ノート:今川貞世

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適切な項目名は「今川貞世」か「今川了俊」か?[編集]

どちらかと言えば、「了俊」の方が一般的なようにも思えますけど・・ 武蔵野武蔵 2004年7月17日 (土) 06:28 (UTC)[返信]

「今川了俊」案に賛成です。中には諱で統一すべきという主張もありますが、百科事典である以上、著名な名称の方がいいでしょうし、また諱不明な人がいる以上それは徹底できない部分もあります。また、正式名称とするならば、「今川伊予守源貞世了俊入道」とでもしなきゃなりません。もしくは源貞世など。今川貞世自体がもはや通称です。よって、著名な今川了俊案に賛成します。--Suifu 2005年9月25日 (日) 03:08 (UTC)[返信]

そうですよね。ただ、南北朝関係記事の大半を「今川貞世(了俊)」で書いちゃいました・・--でここ 2005年9月25日 (日) 03:18 (UTC)[返信]

横から口出しすいません。wpにはリダイレクトという便利な機能があるので、こだわる必要はないのかも知れませんが、やはり百科事典である以上、一般的な呼称に流されることなく、諱を項目名として採用すべきと考えます。実際に手元の辞典や百科事典で「今川了俊」を見てみるといずれも「→今川貞世を参照。」と書いてありました。武田信玄や上杉謙信や坂本龍馬くらいなら、まあやむを得ないのでしょうが、あまり通俗的な呼称を項目名とするのは、百科事典としての信頼性に悪い影響を与えると懸念しちゃう訳です。紙製の百科事典なら、最初に統一性を保つための編集方針として「人物名は判明していれば諱を採用する。」とか決めるところを、wpは試行錯誤でやってってますから、一つの方針を徹底するのは難しいと判っているつもりなんですけどね。あとWikipedia‐ノート:スタイルマニュアル/人物伝での議論も参考になりそうです。--しもー(shimoxx) 2005年9月26日 (月) 17:54 (UTC)[返信]

仰せの通り、諱でという点は非常にうなづけるのですが、いかんせん徹底化できない点でバランスを欠くことにならないか懸念するのです。確かに正式名でというのはその通りなのですが、そもそも「今川貞世」自体、通称に過ぎません。私は著名な表現を採用すべきかと思いますが。。。末尾で仰せの徹底できないという点こそがそもそもネックなのではないかと思いました。--Suifu 2005年9月30日 (金) 07:46 (UTC)[返信]

いやいや、今川貞世は通称ではありませんよ。貞世は歴とした諱であり、今川六郎とか今川左京亮とかが通称(通り名)です。また、管見では、今川了俊の方が今川貞世よりも著名とは必ずしも言えないように思えます。そもそも了俊とは法名、すなわち俗世と縁を切った時に名乗る名前ですから、姓(源)や名字(今川)と結びつくはずのないものです。当時、彼が「今川伊予守貞世」などと呼ばれることはあっても、「今川了俊」と呼ばれることは決してありませんでした(「了俊」だけならありましたよね?)。そう考えると、無自覚に「今川了俊」と呼ぶのは、ちょとマズイ訳で、こうゆう誤認を解いていくのも百科事典の役割ではないかなあ、と思うのです。という訳で無理に「今川了俊」へ変える必要もないのではないでしょうか。--しもー(shimoxx) 2005年9月30日 (金) 17:29 (UTC)[返信]

色々ご指摘有難うございます。断言した形になってしまいましたが、名字と法名のお話が合点がいきました。ただ、ここの変更云々は全体の流れとの兼ね合いも見るとして、少々、徹底されない部分が最後まで気になるのですね。私のつくった項目にも諱でないものはあります。しかし、いわゆる流布した名で官位を受け、正式な文面でも用いられている点から勘案して項目名にしました。こうした諸々の点も含め、今川了俊や武田信玄等の記事も検討が必要かなと思います。--Suifu 2005年10月1日 (土) 00:53 (UTC)[返信]

前回の補足。当時「今川了俊」と呼ぶことはなくとも、「今川前伊予守入道了俊」とか呼ぶことはあっただろうと思います。ただ、この場合も、「今川前伊予守入道」と「了俊」という1人の人物が持っていた2つの呼び名を並べて書いたものと見ることができます。それはそうとして、今まで「今川了俊」という呼称を否定してきた訳ですが、通俗本の世界でも歴史学の世界でも「今川了俊」という呼称がある程度受け入れられていることは否定できない事実です。ですんで、「今川了俊」が完全にイクないという訳ではありません。百科事典の項目名としては「今川了俊」より「今川貞世」の方が良いと言えるだろうね、というだけの話です。最適の項目名というのは人の考えそれぞれであって、統一的なルールを徹底することはなかなか難しかろうと思うのです。項目名の付け方というのは、かなり重要な問題な訳ですが、ある程度の許容範囲内であれば、項目名にこだわるよりも、項目内容の充実にこだわった方がよほど生産的だと言えましょう。(こう言いつつ自分も「梶川与惣兵衛」を「梶川頼照」へ移動した前歴があるのですが、それにはまた他の理由がある、などと言い訳してみたり・・・。)
とりあえず「今川貞世」と「今川了俊」については、言いたいことを述べましたので、仮にどなたかが「今川了俊」へ移動されたとしても、以上の議論を考慮された上でのこととして、自分は文句を申し述べることはいたしません。(内心ムッとするかも知れんけど(‘-‘*)テヘッ)
あと、ここは今川貞世のノートなので、歴史人物の項目名に関する議論は、あっちとかそっちで提起すると良いでしょう。--しもー(shimoxx) 2005年10月5日 (水) 15:09 (UTC)[返信]

貞世の京都から九州への出発時期について[編集]

貞世の京出発はもっと早かったのではないか。広島大野浦に9月に着いているが、道ゆきぶりでは京を2月の出発となっているように記憶している。--以上の署名のないコメントは、221.97.150.40会話/Whois)さんが 2007-01-25 15:16:21 (UTC) に投稿したものです。

情報 上で221.97.150.40さんが参照している版は、投稿日時から推すに当記事の 2007-01-23 01:54:29 の版 と考えられます。言及されている『道ゆきぶり』は、了俊の手になる紀行文です。
上の稲田氏による本文校訂と注釈(『岡山大学教育学部研究集録』第89巻第1号)では、冒頭本文を「如月廿日夜深く、霞みつつ山の端近き月影に、中なる川うち渡すほど、袖の雫のいとところせき旅の衣の、朝立ちそむるだに、かくしほれぬるに、[...]」と置き、「旅立ちの年時は明示されていないが、渡辺世祐氏は内容から判断して、了俊が応安四年1371)、九州探題となって、大宰府に赴くときのものと考証された。このことは、後に紹介する書陵部蔵桂宮本「道行觸」の傍注によっても確認できる。/ 2月20日に京都を出発、播磨、備前、備中、備後、と山陽道を西下した了俊一行は、やがて安芸国に入り、[...]」と解説を置いており、『道ゆきぶり』の記述を、1941年(応安四年)2月20日に京を出立した、と解しています。(なお、「渡辺世祐氏は~」との記述には、渡辺世祐「足利時代の山陽道」(『歴史地理』第4巻第8号・第9号・第10号、明治35年8月・9月・10月)と註あり。)--Yumoriy会話2023年8月26日 (土) 15:55 (UTC)[返信]