生実城
生実城 (千葉県) | |
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城郭構造 | 不明 |
築城主 | 原氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 原氏、森川氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし |
指定文化財 | なし |
生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北小弓城、北生実城とも言われる。
歴史[編集]
千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城を築き、重臣原氏に守らせていたが、小弓公方にこれを奪われた。その後、1538年の第一次国府台合戦に勝った後北条氏方の原氏は領地を取り戻し、新たに北に2kmほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に、「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられている。
ただし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。このため、北生実を本城、南生実を支城をとらえ、連歌師の柴屋軒宗長が入った小弓館や小弓公方も北生実にあったと考えるべきとする研究者もいる。
1590年に後北条氏が滅亡すると、この城は徳川家康のもとのなり、西郷家員が支配した。その後、1627年に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩の政庁となった。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。
城の西側には重俊院があり、森川氏累代の墓がある。
構造[編集]
学園前駅入口から蘇我インターチェンジに抜ける県道沿いに位置する。標高20m前後の台地上に広がり、700~800m四方の規模である。
城の東部には、南北に掘られた空堀によって区画された大手口があり、県道の傍らに石碑が立っている。主郭は、北西部の角栄団地と呼ばれる住宅街の中にあったが、昭和40年代の宅地開発により破壊されており、遺構は残っていない。角栄団地内にある本城公園にかつての小字名が残り、千葉市の案内板が立てられている。
城内には、かつて御霊神社と呼ばれた生実神社があり、その西側に空堀が残っている。神社に隣接する飲食店のあたりが、近世に生実陣屋が置かれた郭である。
北生実上宿の交差点から南に入る道がかつてのバス通りで、森川藩の陣屋前に当たる。近世には町場が形成されており、「町並」の小字がある。
アクセス[編集]
- 京成千原線 学園前駅下車 徒歩15分