ノート:佐々成政

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不必要に詳細な記述(子孫など)を一部を省略した他、極力簡潔を心掛けながらも大幅に加筆修正を加えました。--以上の署名のないコメントは、219.30.132.95会話/Whois)さんが 2005年7月12日 (火) 15:04 に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

鉄砲の名手かどうか[編集]

成政が鉄砲の名手だというのに、信頼できる情報源はあるのでしょうか? 私が知る限り武功夜話程度にしかそういう記述はないと思ったのですが。--Blowback 2008年1月14日 (月) 11:33 (UTC)[返信]

鉄砲の名手のくだりはとりあえずな形でコメントアウトしました。--Blowback 2008年1月31日 (木) 09:07 (UTC)[返信]
了解しました。確かに一部「佐々成政のすべて」には自分もちょっと違うのではないかと思う部分が散見できましたので、もうちょっと他の資料ともつき合わせて吟味していきたいと思います。ただ、「そのように考えている、論じている識者がいるor資料がある」という部分は事実でありますので、逆の意見や信憑性が薄いと思われる記述については、それを補記する、もしくは否定する根拠も必要となってくると思います。また所謂「軍記物」と呼ばれる資料に信憑性が疑わしい部分が多いのも事実ですが、これもまた「そうではない」という資料が提示できないと、「そういう事を書いた書物もある」という事実には勝てませんので、情報の充実の為にも協力をお願いします。自分の方でも時間があれば他の資料を見てみますが。ちなみに「鉄砲の名手である」という部分については自分の編集ではありませんので、御了承下さい。--ポテンシャル0 2009年3月3日 (火) 18:02 (UTC)[返信]
下のセクションを書くのが遅かったせいで誤解を招いてしまったようですみません。この節は署名を見ていただければお分かりのようにすいぶん前に書いたものです。で、ひとつだけ。記事のソースにするにはそれなりの資料でなくてはなりませんし、一次資料は出典として認められません。それを「○○には××とかかれている。」と一説として書くのは許容されるとは思いますが。詳しくはWikipedia:独自研究は載せないをご覧ください。--Blowback 2009年3月8日 (日) 15:42 (UTC)[返信]

「人物」セクションにおける独自研究について[編集]

2009年2月28日 (土) 04:29の版から引用し、この時点での当該セクションにおける独自研究と取れる(と思った)箇所を示します。

大の秀吉嫌い、猪突猛進型の猛将として描かれることが多いが、後世に作られた物語などで脚色された影響が大きい。中世の越中は河川の氾濫による水害に悩まされていたが、成政は僅か数年に過ぎない越中統治期間に堤防を築き水害を防いだため領民に慕われた。堤防は済民堤、佐々堤と名付けられ現在もその遺構が残る。

「領民に慕われた」ことを否定するわけではありませんが、このような評価の記述には出典を示すべきだと思います。

その腕を信長に高く買われたことから国持大名までに出世した。成政も信長の実力主義の恩恵を受けた一人である。秀吉嫌いは後世の創作もあろうが、織田信雄が降伏した後も家康と共謀して叛旗を翻そうとするなど、織田氏(信長)に対する忠誠心は厚く、秀吉嫌いが事実だったとの印象も見受けられる。

成政が実力主義の「恩恵」をうけたとする出典を示すべきだと思います。そもそも佐々氏は成政の代で成り上がった家ではありません。

一方では城兵の越後への帰還を認める条件で開城した魚津城の兵士を虐殺して上杉景勝の恨みを買う、離反した土肥政繁の13歳になる次男を籠城する土肥軍の前で磔刑にするなど、必要以上に敵を作る部分も認められる。海音寺潮五郎はこの点を指して「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と厳しい評価を下している。

「認められる」という記述は情報をもとに(自己)分析したものととれます。

大の秀吉嫌いで、信長存命時には同じ北陸方面で戦ったことから、秀吉の敵対者として柴田勝家とひとくくりにされることが多いが、一時期、上杉方に奪われた富山城の攻略では大将とは思えぬ取り乱しぶりで勝家と大喧嘩したという記録が前田家の文書に残っており、必ずしも反秀吉という面で親密な関係にあったとは言い難いようだ。実際、本心はともかく勝家の滅亡後は、あっさり抗戦する事なく剃髪し秀吉に降っていたり、上杉家への備えという建前もあるが、賤ヶ岳の戦いでも僅かな援兵しか派遣していない事などから、ことさら信長死後は、お互い背後に敵を作りたくないという利害関係上、結んでいたという見解が強い。

ここは全部ですね。「大の秀吉嫌い」の出典(上の記述でこれを事実ではないように書いてるのに)、「言い難いようだ」という(自己)分析、「あっさり」秀吉に降ったのかどうか(まあ、あっさり降らざるを得ないでしょうが)、上杉家の動きを取り上げず、「上杉家への備え」が建前だったことの出典、「賤ヶ岳に僅かな兵しか送っていない」(送っていないのか送れなかったのか)ことを勝家との関係に結びつける(自己)分析。

あと、成政と勝家が喧嘩したのって魚津城攻めの時じゃなかったでしたっけ? (すみません、眠いので後で調べます)
ここまで書くと自分で記事を直せばいいじゃん? と思う--Blowback 2009年3月3日 (火) 18:32 (UTC)[返信]


全部が全部、自分が編集に関わった箇所ではないのですが、いくつか。

・「領民に慕われた根拠」→結局、集客率の問題で、立ち消えになりましたが富山県で「佐々成政記念館」というのが設立される動きがあったそうです。地元民に慕われていなければ(暴君として忌み嫌われているのならば)このような動きは起こらないと思います。

・「実力主義の恩恵をうけたとする根拠」→確かに成政の前から織田家に属す譜代家臣ですが、1国を任されるまでの立場に抜擢されたのは、佐々家中においては成政がはじめてではないでしょうか?その点を考えれば実力主義の恩恵を受けた武将の1人ではないでしょうか?長らく譜代家臣として織田家に仕えても国持ち大名に取り立てられなかった人物も沢山いるわけですし。

・「認められる」という記述 「~と評価する識者もいる」と書き換えればよいのでは。単純に記述の仕方の問題ですね。太字で強調された部分は消してもいいかもしれません。

・「勝家と成政の仲について」 これも何か出典があったと思います。誰それがそのように発言しているという出典は出せると思いますが、自分は図書館で書籍を借りて読むタイプなので、再調査には時間がかかるかもしれません。とりあえず個人的見解ではなく、そのように考えている識者もいる、という引用だったと思います。--ポテンシャル0 2009年3月4日 (水) 09:38 (UTC)[返信]

ポテンシャル0さんのご意見は分かりましたが、上の二つにおいては、それだけでは独自研究ではないことを立証することはできない点をご理解ください。わたしだって「これ全部ウソだろ?」などと思ってるわけではありません。
> 「~と評価する識者もいる」と書き換えればよいのでは。
残念ながら誰がどこで言ったか書かないと意味がないんですよ。Wikipedia:検証可能性をご覧ください。--Blowback 2009年3月8日 (日) 15:42 (UTC)[返信]
了解です。自分が言いたかったのは「~と評価する識者(具体的に誰なのか)がいる」という補記を付けられれば、良いのではないのでしょうか?という事です。言葉足らずで誤解されたのならすみません。自分が編集した分については、確か出典があったはずなので、時間があれば再調査してみたいと思います。ただ、列挙された箇所を全て私が編集したわけではないので、そこは御了承下さい。他の編集者さんにも情報提供・出典の明記などの御協力をお願いしたいところです。なかなか全ての点について全国区でもない人物の事績を個人で調べるのは大変ですので。--ポテンシャル0 2009年3月9日 (月) 09:31 (UTC)[返信]

出典が一切追加されていませんので、人物節を除去しました。--Backblow会話2014年2月7日 (金) 17:45 (UTC)[返信]