ノート:全国部落調査

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1935年全国部落調査について[編集]

岡山県欄に、明治維新末期の士族流人(公にはサンカとされる)が掲載されています、私達は県内各地追放当初移住地約23箇所のうち、約半数が掲載されています、津山・勝間田・御津・建部・落合・高梁・新見南部などが掲載されています、英田・柵原・吉井・佐伯・和気田原などは掲載されていません。また1軒の場所、農村集落に入り込んでいる少数軒の所は掲載されていません、英田~和気田原間は村外れや単独集落でも掲載されていません、柵原町飯岡地区元町議秋山高司(故人)の証言に私達について「あそこは侍が俸禄をもろうた後に・・・」とありますが、これと吉井川中南部の非掲載が関連しているかもしれません、大正前後の当地飯岡村の村長に秋山姓、石川姓の者が見られ証言者元町議とのつながりが見られます、書籍の調査者がそれまでの調査書や、県下の村長に聞き取りでもしていたとすると、旭川水系の村長は没落武士を知らず、解放同盟の意向と同様調査当時の生活実態等により掲載に至っていると考えられます、解放同盟・全解連は解放令の後追放された私達も川原住居等により(起源不明と無理に捉えていた?)部落と考えていました、宮部龍彦は本誌に対し「部落で無い所は多数掲載されています」としています、解放令の後の没落武士に法律上は差別・被差別の理論は当てはまらないはずです。岡山県は自ら追放した家来を起源不明に封じ込め、津山西ハ出(にしやいで)地区をエセ同和地区にしていました。岡山藩没落士族子孫記す 2022-8 参考文献「岡山藩没落士族」--[[利用者:杉平秀二 2022年8月10日 (水) --杉平秀二会話2022年8月24日 (水) 00:19 (UTC)[返信]