ノート:偶像崇拝

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仏教と偶像崇拝[編集]

仏教の場合も、偶像崇拝は本来控えられていたのだが、どうも昔話の中の釈迦を想像するだけでは物足りなくなって、ギリシア文明との交流の中でとうとう偶像が出来てしまった。

バーミヤンの石仏破壊も、「宗教的に破壊された」という意味では、単に「文化財として生き延びるだけ」よりは、かえって望ましい事だったのかも知れない。 たかが仏像と一緒に、真の信仰が壊れ去るわけではない。

ところで、越前大仏が結構寂れているらしいのですが、採算が取れないからとかいって、放置されて朽ち果てるようなことが起こらないだろうかと、そっちの方が心配です(笑) --以上の署名のないコメントは、218.222.50.235会話/Whois)さんが 2003-12-07 16:26:17 (UTC) に投稿したものです。

インド美術研究から、仏像使用はヘレニズム文化との接触より早いことが判明しています。
「偏見」は中立的記事にふさわしくないので、「考え」になおしておきます&
無難である、うんぬんはそもそも百科事典の記事としてふさわしいのだろうか。ううむ。Aphaea 以上のコメントは、221.17.80.159会話投稿記録)さんが[2004-02-17 04:02:45 (UTC)]に投稿したものです。
何と言うか、記事の上での宗教論争は止めて欲しいです。私はキリスト教に関しては無知ですが。--らりた 04:21 2004年2月17日 (UTC)
そうですね。でもどの言語版でも宗教関係は政治関係とならんで、edit war が起こりやすいところみたいです……(ため息)--Aphaea 2004年8月5日 (木) 05:29 (UTC)[返信]

日本の教会についての記述[編集]

日本の教会は、自由主義神学の高等批評によって信仰が骨抜きにされており、植村神学が簡易信条主義であったことから、異教の偶像崇拝に対して抵抗する力を持たなかったと指摘されている[14] 。

 ムムムこの記事は、中立性に疑義があるというより、明らかに偏見ですね(笑)。
自由神学に原因があるのかどうか。かつて日本にて起きた大規模な迫害、日本二十六聖人殉教事件と浦上四番崩れです。この二者はそもそも聖書信仰vs自由主義神学という対立軸が起きる前で起きたことで、別のバックボーンがあるような気がする。
 このウィキでは聖書信仰を美化するような記事が多々見受けられるが、これは百科事典としてあるまじきことである。聖書信仰のような信仰が信仰としてよいものなのかどうか。誤解を与えるというか、謝った理解を与えてしまう恐れがあるキロロ2012年2月28日2:57(utc)。以上のコメントは、60.36.42.219会話/投稿記録/Whois)さんが[2012-02-27 17:58:31]に投稿したものです。

偶像破壊と“偶像崇拝を拒んで殉教した話”の混同を除去_2011年1月[編集]

偶像破壊と偶像崇拝を拒んで殉教した話は全く別の話であるのに、ここで[1]細部の編集で一緒にされています。出典の無い記述によって誤解が生じていることもあるでしょうし、出典要求タグが付いてから久しいので除去します。--イザヤ 2011年1月19日 (水) 17:18 (UTC)[返信]

「二元論や多神教なども...偶像崇拝」とは[編集]

また二元論や多神教なども世の知恵に過ぎず偶像崇拝である。

ここが、よくわからなかった。なぜそう言えるのか、その理由も書いて欲しい。--2400:4053:4341:5900:69A0:3868:5F87:5A3E 2023年1月1日 (日) 05:36 (UTC)[返信]