイミングと新しい文献とを見計らって「近代以降にまとめられた文献」の節を出すのがいいかな、と思います。--スのG 2007年6月12日 (火) 06:30 (UTC)
試案に対して2点ほど。『史料稿本』の綱文は史料ではありません。綱文とは『人見私記』『万年記』その他の史料を元に書かれた二次資料もしくはメモに過ぎません。ですので本文で史料稿本について言及すべきでないと思います。もし言及するとすれば史料稿本に列挙されている『人見私記』『万年記』その他の史料について行なうべきです(これら史料の多くは国会図書館の内閣文庫にありますので、首都圏在住の方がおられれば調べてみるのも良いかも知れません)。
あと『徳川実紀』の例の文章についてですが、アレは慶安元年記事の中から私が見つけることのできた唯一の喜連川関連の記述に過ぎず、喜連川騒動との関連は全く不明です。除去するのが妥当だと思います。--shimoxx 2007年6月13日 (水) 15:02 (UTC)
理解しました。後ほど試案のほうを修正しておきます。--Horlicks -note 2007年6月13日 (水) 16:34 (UTC)
試案を修正しました。また、節分割に合わせて上記コメントを移動させました。--Horlicks -note 2007年6月14日 (木) 01:36 (UTC)

試案の定義文について

元の節が長くなって、話題が特定の部分に集中してきましたので節を分けました--Horlicks -note 2007年6月14日 (木) 00:59 (UTC)

冒頭の定義文を除いて、おおむね賛成です。(あの定義文だと、別の独自研究が生まれてしまうので「喜連川藩で起こった藩政の混乱である」あたりで妥協しておくのがいいかと思います。派閥争いもお家乗っ取りも藩政の混乱には変わりないので)--Doripoke 2007年6月12日 (火) 14:34 (UTC)
これは反論ではなくてDoripokeさんへの純粋な質問です。近代以降の文献も含めて、この事件が「派閥争い」ではない、と積極的に否定していると読めるものには何がありますでしょうか?(言及していないものは除きます)--Horlicks -note 2007年6月13日 (水) 00:59 (UTC)
58.95.142.253さんの指摘のとおりです。「喜連川騒動」という言葉を、具体的に定義しているのが例の郷土史と町誌だけなので、現時点では若干あいまいさを残した表現のほうが穏健かと思います。--Doripoke 2007年6月13日 (水) 10:10 (UTC)
いえ、そういう趣旨の質問(なぜ「派閥争い」を除去したほうがいいのか)ではないのです。「派閥争い」と明確に書いてある史料はあるので、それを積極的に否定する資料があるのかどうか、を聞きたいわけです。もしあれば教えてください。--Horlicks -note 2007年6月13日 (水) 10:53 (UTC)
郷土史・町誌(現時点で「喜連川騒動」を明確に定義している)説を採ったときに、単なる家臣団の派閥争いではなくお家乗っ取り工作となるためです。現時点では江戸時代の文章が、郷土史、町誌が定義する「喜連川騒動」を指すかどうかは明らかではありません。(勿論、同時代の出来事ではありますが)その当たりを現時点で明確にすることを回避するための表現です。したがって、「派閥争い」を積極的に否定する資料はありませんが、積極的に肯定する資料もまた、現時点ではありません。そのため、現時点では「混乱」程度にとどめるべきではないか、というのが私の考えです。
では、Horlicksさんが「派閥争い」と明確に書いてあると考える資料は何でしょうか?もしあれば、お教え下さい。--Doripoke 2007年6月13日 (水) 14:13 (UTC)
私は「否定する資料・史料の存在」をお聞きしただけなのに、うがった見方をされ、構えた反応をされたことは、たいへん心外で残念です。
とりあえずDoripokeさんのご意見に沿って回答します。まず「お家乗っ取り工作」という歴史的概念がそもそも存在するのかどうかよくわかりませんが、それが「派閥争いではない」ことを示しているわけではないと思います。「この事件は殺人事件だから痴話喧嘩ではない」とは言えないのと同じです。仮に「お家を乗っ取ろう」と画策した家臣と、それを阻止しようとした家臣が争ったのだとして、それは「派閥争い」の争点の説明にすぎないと思います。何をめぐっての「派閥争い」かは江戸時代の史料にははっきり書かれていないようですが、仮にそれが「乗っ取り」であろうと、何か他のことであろうと、「派閥争いではなかった」と言える根拠にはなり得ていないと思います。
いっぽう、寛政重修諸家譜および史料稿本綱文(慶安1年12月22日2条)には明確に「争論し、互にその党を結ぶ」および「事を相訴ふ」とあります。
この項で参照すべき資料・史料のうち、「派閥争いである」と明記されたものが存在し、「派閥争いではなかった」としているものが存在しないのであれば、「派閥争いだと書くべきではない理由」は私には思い当たるところがありません。その点について相反する資料の対立があるわけではないからです。--Horlicks -note 2007年6月13日 (水) 16:34 (UTC)
現時点で、Horlicksさんの挙げられた資料が、「『喜連川騒動』と同時代の喜連川藩での出来事についての資料」であって、「『喜連川騒動』の資料」ではないということなのですが。あと、私が問題視している部分は、「家臣団の」であって、「派閥争い」で無いことを付記しておきます。(「家臣団の派閥争い」と矮小化すると、自動的に郷土史・町誌の記述を全否定することになり、「正誤の判断をしない」とするこのノートでの合意に反することになると思うのですが、いかがでしょうか?ついでに言えば、「寛政重修諸家譜」および「史料稿本綱文」には「争った」とあっても、それが藩内の派閥争いだとは書かれていません。)

インデントを戻して、念のため書いておきます。この記事で挙げられている江戸時代の記述は、現時点ではどれをとっても「喜連川騒動」という言葉を定義するものではありません。現時点では、「郷土史・町誌で『喜連川騒動』と呼ばれている事件と同じ時代の喜連川藩の出来事の資料」としか判断できません(材料がないため)。この議論に関わっている方々の多くが、江戸時代の資料を「喜連川騒動」の資料だと見なしているようですが、現時点ではそれは独自研究に過ぎません。上の方にまとめたものを再掲しますので、ご覧下さい。

  • 「喜連川騒動」とは結局何か?
    • 「狂える名君」(喜連川郷土史)によれば、一色家のお家乗っ取り未遂事件。
    • 「喜連川騒動の顛末」(喜連川町誌)によれば、一色家のお家乗っ取り未遂事件。
    • 「江戸幕府老中奉書」(喜連川文書)には記述無し。(藩主の狂乱を隠していたことは書かれている)
    • 「史料稿本」綱文には記述無し。(二階堂・高の争いは書かれている)
    • 「徳川実紀」には記述無し。
    • 「寛政重修諸家譜」には記述無し。(二階堂・高の争いは書かれている)
    • 「かの人」によれば、某一族の末裔による歴史の歪曲であり、騒動自体がでっちあげ。

--Doripoke 2007年6月13日 (水) 16:51 (UTC)

Doripokeさんを支持します。江戸時代の資料はいずれも一次資料ですから、Wikipedianによる評価・解釈を入れないように扱う必要があります。家臣団の派閥争いを取り上げて、藩主の狂乱を取り上げないのは、やはり「評価・解釈」といわざるを得ないと思います。
・・・と思ったら、下でShimoxxさんが「『史料稿本』の綱文は・・・二次資料」とおっしゃっていますね。東大の先生の評価・解釈を経た二次資料であるということなら、思い切り綱文だけに基づいて本文を書き、他の資料はついでに脚注で紹介するというスタンスでもよいと思います。--Dwy 2007年6月13日 (水) 18:05 (UTC)
趣旨は理解できました。つまり、たとえば「三億円事件の犯人が~~」という資料Aと、「昭和40年代に東京で現金強奪事件があったが、~~」という資料Bがあったとき、「三億円事件」という記事を立てる場合に資料Aは「三億円事件」について記述していると考えてよいが、資料Bは「三億円事件」について記述しているとは言い切れないので、その記述内容を定義に取り入れることは避けるべき、ということですよね?ちなみに、繰り返しになりますが、「派閥争い」にせよ「家臣団による派閥争い」にせよ、『町誌』『郷土史』が伝える事件の性質と対立する記述にはなってないと私は思っていますし、だからこそそのように記述した、とすでにご説明したとおりです。
一つの見解として理解はできますが、これを「独自研究」という観点で言えるのか、という点には個人的には疑問を感じます。
それは単純に名前の問題だけで、少し細かく考えすぎているように思えてしまいます。
それから、その見解に沿うなら、従来の記事の形式(「喜連川騒動」として『町誌』、『郷土史』の記述をメインとし、異説扱いのような感じで江戸史料を付記)にしなければ整合しないと思いますので、現在の試案の定義文以外に賛成されていることと矛盾するように感じられました。
前々から確認しているのですが、Doripokeさんは「事実がどちらか」を現時点で特定したいわけではない、という理解で正しいのですよね?しかし、ご意見を読ませていただくと、上記のように、『町誌』、『郷土史』の記述を優先したいような意図があるように解釈できる部分があるので、そこで少し戸惑います。
お考えを徹底していくと、江戸の史料については記述すべきでない、というご意見に見えるわけです。私の理解は間違っていますでしょうか?
繰り返しますが、非難、批判、反論ということではありません。理解しづらい点、ご意見を読んで論理的に納得できていない(合点がいってない)点があるので、ご説明をお願いしたいという意図です。理解できなければご意見を試案にどう反映すべきか、という判断もできませんので、どうぞ誤解されませんようお願いします。--Horlicks -note 2007年6月14日 (木) 01:20 (UTC)
連続で失礼します。少し考えたのですが、このままダラダラと議論していても意味がないので、自分なりに修正案を考えました。「家臣団の派閥争い」を「藩内の争い」とする案(全文だと「喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、正保4年(1647年)に喜連川藩で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。」)ではいかがでしょう?Doripokeさん、Dwyさんにはこれにご賛同いただけますでしょうか?--Horlicks -note 2007年6月14日 (木) 01:47 (UTC)
修正案で異論ありません。なお、私が郷土史、町誌を優先しているように見えるのは、「喜連川騒動」という名称を用いているのが前述二誌しかないという点を指摘しているためです。(後の資料はその争いを「喜連川騒動」という名称では呼んでいない)一応記事名に関わる部分でしたので。--Doripoke 2007年6月14日 (木) 13:55 (UTC)
Dwyさんのご意見に対して。「史料稿本」は確かに二次資料なんですが、『大日本史料』の単なる未定稿にすぎないのであり[3]、『大日本史料』編纂の際には不採用とされたり大幅修正されたりすることがほとんどのようでして[4]、これを典拠として示してしまうのは百科事典としてかなりカッコ悪いことではあるんですよ。史料稿本にせよ大日本史料にせよ、綱文は単なる見出しなのであり、一緒に提示されている史料やその所蔵場所や按文の方がよほど大事なのです。史料稿本綱文に依拠するくらいなら『藩史大事典』の喜連川藩の記述に依拠した方がマシだろうと思っております。
以下余談のことながら。日本史に関心がある人なら誰でもすぐに気付くと思いますが、喜連川騒動って主君押込の典型例なのですよ。ただし、普通とはちょっと毛色の異なる大名家で発生した、という点に特殊性があるわけで。どこかの研究者がその特殊性に着目して論文なり紀要なりを書いてくれれば、本項目にも日本史項目らしく「喜連川藩で起こった主君押込である。」という定義が書けるんですけどね。--shimoxx 2007年6月14日 (木) 16:42 (UTC)
Doripokeさん、ご賛同ありがとうございました。Dwyさんのご意見を待ってから、試案を修正したいと思います。
shimoxxさん、今後の研究に気長に期待したいですね。--Horlicks -note 2007年6月15日 (金) 00:47 (UTC)
あれ?あれ?結局主君押込にしちゃうんですか?振り出しに戻るような・・--125.205.9.64 2007年6月15日 (金) 02:40 (UTC)
違いますよ。話の流れをよくお読みください。--Horlicks -note 2007年6月15日 (金) 03:55 (UTC)


ァゥ(;´Д`)・・・もう少し静観しますね・・・--125.205.9.64 2007年6月15日 (金) 04:42 (UTC)
「藩内の争いによる藩政の混乱のことである]に同意します。
私個人的には、世の中での研究が一定水準まで達していない事項について記事を立てるのには反対だったのですが、いろいろ考えているうちに、「今後の研究に気長に期待」して記事を先に立てるというのもありかなと思えてきました。(それが本当によいことかどうか、まだ確信はないのですが・・・)--Dwy 2007年6月15日 (金) 05:46 (UTC)
ありがとうございます。試案のほうを修正しました。
私個人の感想ですが、今回この記事に関わってくださったみなさんが、今後もこの話題を気にかけていてくださるなら、今後学界で研究が進んだときに、もっとよい記事にできる機会が来るだろうと期待しています。「みんなで協力してよい記事にしたい」という思いは共通だと思いますしね。--Horlicks -note 2007年6月15日 (金) 06:04 (UTC)

「江戸での文献と記録」節について

「江戸での文献と記録」節において、「史料稿本」の扱いに誤りがありましたので、書き直しました。報告しておきます。--shimoxx 2007年6月6日 (水) 13:57 (UTC)

試案の正式採用

一通り議論は出たと思いますが、念のため今月末(6月30日)まで待ったうえで、特に異論が出なければ、現在の試案を採用し、本文の修正として反映しようと思います。

何かありましたら、この節に記入してください。お願いいたします。--Horlicks -note 2007年6月17日 (日) 11:01 (UTC)

期限までに異論が出ませんでしたので、試案の通りの内容で置き換えました。--Horlicks -note 2007年7月1日 (日) 15:05 (UTC)

IP124.85.36.167氏の編集

『及聞秘録』という史料の記述を追加されたようですが、Doripokeさんがすぐリバートされましたね? このIP氏と思われる方が私のノートに編集の趣旨、意図についてご連絡をくださっていましたので、経緯をまったく無視して編集したというわけではなさそうです。 内容を見ても特に差し戻すべき理由もないように思ったのですが、いかがでしょうか? よろしければこの場で当事者同士、誤解のないようお話をされてはいかがかと思いますが。--Horlicks -note 2007年7月28日 (土) 02:08 (UTC)

なるほど。同一人の可能性が高いということですか。内容だけ見ればさほど問題でもないだけに非常に残念ですね。--Horlicks -note 2007年7月28日 (土) 12:15 (UTC)
  • 始めまして、『及聞秘録』の喜連川家の記述を投稿した者です。先月、この記述の複写の送付依頼をされた方からこの記事を紹介いただき、この方は、永久ブロックにより投稿できないとゆうことで、私個人として、この方の依頼により投稿させていただきました。立場上、史実の判断をする意はありません。しかし、当大学の図書館にて管理されている和本『及聞秘録』に関係記述が残されている訳で、この事実を当記事に残すことは、将来の研究者に共するものと考えております。賢明なる皆様の判断におまかせします。--219.160.72.25 2007年7月30日 (月) 04:50 (UTC)
う~ん、誤字が多いですね。何にせよ、資料の原文はウィキペディアではなく ウィキソース で取り扱っておりますので、そちらの方針をごらんになった上でそちらをご利用ください。--スのG 2007年7月30日 (月) 05:02 (UTC)
  • 筑波大学職員の方が、平日の昼間から栃木OCN可変での投稿とは、いささか不思議な気もする上に、大学関係者ともあろう方が「永久ブロックにより投稿できないとゆうことで」というのも気になるのですが、二つお聞きします。
  • 資料送付依頼を受けた方との個人的な関係がおありですか?(以前より個人的に知っていたなど)単に資料送付依頼者と図書館職員との関係では、wikipediaの方針に反する代理投稿の依頼を受け、それを行うとは思えません。
  • 率直に聞きます。あなたは利用者:喜連川一色家さんではないのですか?状況証拠は揃っています。もしご本人であれば、どうか、名誉ある撤退を。
余談ですが、「永久」ブロックではなく、「無期限」ブロックです。終身刑と無期懲役は違いますから。あとは賢明な皆様の判断にお任せします。--Doripoke 2007年7月30日 (月) 08:07 (UTC)
  • この方が問題の方ですね。私は栃木在住の職員です。筑波へは車(約1時間)で通勤しております。変なかんぐりは、ここでの論点から外れることになりませんでしょうか?どうも、旧喜連川町の資料を優先したい意向が感じられます。誤解でしたら誤ります。要点は、『及聞秘録』の記述が、この記事の編集方針に沿うものであるか、否かではないでしょうか?また、東京大学史料編纂所の綱文の出典には、『「参考」及聞秘録』と明示せれてたはずですが、なぜこの文献だけ故意にこの記事からはずすのかが理解できません。以後、皆様の賢明で価値のある編集となることを見守りたく思います。時間もありませんので失礼させていただきます。--219.160.72.25 2007年7月30日 (月) 08:44 (UTC)


  • こんばんわ。どうなったかと思って来てみれば、話がぜんぜん進んでいなようですね。ウィキぺディアでは個人情報を公表しないと話が進まない所なのですか?『及聞秘録』の原文では、読めない方がいらっしゃるようでしたら、訳した形であれば編集可能でしょうか?--124.85.41.217 2007年8月3日 (金) 15:21 (UTC)
えーとですね、百科事典って史料を原文のまま掲載するところではないんですよね。史学研究者が史料を元にして評価・研究を行い、その研究結果を体系的にまとめて記述するのが百科事典なわけでして、『及聞秘録』を元に喜連川騒動に関する専門研究が行なわれてない限り、本項目において同書の内容を詳述することは「独自の調査研究」になってしまいますから、行なうべきではないでしょう。--shimoxx 2007年8月3日 (金) 18:08 (UTC)
  • やっと、お話の通じる方に会えたようで安心しました。お話の方は良くわかりました。貴重なご意見ありがとうございます。さて、実は当大学で保管されている『及聞秘録』は、送り仮名、返し、読み順、など付加されており、年代等は不明ですが、一度要約されたものですので、普通に漢字が読める方でしたら問題なく読める文献です。これをこのまま載せることは、著作権等を気にされる方もいらっしゃいますでしょうから、出典を明示し、書物から引用する形の編集者による一般的な概要記事であれば問題ないと思いますがいかがでしょうか?『及聞秘録』は、約一ヶ月かかりますが、ご要望があれば一度、マイクロフィルムに収め業者に委託し複写後、全国に送付可能ですので現物をご確認いただいている方ならご理解いただけるとおもいます。それとも、一般書店で販売されている文献や史学研究者が書いた文献でないと、「独自の調査研究」にあたるのでしょうか?であれば、『喜連川町史』や『喜連川文書』の内容も書けないことになりますが?一度、ご検討いただければと思います。当記事の主編集者様や討議参加者様の論議に期待しております。--222.149.204.203 2007年8月4日 (土) 07:20 (UTC)
『及聞秘録』をwikipediaに掲載することについては反対を申し述べておきます。史料原文を掲載するのは百科事典の役割でないからです。上でスのGさんが仰っているとおり、ウィキソースへの掲載をご検討されたほうがよいかも知れませんね(当然ながらウィキソースの方針に則った形で)。
研究者による論文・文献に基づいて執筆することは、wikipediaの根幹をなす方針です(cf.Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せない)。本項目でも検証可能性・独自研究の排除について様々な議論がなされましたが、上にあるような議論を通じて現在の形となっています。どうぞご参照願います。
ところで「話の通じる方」というご発言はいかがなものでしょうか。私以外の方々も話の通じる極めて常識的な方々ですよ。無用なトラブルを招くようなご発言はどうぞお控えになってくださいまし。
またまたついでながら、本議論はこれ以上続ける必要はないように感じています。wikipediaは多くの人の手により作り上げる百科事典ですので、たとい自分に強いこだわりがあっても、ある程度の適度なところで折り合いをつける・妥協するという協調性も必要になってきます。このあたりについてもご理解をいただけると大変幸せます。ではでは。--shimoxx 2007年8月4日 (土) 10:38 (UTC)
  • 一つご質問があります。東京大学史科編纂所の大日本史DBの事件に係わる綱文の出典が、本記事内にて示されておりますが、なぜ意識的に『及聞秘録』を外されるのでしょうか?誰が見ても、これを外されることこそ「独自研究」ではないでしょうか?だれかの個人判断、意向が働いている記事としか思えませんが、これに対する回答が確認できませんが、いかがでしょうか?当記事で示された外部リンク先、大日本史DBの綱文には『「参考」及聞秘録』と明示されていますよ。このような形で一般の投稿に制限をかけた記事である以上、これを説明する義務があるかと思いますが?--220.104.54.2 2007年8月5日 (日) 08:27 (UTC)
当該DBでは、他の史料については出典元として記載する一方、『及聞秘録』には「参考」と付記しており、その扱いが異なることが示されています。
Wikipediaにおいては「出典」を求めるルールはありますが、直接の出典以外は特に必要とされませんので、記述していなかっただけのことだと思います。
一応、念のため「参考とした」事実については追記しておきました。問題があると思われる方がいらっしゃいましたら、コメントをお願いいたします。
220.104.54.2さんは、喜連川一色家さんご本人でなければ、このようなマイナー項目の、このような瑣末な部分に強くこだわる必要もあまりないと思うので、これ以上こだわりを見せ続けると、やはりご本人なのではないか、というみなさんの疑念をより強めてしまうだけの効果しかないと思います。ご本人でなければそこまでする義務も義理もないはずですし。
もう少し冷静になられたほうがよいと思いますよ。ご本人であるにせよ、ないにせよ。--Horlicks -note 2007年8月5日 (日) 10:25 (UTC)
  • 自称、筑波大学図書館職員さま、記事のノートに書くのも気が引けるのですが、投稿ブロックを受けているときは、IPや別アカウントでの投稿は、その内容に関わらず否定されています。草稿ですが、Wikipedia:追放の方針あたりもお読み下さい。なお、「貴館職員を名乗る人物のウィキペディア日本語版における行為について」の問い合わせを行う予定があることをお伝えしておきます、余談ですが。--Doripoke 2007年8月5日 (日) 16:01 (UTC)
ちょっと気がついたのですが、en:User talk:Loniceraで暴言を吐いているIPユーザー([5])はIP:124.85.36.167会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisさんとIPレンジがよく似ていますね。偶然でしょうか。--Number 2008年1月3日 (木) 08:52 (UTC)
偶然だとおもいますよ。大学や会社から投稿してるなら別でしょうけど、プロバイダと地域が同じなら、大体似たようなアドレスが付きます。IPアドレスの投稿者は人格なき大衆にすぎないので、そのつど別人の荒らしとおもって個別撃破してゆけば宜しいかと。1IPアドレス主義者より。--125.205.189.66 2008年1月3日 (木) 09:08 (UTC)

「二階堂主膳助」の削除依頼について

喜連川騒動の登場人物である「二階堂主膳助」の記事についてですが、(1)実質的には利用者:喜連川一色家さん(+ソックパペット)が一人で執筆しており、私から見ると「独自の研究」の塊になっている、(2)ほとんど無名の人物のために独自の記事を立てる必要はなく、こちらの記事か喜連川尊信の記事に加筆すれば足りる、ということで、削除依頼を提出しました。もしよろしければ、賛否・コメントをくださいますようお願い申し上げます。--Dwy 2009年6月17日 (水) 13:24 (UTC)

検証可能な資料を「独自に調査」して投稿することはWikipedia:独自研究は載せないルールに違反していないばかりか、本来あるべき編集態度ですのでこの点は注意が必要だと思いますが、いかんせん過去の編集経緯やソックパペットさんのこともありますので慎重にお願い致しますデスヨ。--118.18.2.61 2009年6月17日 (水) 20:31 (UTC)