ノート:元禄赤穂事件/削除

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>>なお、明治元年十一月五日、十六歳の明治天皇が権弁事の中山献を勅使として高輪泉岳寺へ遣わせ、大石内蔵助良雄らの墓を弔して金幣を下賜している。 権弁事:高級事務官(明治元年六月月給三百両)

の文章は勅使の16:18 2004年5月3日の版からのカット&ペーストです。ノート:勅使/履歴らりた 12:56 2004年5月3日 (UTC)

この項目の構成について[編集]

「経緯」の節を大幅に加筆して、事件のおおまかな経過を書きました。この項目の構成は、「経緯」の節で事件のおおまかな経過を解説し、その他の節で個々のトピックの補足説明になると思います。 ところが改めて全体を読み返すと、どうやら「経緯」以外の節が相互につながっていた形跡があることに気がつきました。「経緯」の節が別途立てられたのは最近のことで、元もと「経緯」以外の節は補足説明ではなく、全体でこの事件の経過を書いていたらしいのです。正直なところこれでは事件の経過が分かりにくかったと思います。調べてみたところ、元来、この項目で主に執筆していた方は、色々あって今はウィキペディアから離れているようです。この際、(節の削除も含めて)大幅にこの項目の構成を手直しした方がよいと思います。ご意見をお願いします。味っ子 2005年2月7日

忠臣蔵まわりはけっこう雑多に描かれていて、弄りたいのですけど何処をどう手を付けて良いやら・・って状態ですね。

とりあえずダイジェストで事件の全貌がわかる方が利用者にとって便利だと思って概略は追加しました。いちいち通説ではこうだが~と脇道に剃れちゃうのもどうかと思いますし。--武蔵野武蔵 2005年2月7日 (月) 13:13 (UTC)[返信]

概略を追加したのは正しい判断だと思います。わたしとしては去年の5月にこの項目を立てて大部分を書いた方、履歴を見れば分かりますが、百楽天さんのやった編集方針には賛成しかねます。百楽天さんは引用を多用した資料的な文章を断片的に羅列して、全体の経過を説明しようとする手法を取っていました。これが経過を説明していたことを発見したときには正直驚きでした。分かりにくいです。手直しするとして、百楽天さんの書いた「フリーパス」以降の文章を(少し書き直して)補足説明として活用するか、それとも消してしまうかということが問題です。引用を多く使っているので(例えば史料の読み下し文で)将来著作権上の問題が発生する恐れがあります。味っ子 2005年2月8日


(*)元禄赤穂事件 - ノート[編集]

全削除依頼。Wikipedia:削除依頼/百楽天氏投稿記事の削除に従い、百楽天氏の最終版から大幅な加筆があるため分離して削除依頼に掛けます。審議よろしくお願いします。Tietew 2005年3月10日 (木) 11:41 (UTC)[返信]