ノート:吉田城 (三河国)

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今橋は、吉田大橋なのでは?[編集]

今川とは、今新しく出来た川という意味です。矢作古川が氾濫し、今川という川ができた場所が、西尾市今川庄。

また、東関紀行に、渡津の今道とある、今の東海道のこと。

鎌倉街道の姫街道の本坂通(本坂道)に対して、新しい今の街道という意味。

今橋城時代の縄張りがどのようなものであったか、それを裏付ける史料はない。ただ、『牛窪記』に「文亀年中今川氏親三河今橋之辺ヲ見立テ、城ヲ御築アルベキ由・・・・依テ入道ガ淵ノ上、馬見塚ノ岡ヲ引キナラシ数千ノ人夫ヲ集メテ、永正ニ乙丑成就ナル」とあり、塚、岡の名称からも、実際にはそれほど広い場所を指したものではなく、起伏のある台地を生かし、谷を自然堀とした程度のものであったろう。また往時の本曲輪は、現在の本丸と三の丸会館の間の金柑丸跡を中心とする一帯とされる。(吉田城のパンフレットより)

築城年代の根拠が、牛窪記だけって、おかしいだろ。文亀年中、永正ニ乙、非常にアバウトな表現ですね。日記ですらないと。東三河人の史料は、こんなのばっか。

今橋=新しく出来た橋=吉田大橋=池田輝政の架橋。(木橋)

古い本橋=旧吉田橋=酒井忠次の架橋(三州吉田記の関屋の渡し口の土橋)

今橋という橋が、豊川に最初の橋として、鎌倉時代の1300年頃出来たというなら、今橋というネーミングはおかしい。

そもそも、三州吉田記の記述と矛盾している。今橋なる橋があったという鎌倉・室町の史料はない。

牛窪記の編纂当時の言葉と環境に置き換えているのでは?

1700年当時に、1500年頃のことが正確にわかるわけない。すべて伝承・古文書に依存するしかない。

だいたい、吉田城は近世城郭だし。

今橋というネーミングがすぐに消えて、吉田になるのも変だ。吉田川、吉田城、吉田宿、最初から、吉田と呼んでいた、もしくは、名無しの城、まったくの別城名。

お隣の、新城というネーミングといい、作為を感じる。固有名称としては、おかしい名前が多すぎる。--時空の旅人 2007年4月2日 (月) 07:47 (UTC)[返信]

この吉田城って、二連木城と至近距離の上に、戸田氏の田原城・二連木城よりも築城が後ですか?敵の目の前で、築城できるのでしょうか?疑問ですね。出来たとしても、墨俣みたいな砦・陣地レベルで城じゃないだろな。 やっぱり、今川義元の時代になってからじゃないの、吉田城が完成したの。

渥美郡は、ほとんど戸田氏だな。牛窪の牧野氏が、東三河制圧はありえないし、宝飯郡すら制圧してない。--時空の旅人 2007年4月2日 (月) 08:07 (UTC)[返信]



吉田城築城の出典は、牛窪記でしょうか???????????

ネット上で検索すると、今川義元の時代から、池田輝政の時代から、と記載してあるものもあります。 どれが本当なの?????????

今橋城という名前も、本当に最初から、今橋城だったのですか????ひょっとして、吉田城だったのでは?

1700年発行の牛窪記の記述は、信用できるのでしょうか?1500年頃のことなのに。

牛窪記に登場する今橋という地名、今川氏親の命令、というのは本当でしょうか????????

1700年発行なのに、著者不明の牛窪記を信用できるのか???--220.217.212.211 2007年3月9日 (金) 09:09 (UTC)[返信]

『牛窪記』に「文亀年中今川氏親三河今橋之辺ヲ見立テ、城ヲ御築アルベキ由・・・・依テ入道ガ淵ノ上、馬見塚ノ岡ヲ引キナラシ数千ノ人夫ヲ集メテ、永正ニ乙丑成就ナル」

今のところ、これを持って、吉田城の縁起としているようだが。1700年発行の牛窪記の記述だし、当時の史料の記述はないのか?--220.217.212.211 2007年3月9日 (金) 09:29 (UTC)[返信]

今橋という地名って、1700年に牛窪記に登場させて、1500年頃から使っていたと、捏造した可能性があるな。 なんか、吉田城の沿革って、うさんくさいな。--220.217.212.211 2007年3月10日 (土) 08:33 (UTC)[返信]

220.217.212.211さんへ
吉田城(今橋城)築城年代根拠として、永正2年11月の今川氏親発給、渡辺平内次宛判物があるのを知っていますか? また、連歌師柴屋軒宗長の手記(大永六年の項)に「今橋牧野田三宿所」の記述があります。 資料的調査を充分にしないで、推論で捏造などと個人的主張をしないで下さい。--故城一片之月 2007年3月13日 (火) 14:24 (UTC)[返信]


連歌師柴屋軒宗長の手記とは、続群書類従、明治44年(1911)に刊行ですよね????????????

大永4年(1524)6月10日 宗長、吉田牧野田三一(田口氏清〈古白の孫〉宿


永正2年11月の今川氏親発給、渡辺平内次宛判物>>>知りません。何と書いてあるのですか?


上の投稿者のかたは、サインをしましょう↑。

ウィキに引用する史料は、第1級のものでなければならないという編集方針はありません。また何をもって第1級とするかの定義もありません。ウィキでも、何をもって「メジャー」とするか過去にもめた経緯があり、解説があります。

--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月27日 (火) 17:36 (UTC)[返信]

遺構[編集]

静岡県湖西市の本興寺に有る奥書院と惣門ですが、延宝2年(1674年)という年と老中久世広之という組み合わせはウィキペディアの他の項目と矛盾します。本興寺はそのように発表していますが、延宝2年(1674年)の吉田藩主は小笠原長祐です。また、吉田藩主となった久世家の城主は息子の久世重之です。正しくは何なのでしょうか。--ウィキ豊 2007年12月27日 (木) 04:00 (UTC)[返信]

上記の補足をしますと、項目の説明では老中久世大和守広之が吉田藩主小笠原長祐(当時は臨済宗)に命じて、屋敷と惣門を法華宗の常霊山本興寺へ寄進させたと読めます。藩主小笠原長祐の実弟は幕閣で活躍した老中小笠原佐渡守長重である上、もとは小笠原家は信濃国の守護大名の家です。久世家が小笠原家に命令することは無理ではないかと言う疑問です。--ウィキ豊 2008年6月17日 (火) 23:46 (UTC)[返信]

史料での吉田城削除の件[編集]

Urlcool氏はよく記事の意味するところを吟味するべし。

  • 永正年代の今橋(吉田)城の築城が無ければ、伊勢新九郎(宗瑞・のちの北条早雲)の今川軍がこの地域に何を目標に攻め込んだのか説明できなくなります。
  • 今川軍は永正3年(1506年)7月から11月までの長期の包囲戦をやっており(同時代史料として今川氏親の書状が残っている→「永正3年9月21日付小笠原定基宛て伊勢宗瑞書状」(早雲寺文書)・「永正7年3月20日付け本間宗季軍忠状」(本間文書))、城郭設備が存在しなければ今川氏に比して弱小の国人勢力牧野氏が長期間持ちこたえたことも説明できない。
  • また、築城時期場所について、永正2年(1505年)11月の「渡辺平内次宛て今川氏親判物」で渡辺平内次が馬見塚(村)から渥美郡三相村の替え地を宛った理由は、渡辺氏の居館が今橋築城の予定地だったからと『宮島伝記』を引いて『豊橋市史』で説明されています。(→「其の方、馬見塚替地として渥美郡三相村に於いて、本銭百廿貫文、之を永々宛行い畢んぬ。・・・」(『今橋物語』)
  • 吉田城といわず吉田へ、吉田の城などと呼ぶから「吉田城」という城は存在は疑問というのはあまりに偏屈な論理です。その当時は「岡崎の城」の様な言い方は普通に見られる表現でしょう。
  • 大永6年(1526年)の柴屋軒宗長の手記に、「今橋田三宿所ニ而発句」(『三州吉田記』所収)とあり、「(天文15年)11月15日発給・天野安芸守宛て今川義元感状」に「今度、三州今橋之城小口取寄候時・・・」とあり、「今橋」の名称は存在が明らか。