ノート:劉禅

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毛沢東の演説について[編集]

毛沢東が演説の中に「阿斗」を引用したのって何時でしたっけ?大躍進の頃かな?Kamakura 01:53 2004年2月5日 (UTC)

阿斗[編集]

劉禅の幼少名の阿斗は阿保(アホ)の語源となったらしい。--以上の署名のないコメントは、60.237.82.25会話/Whois)さんが 2005年7月28日 (木) 02:50(UTC) に投稿したものです。


劉禅は長男か[編集]

劉禅って、本当に劉備の長男?高島俊男氏の「三国志 きらめく群像」 によると、劉備は四度も妻子を置いて単騎で逃亡しているとあるよ。 そのうち四度目は二度と劉備の所には戻らなかったとあるけど… (いずれも呂布と曹操との戦いが原因だが) その中には劉禅の兄と思われる人物がいてもおかしくはないが…--以上の署名のないコメントは、203.205.154.41会話/Whois)さんが 2006年2月4日 (土) 08:51(UTC) に投稿したものです。


高島俊男が長男かどうか怪しいと言っているのでしょうか?--代言人 2006年2月4日 (土) 13:08 (UTC)[返信]

上の人の高島俊男「三国志 きらめく群像」の引用は、かなり不正確ですね。妻子が何度も捕らえられた事を挙げ、蜀に落ち着くまでの劉備の妻子のことは良くわからないという記述はあります。また正史には、劉禅が劉備の何番目の子であるか記述はありません。劉禅が嫡男であるのは間違いないですが、長男であると断定するのは無理があると思います。--Jinnsg 2006年9月8日 (金) 03:15 (UTC)[返信]

司馬昭との問答[編集]

「演義での劉禅」の司馬昭との問答が演義じゃなくて横山光輝三国志の台詞になってるんですが、修正しちゃっていいでしょうか?--210.156.131.128 2007年4月22日 (日) 11:56 (UTC)[返信]

1ヶ月経ってしまいましたが、修正しておきました。--210.156.142.164 2007年5月23日 (水) 13:06 (UTC)[返信]

劉禅に関する異説[編集]

蜀書後主伝に 漢中にて劉備とはぐれた劉禅を劉括なる者が買い取り、養子として買い取り育て上げ、妻を娶らせた。 それともうひとつ 簡という劉備の舎人が、劉備が入蜀したさい、漢中に派遣され、はぐれていた劉禅を捜し当てた。 と言う記述があります。記述する方が良いでしょうか?瑞雲 2007年7月2日 (月) 06:06 (UTC)[返信]

『魏略』の説ですね。この説をご存知であれば、裴松之が『魏略』を引用した直後に「妄説である」と強く批判している事もご存知かと思います。この説が三国志の他の記事と整合性を有しないのは裴松之の主張の通りであり、重要性は低いと考えます。仮に本文中に記述するのであれば、信憑性が極めて低い事も併せて述べる必要があるでしょう。--219.126.203.50 2007年7月3日 (火) 15:47 (UTC)[返信]

在位期間ランキングについて[編集]

  • [1]の編集ですが、「中国史を見ても歴代4位という脅威の在位期間」というのは正確なのでしょうか。そもそも「君主」はどこまでを含むのか分かりませんが、私が調べた限りでも赧王 (周)の59年、武帝 (漢)の54年、万暦帝の48年、康熙帝の61年、乾隆帝の60年と、5人がより長い在位期間であり(この場合歴代6位)、仮に「皇帝」限定としても歴代5位です。一旦削除しておりますので、きちんとしたソースをお持ちの方おられましたら、どうか再加筆していただきたく思います。--Sat666 2007年10月3日 (水) 15:38 (UTC)[返信]

陳祗について[編集]

いろいろと記述を入れ替えてるうちに陳祗について言及した部分を削ったままにしてしまったのですが、戻す必要があるでしょうか。--Kangoshiyouichi 2009年5月24日 (日) 13:46 (UTC)[返信]

評について[編集]

評に関する部分を修正・削除しました。

陳寿の評に挟む形で記述されていた『孫皓のように残虐な振る舞いは行わなかったが、進んで善政を布いたわけでもない。隣国の呉では、政情不安定のため謀反や反乱が頻発していたが、蜀では諸葛亮の死後、三相らが政治を引き締めており、謀反や反乱は起きなかった。』の部分を削除しました。陳寿自身はこのような主旨を全く書いておらず、最近はwikiを知識源とする方が多い中、この内容を陳寿自身のものと勘違いされている方が見受けられますので、削除したほうが良いと判断しました。

また『「あれほど出兵しながらも、みだりに恩赦などを行わなかった点は、なかなかに賢明である。しかし、諸葛亮が死んだ後の事を考えれば、優劣は歴然としている」と締めくくっている。』の部分ですが、この訳文だけでは劉禅が統治に関わるようになってから恩赦を乱発している伝本文の記述と一致しない解釈をされかねず、誤解を招く恐れを感じたので、「諸葛亮の存命中は」という主旨がはっきり伝わるよう修正しました。

尚、呉の薛珝の評価は同時代人のもので最重用と考えますが、逆にあまり知られていないように思われたので、追記しました。--114.189.121.214 2015年1月15日 (木) 05:32 (UTC)[返信]

意見[編集]

以前の記述を復活させようと思いますかいかがですか?期限は本日まで 今人よ会話2020年9月23日 (水) 13:01 (UTC)[返信]

ありがとうございます。意見を採用させていただきます。 今人よ会話2020年9月30日 (水) 22:50 (UTC)[返信]