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ノート:内ヶ崎儀左衛門

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改名提案[編集]

  • 内ヶ崎儀左衛門義隆ではなく、内ヶ崎儀左衛門内ヶ崎義隆に改名すべきかと思われます。真ん中の通称にするか、後ろにするかです。また「﨑」の字でリダイレクト、もしくは「崎」をリダイレクトにしても良いと考えます。--紫巻紙会話2023年7月20日 (木) 08:41 (UTC)[返信]
    • 12代目とのことですので、内ヶ崎義隆内ヶ﨑義隆への改名を提案します。--紫巻紙会話2023年7月20日 (木) 08:43 (UTC)[返信]
    • 内ヶ崎儀左衛門への改名を再度提案します。--紫巻紙会話2023年7月21日 (金) 09:35 (UTC)[返信]
      反対 こんにちは。記事名を付けた者です。端的に説明致しますと改名には反対です
      まず、この記事名が最も適切な理由を説明する前に、名前と諱のシステムやこの人物についての認識のずれが生じていると思われるので説明致します。『真ん中の通称にするか、後ろにするかです』という部分についてですが、真ん中と仰られている「儀左衛門」は通称ではなく正式な名前です。富谷町史宮城県職員録官報 1897年12月16日にもあるように名字が内ヶ﨑で名前が儀左衛門となっています。後ろの「義隆」はです。詳しくは諱の項目を参照して頂けると分かると思いますが、時の明治政府は通称と諱を併称することを公式に廃止し、すべての国民は戸籍に「氏」と「名」を戸籍登録させました。これにより、それまで諱や通称などを持っていた者はそれぞれ自身が選択したものを「名」として戸籍登録しました。伊藤春輔博文は諱の「博文」を、山本権兵衛盛武は諱ではない「権兵衛」を登録したように、内ヶ﨑儀左衛門義隆は「儀左衛門」を登録したため正式な名前は内ヶ﨑儀左衛門となり、記事名とするならば理想はこれになります。
      次に、内ヶ﨑儀左衛門という人物と内ヶ﨑家についてですが、確認できる中で第7代の内ヶ﨑儀左衛門信義、第8代の内ヶ﨑儀左衛門繁義、第11代の内ヶ﨑儀左衛門義詮、第12代の内ヶ﨑儀左衛門義隆が存在します。
      以上の内容を整理してどの記事名が適切かを考えます。まず、「内ヶ﨑儀左衛門」への改名について、紫巻紙様も仰られたように複数存在するため曖昧さを回避できず、適切ではありません。次に、内ヶ﨑義隆についてですが、戸籍に登録されておらず、この記事の内ヶ﨑儀左衛門を指す際に単独で用いられることのない諱を記事名にするのは適切ではないと考えます。これは他の人物で置き換えると、伊藤博文を伊藤春輔に、山本権兵衛を山本盛武にするのと全く同じです。それに加え、内ヶ﨑義隆といった表記は今のところ見つかっておりません(国立国会図書館デジタルコレクションの検索結果も参照)。
      他の文献や資料でこれらの内ヶ﨑儀左衛門を区別する際は、姓名と諱を現行の記事名のように「内ヶ崎儀左衛門義隆」として併せて表記しており、富谷町史や内ヶ﨑家の墓碑銘などで用例がみられます。
      以上の理由により、現行の内ヶ崎儀左衛門義隆が曖昧さを回避できなおかつ用例も存在する適切な記事名だと考えます。「﨑」もしくは「崎」のリダイレクトの作成については賛成です。--七厩拓会話2023年7月20日 (木) 14:09 (UTC)[返信]
      戸籍を「儀左衛門」としたなら、内ヶ崎儀左衛門に改名するべきではないですか?
      当代以前の7、8、11代の記事も立てられそうにないし、銭屋五兵衛のように最も名高い人物のみを指しての記事も多いわけです。
      戸籍上「儀左衛門義隆」としていないのならば、尚更のことと思われます。--紫巻紙会話2023年7月21日 (金) 09:33 (UTC)[返信]
      賛成 11代内ヶ崎儀左衛門義詮の記事も後々余裕があれば立項する予定ではありましたが、確かに明確な立項が認められないのであれば、内ヶ崎儀左衛門もしくは内ヶ﨑儀左衛門への改称でもよい気がしてきました。--七厩拓会話2023年7月23日 (日) 04:16 (UTC)[返信]
  • Wikipedia:コメント依頼で幅広くご意見を伺うことにしました。--紫巻紙会話2023年7月21日 (金) 09:49 (UTC)[返信]
  • 報告立項者の賛成を得らえましたので、「内ヶ崎儀左衛門」に改名し、内ヶ崎義隆、内ヶ﨑儀左衛門、内ヶ﨑義隆のリダイレクトも作成しました。--紫巻紙会話2023年7月28日 (金) 09:27 (UTC)[返信]