ノート:原胤貞
コメントでのご指摘について
[編集]「政治家として優秀」「軍人としては二流」などいう単なる主観的判断は削除するのが妥当だと思います。事実を列挙した上で判断や評価は読み手それぞれに任せれば十分かと。219.121.61.130 2006年9月3日 (日) 03:17 (UTC)
おっしゃることは判りました、そういうことで、「胤貞の死後の・・子の胤栄はまた生実城を奪われ・・云々」というのは、原胤栄に書けば良いことと(私も)思いますので、取りあえず削除しました。また、「支配地では善政を行なって・・云々」というのも具体的な事が示されているわけではありませんので同じ類かと、(私は)思いますので、削除してみました(「政治家として優秀」だったというのは、戦わずして城を奪っていることから、「軍人としては二流」だというのは、勝ったためしがないことから、読み手が判断できるのですが、同じように「支配地で何をしたか」という事実を列挙し、読み手の判断に任せるべきでしょう)。
ところで、IP:221.113.44.204(会話 / 投稿記録)さんとIP:219.121.61.130(会話 / 投稿記録)さんは同じ方でしょうか ?
(ひょとして、IP:121.1.143.200(会話 / 投稿記録)さんとIP:124.155.26.24(会話 / 投稿記録)さんも)
以上、 --- IP:210.139.2.169(会話 / 投稿記録)(書いた時の IP Address)
- 「子の胤栄はまた生実城を奪われ・・云々」についての記述は、前の記述が生実城・臼井城をめぐる戦いについてで、その流れを受けての記述だと思います。原胤貞の主な事績に関してのその後の記述ですから、あってもいいと思います。特に原氏の関しての記事が少ない現状での、この記述の削除には賛成できません。--Saaki 2006年9月3日 (日) 14:53 (UTC)
- (Saakiさんへ)胤貞没後の戦いの話は本来原胤栄・生実城・臼井城など別の項目で書くべきことですが、それらの記事の作成・加筆を示唆する意味で残すべきだと(私は)判断していました(臼井城に少し記述があるようですね)。今回の削除は遺憾に思います。218.45.175.101 2006年9月3日 (日) 17:24 (UTC)
- (IP:210.139.2.169(会話 / 投稿記録)さん・IP:210.139.2.45(会話 / 投稿記録)へ)どうも個人的に恨まれてるようにも思えますが(笑)、原胤貞と直接関係のない話はやめたほうがいいかと思いますよ。(誰と誰が一緒か別人かは発言内容・投稿履歴などで判断してください)。単にあてつけるために削除されてるようにも思えますが、他の方の迷惑になるようなことはお控え願えませんか。218.45.175.101 2006年9月3日 (日) 17:24 (UTC)
- IP:124.155.26.24(会話 / 投稿記録)さんと同じ方だとしてのことですが、
- 恨んでいるのではなく「勝てば良い」という考え方には賛成できないのです。「勝つだけでは意味が無く、建設的前向きであれ」と思っている、ということです。なお、元々私は見るのが専門で、ここしばらくほとんど書き込みしておらず、これからもせっせと書き込むつもりはありません(というか、できません)。ですので他の方の迷惑になるようなことは無い筈だと思います。
- 人それぞれで考え方や意見に違いはあるかとは思いますが、それを乗り越えて、より良い Wikipedia にしていかれますよう期待しています。-- IP:210.139.2.169(会話 / 投稿記録) 2006年9月4日 (月) 09:49 (UTC)
- 結局、以前と同じように無責任な議論放棄とみなしてもよろしいでしょうか?あなたの編集に異議をとなえているのは少なくとももう一名いるわけですが。221.113.44.71 2006年9月6日 (水) 10:02 (UTC)
私は議論するつもりはありません。元々 Wikipedia は見る側です。そんなには暇があるわけではなく、たまには書き込むこともありまりますが、その場合ご提案申し上げて、後は時間の許された皆様にお任せするというスタンスにならざるを得ないのです。
今回に限ってこのノートに何回か書き込んでいるのですが、それはIP:221.113.44.204(会話 / 投稿記録)さんが独善的に見えますので、議論しているのではなくそれとなく諭しているということなのです。勿論私はIP:221.113.44.204(会話 / 投稿記録)さんの親でもなければ先生でもありませんから、受け入れられなくともしかたないとは思っています。
以上 -- IP:210.139.2.169(会話 / 投稿記録) 2006年9月6日 (水) 13:24 (UTC)
- 結局他の人から異議を出されたのはあなたの方だったことを考えると、独善的だったのはあなたの方だったようですがね。203.181.1.72 2006年9月20日 (水) 14:45 (UTC)
一応、千葉氏について最も基本的最新の研究書とされている千野原靖方氏の「千葉氏 室町・戦国編」(たけしま出版 1997年)によれば、元亀2年(1571年)に胤栄が千葉妙見社(現・千葉神社)の人事を承認した文書がありこの時点での家督相続が確実な事、天正2年に臼井城内の妙見堂を修繕した事(つまり城主だった事)、同3年に胤貞が隠居城として上総小西城に入った事、翌4年に胤栄が栄福寺に寄付した仏像に26歳という自己の年齢が書かれている事が判明しています。〈追記…天正7年(1579年)に中山法華経寺にて胤貞の回忌は不明だが法要が行われている〉つまり、胤貞の没年は天正3年(1575年)以後、小西城入りのソースである『千葉大系図』が仮に信用できないとしても胤栄が千葉氏筆頭重臣・原氏当主として発給した文章が1571年以前の存在が確認できない以上、この頃までは胤貞は健在だったと考えるべきではないかと思います(『千葉大系図』も問題があるとは言われていますが、既に隠居している胤貞の居城変更の年次を改竄などをしたりする理由はないのですから、胤貞死去は天正3年以後〈天正7年以前〉と判断して差し支えないとは個人的には考えます)。--水野白楓 2006年11月30日 (木) 22:59 (UTC) (追記、近年有力となっている永禄12年説も併記しました)。